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瀧安寺~箕面大滝~勝尾寺巡礼

 9月11日早朝、大阪・箕面(みのお)の瀧安寺(りゅうあんじ)に参拝。先週(2018年9月4日)の台風による倒木で被害を受けたことを知り、お参りはできるとのことなので初めて訪れたのでした。まだ朝7時前、参拝している人も少ないだろうと思っていましたが、参道にはすでにお参りを終えたと思しき人・人・人・・・。地元の方たちのようです。瀧安寺の奥にある箕面大滝は修験道の開祖・役行者が修行された処であり、さらに奥にある天上ヶ岳は、役行者が昇天された処。江戸時代前期の禅僧・鈴木正三和尚は、「扨(さて)も役行者はでかい修行者で在(あっ)たよ」と述べましたが(「驢鞍橋」)、役行者のドデカさを実感させられました。
 瀧安寺の庫裏は、屋根に裏山の大木が倒れて痛々しい姿・・・。


本堂(弁天堂)へと登ってゆくと、役行者の遠忌ごとに起てられた供養塔があり、宝篋印陀羅尼と役行者ご宝号をお唱えしました。


役行者は斉明天皇4年(658)、箕面の滝で修行していた時、弁才天のご助力で悟りを開き、お堂を建てたとのこと。(「元亨釈書」には、滝で修行中、夢に龍樹菩薩が現われたとあります。)行者堂、弁天堂と順拝し、6月の大阪北部地震、7月の西日本豪雨、そして今月(9月)の台風21号による犠牲者のご冥福と、被災地の復興成就をお祈りしました。
 瀧安寺から奥の「滝道」は、まだ倒木多く通行止、滝へ瀧安寺から行くことは、まだできません。参道を少し戻って途中から西江寺(さいこうじ)へと登ってゆきました。


斉明天皇4年(658)に役行者が滝で修行中、大聖歓喜天が示現され、日本最初の歓喜天霊場として開かれたとのこと。西江寺から上への山道は通行止ではなく、倒木を避けつつ登ってゆきました。聖天山の展望台からは、南に大阪市街と、関西空港へ向かうと思しき飛行機。


一週間前(9月4日)に台風による高潮で冠水した関西空港の運行は、まだ一部分のみです。北には瀧安寺が見下ろせ、その背後に天上ヶ岳辺りを遥拝。


さらに山道を登ってゆくと、平尾愛宕大権現社がありました。


京都の愛宕山は、役行者と泰澄大師(白山の開山者)が開かれたと伝わります。登ってゆくとやがて府道に出、山腹の府道を登ってゆきました。谷底の滝道に下る山道は、通行止です。


 8時に風呂谷口から風呂ヶ谷の山道を上へ。


クモの巣かぶりつつ雲隣展望台へ登り、大阪市街を遠望。


展望台から谷側へ山道下ると箕面大滝入口に出、8時半に大滝に着きました。


瀧安寺からの滝道は通行止で、茶店もトイレも閉まっています。


滝は水量豊富、勤行を修し、たび重なる天変地異からの、当地を含めた被災地の復興をお祈りしました。


 箕面大滝から箕面川沿いの府道をさらに上流へ。根こそぎ倒れた大量の樹。


天上ヶ谷から天上ヶ岳へ上る山道も、立入禁止となっていました。


天上ヶ谷の林道は、おサルさんの調査のため人間は立入禁止とのこと。「箕面山サル生息地」は国の天然記念物となっており、餌をやると条例により罰せられるそうです。


山を見上げて役行者を拝み、府道をさらに登ってゆきました。
 「政の茶屋園地」から、通行止となっていない山道を勝尾寺方面へと放浪。山中にはけっこう倒木があります。


勝尾寺の裏山は通行止のよう、一旦、府道を越えて再び山中を登ってゆくと、10時頃に勝尾寺旧参道に出ました。南側からの参道です。南側へ旧参道を登ってゆくと、「八天石蔵」という遺跡がありました。


寛喜2年(1230)に勝尾寺が境内の境界として設けた八つの石蔵で、中には方角に合わせて四大明王と四天王の像が祀られていたそうです。境内南の此処に祀られていたのは、南方を司る軍荼利明王。四大明王と四天王のご宝号をお唱えし、北へと下ってゆきました。すると、四智如来(阿シュク如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来)の種字が彫られた石碑が四つ現われ、四智如来ご真言をお唱えしながら勝尾寺へ。


10時半に勝尾寺参拝、まるでお城のような、巨大な境内です。



 勝尾寺(かつおうじ、真言宗)は神亀4年(727)に善仲上人と善算上人が山中に庵を結び、天平神護元年(765)に開創。「元亨釈書」によれば善仲上人と善算上人は双子の兄弟で、神亀4年(727)に当地・勝尾山に草庵を結んで修行され、善仲上人は神護景雲2年(768)、61歳の時に草座に乗ったまま忽然と飛び去り、善算上人は翌3年(769)に天に飛んで西に消えたとのことです。同書(「元亨釈書」)には、役行者が讒言により伊豆大島に流された後、大宝元年(701)に赦され、草座に坐したまま鉢に母君を載せ、海に浮かんで唐に渡ったとありますが、天上ヶ岳から昇天されたとも伝わります。勝尾寺の善仲上人・善算上人の最期は役行者と似通っており、神護景雲元年(767)に越知山で入定遷化されたと伝わる泰澄大師等とは、その最期の様子がだいぶ異なります。
 勝尾寺は三宝荒神が初めて祀られた処であり、また、観音さまの縁日が十八日となったのも、当寺に由来するそうです。さらに、晩年の法然上人が建永2年(1207)の専修念仏停止によって讃岐に流された後、赦されて入洛許可が出るまで四年間すごされたのが、勝尾寺の二階堂でした。


念仏をお称えし、今年の天変地異で亡くなられた方々の成仏得果をお祈りしました。
 勝尾寺からは千里中央駅行のバスがあるそうですが、一週間前の台風以来、運休しているとのこと。勝尾寺から箕面駅までは、往路のように山に寄り道せず、府道を歩いてゆけば、緩やかな下りの六キロくらいの道のり、野人の足なら一時間ちょっとで行ける距離です。箕面川に沿って府道を降下。


天上ヶ岳から流れるお水で喉を潤し、役行者を拝んでいたら、現われたのは役行者ではなく、孫行者でした。


「西遊記」で玄奘三蔵法師の弟子となって活躍する孫悟空・猪悟能・沙悟浄の法名は、観音さまが付けたものですが、観音さまによって西天取経の旅に出る三蔵法師の弟子とされた三人(匹?)を、法師は孫行者・猪八戒・沙和尚とも呼んでいます。「西遊記」を読んで感心するのは、三蔵法師のみならず三人(匹)の弟子たちも、道中けっして金銭や上質な衣等を受け取らず、食事の供養を受けても素果・素菜・素茶・素飯、つまり精進料理を選んで食べ、酒をふるまわれてもめったには飲んでいない(三蔵法師は絶対に飲まない)ことです。三人(匹)とも自らの貪り・怒り・愚かさ等から引き起こした悪業によって苦しい果報を受けていたところを、南海普陀落伽山の観音さまに救われて戒を授けられており、獣や妖怪であっても、その道心の堅固さには見習うべきものがあります。
 大滝入口を過ぎてさらに府道を降下、正午頃、先ほどより大きなおサルさんがお目見え。


先ほどのサルもそうでしたが、叫びも逃げもしません。西江寺に下って瀧安寺参道を箕面駅へ下ってゆくと、思いがけず、徳本上人の名号碑に遭遇しました。


江戸時代後期、各地に特徴的な字体の名号碑を建立された、徳本上人。上人の名号碑は尾張・知多の大日寺と、桶狭間で拝んだことがあります。



(2017.12参拝時)
徳本上人は享和元年(1801)、45歳の時に初めて勝尾寺に掛錫して以来、たびたび勝尾寺を訪れていたそうで、法然上人ゆかりの勝尾寺二階堂にて、毎月十五日を結縁の日と定めて別時念仏を初められたとのことです(柴田六五郎「徳本上人小伝」)。紀州日高郡出身の念仏行者・徳本上人は、山居して五穀断ちで念仏経行するなど、念仏三昧の大行者でありました。今から二百年前の文政元年(1818)10月6日に江戸の一行院で遷化された上人は、次のような遺語を残しておられます。
「徳本命終の後最後に不思議なること有りやと問ふ者あらば、答へて言へ、我師四才の時より念仏して六十一歳まで申しつづけ、最後命終の時南無阿弥陀仏と申して息とどまりおわんぬ、別に不思議といふ事なし、然るに徳本ごとき凡夫の報土に往生を遂ぐること、これをこそ不可思議不可説なりといふべきなれ。」

南無阿弥陀仏!
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝