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出雲巡礼/許豆~鰐淵寺~弥山~大社1

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(許豆の浜(平田市小津町))

 5月13日早朝、乗ってきた夜行バスは仏経山の麓・荒神谷付近を通過。車窓から北西側に横たわる山並を遥拝しました。
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旅伏山~鼻高山~弥山(みせん)と連なる「出雲の御崎山(みさきやま)」(「出雲国風土記」)、今日これから歩く峰々です。鼻高山の北の中腹には鰐淵寺(がくえんじ)、弥山の西麓には出雲大社が鎮座しています。出雲市から電車で雲州平田へ。湯谷川より、西に旅伏山(たぶしさん)を遥拝しました。
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 雲州平田から生活バスに乗り、万田(まんだ)町と小津(こづ)町の境の「峠」の峴神社(みねじんじゃ)で下車。此処を訪れたのには、ワケがあります。二ヶ月ほど前、岐阜県大垣市小野(この)に鎮座する八王子神社に参拝しました。
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(八王子神社、2019.3.21)
「ふるさと三城和合」(昭和60年発行)によれば、祭神は大山津見神と豊受大神。

「奈良時代に行基菩薩がこの地を開き、八本寺の鎮守として出雲楯縫方田村峴の社を移したものという。」

とあります。また、

「境内から、大正十四年(1925)に「大庭」と墨書された古墳時代の皿形の須恵器が出土した。」

とのこと。「出雲国風土記」を見ると、楯縫郡に

「峴之社」

があり、その所在地は「万田」。「方田」は、「万田」の誤記でありましょう。
 峴神社(みねじんじゃ)の鳥居の下に人がおられたのでご挨拶。岐阜県にこの社から勧請された神社があり、お参りにきたと話すと驚いておられましたが、その神社の名が八王子神社であることをお伝えすると、峴神社の中で「八王子大明神」と書かれたものを見たことがあるとのこと。この方は先祖代々この地に住んでおられ、いろいろな言い伝えを聞かせてくださいました。文字ではなく古老が聞き伝えてきた伝承というものは、どこでもとても貴重なものです。現在建っている社殿はさほど古いものではなく、大正時代に建てられたもの。
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それ以前は、このような立派な社殿はなかったそうです。鳥居には「大正十一年」と記されています。境内にある「由緒」によれば、主祭神は大物主神、大山津見神、国狭槌命。「出雲国風土記」に「峴之社」と記される古社で、江戸時代には八王子大明神と呼ばれていたそうです。出雲らしい柿色の屋根の拝殿の後ろに、大社造りの本殿。
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境内からは明治43年(1910)に石棺が出土、朱塗りの棺内には朱塗りの古剣と人骨、棺外には和鏡や須恵器等があったそうです。
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(石棺の出土地)
境内に祀られている山神さま(大山津見神)は、昔は裏山に祀られていたとのこと。大山津見神を祀っているのは、大垣の八王子神社と共通しています。
 「古事記」によれば、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)は日本の国土を生んだ後、様々な神々を生みました。風の神、木の神を生んだ後、

「次に山の神、名は大山津見神(オホヤマツミノカミ)を生み、次に野の神、名は鹿屋野比賣神(カヤノヒメノカミ)を生みき。亦の名は野椎神(ノヅチノカミ)と謂ふ。」

とあります。そして、大山津見神と野椎神から生まれた八神の中の次男が、峴神社の祭神に含まれている国之狭土神(クニノサヅチノカミ)です。峴神社の「八王子」とは、山の神と野の神の八王子のことなのでしょうか。大山津見神は、須佐之男命が出雲で八俣の大蛇を退治して救い、妻とした櫛名田比賣(クシナダヒメ)の、祖父でもあります。出雲から美濃に勧請されたと伝わる山野の神と、古老のお話に感謝し、峠から西に下ってゆきました。
 歩くこと十数分、小津(こづ)の北許豆神社に参拝。
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「出雲国風土記」に

「許豆(こづ)の社・同じき社」

とあります。祭神は須佐之男命。谷を挟んで南側には南許豆神社。
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北許豆神社の裏の山には風車が立ち並んでいます。
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西側は、石州瓦の柿色屋根の集落の向こうに、海(巻頭写真)。「出雲国風土記」の「許豆の浜」と「於豆振(おづふるい)」、現在の十六島湾(うっぷるいわん)と十六島半島です。南側に歩を進め、恵比寿神社に参拝。
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此処も、「出雲国風土記」に

「又、許豆の社」

と記されています。境内の「塩の権現」には塩椎の神が祀られ、古墳時代後期(六世紀)の古墳の石棺の一部が信仰対象とのこと。峴神社の石棺と関係があるのでしょうか。のどかな海沿いに足を進め、河下から鰐淵寺へと登ってゆきました。
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 鰐淵寺川沿いの路傍に立つお地蔵さまの彼方に、鼻高山を遥拝。
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やがて、渓谷沿いの参道へ。
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11時すぎ、石段を登って根本堂に参拝しました。
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鰐淵寺は推古2年(594)智春上人の開創と伝わり、上人が浮浪滝の滝壺に落とした器を鰐がくわえてきたとのこと。承和14年(847)に唐から帰国された慈覚大師(円仁上人)が、太宰府から京に戻る途次に掛錫、薬師如来と千手観音菩薩の像を刻み本尊とされ、法華堂・常行堂を建立しました。根本堂の南側の常行堂は、後ろの摩多羅神社とつながっています。
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天台智者大師の「摩訶止観」に説かれる四種三昧行の一つ・常行三昧(九十日間、身に常に行道し、口に常に阿弥陀仏の名を唱え、心に常に阿弥陀仏を念じる修行)を行じるためのお堂である常行堂には、後戸(うしろど)に摩多羅神が祀られています。摩多羅神は、慈覚大師が唐から帰国する船中で感得された神さま。鰐淵寺の摩多羅神も、元は常行堂の後戸に祀られていました。が、寛文7年(1667)に常行堂の後ろに摩多羅神社が建てられ、祭神として祀られたのでした。
 中世の鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の正月二十日の大般若経転読や三月会で勤行を修しており、大社と不即不離の関係にありました。神代の昔にインドの霊鷲山(りょうじゅせん)の北東の隅が欠けて漂い、当地に流れてきたのを素戔嗚尊(須佐之男命)が築き留めたのが「浮浪山鰐淵寺」の山号の由来とされ、鰐淵寺蔵王堂の本尊・蔵王権現は素戔嗚尊とみなされていました。また、杵築大社(出雲大社)の祭神も、古代および近世以降は大国主神ですが、中世には素戔嗚尊とされていました(「もう一つの出雲神話」出雲弥生の森博物館、2013年特別展) 。「本朝諸社一覧」(貞享2年(1685))にも

「大社 又杵筑トモ 出雲郡ニ有リ
出雲国大社素戔嗚尊也 神祇令註」

とあります。「古事記」によれば、須佐之男命(素戔嗚尊)は大国主神の祖先で義父で、師です。
 戦国時代には、出雲国守護代から山陰山陽十一ヶ国にまたがる戦国大名となった尼子経久が大社の境内に護摩堂や大日堂、三重塔、輪蔵を建て、鰐淵寺は大社の神宮寺と位置づけられました(「もう一つの出雲神話」)。しかし、江戸時代・寛文の大造営(寛文7年(1667)完成)の際、三重塔は大社本殿用の大木を提供した但馬国妙見山(現・名草神社)に贈られ、大日堂等は撤去、鰐淵寺との関係は解消、祭神も素戔嗚尊から大国主神へと回帰したのでした(「平成の大遷宮 出雲大社展」島根県立古代出雲歴史博物館、2013 「出雲大社文書」島根県古代センター、2002)。大社との関係が絶たれた鰐淵寺では、蔵王権現として祀っていた素戔嗚尊を摩多羅神として常行堂の後ろの摩多羅神社に祀ったようです(「もう一つの出雲神話」)。
 常行堂と背後の摩多羅神社は、まるで拝殿と本殿のよう。
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素戔嗚尊が摩多羅神として常行堂の後ろの摩多羅神社に祀られたのは、出雲大社において本殿の真後ろの素鵞神社に素戔嗚尊が祀られたことと対応しているのかもしれません。常行堂のご本尊・阿弥陀さまに念仏をお称えし、出雲有縁の一切衆生の現当二世安楽をお祈りしました。尚、松江市の内神社に伝わる「素戔嗚流神道大事・出雲大社祓秘哥」(天正18年(1590)書写)によれば、中世出雲大社の祭神・素戔嗚尊は三輪明神と一体であり、三輪明神は歓喜天にして男天としての本地は阿弥陀如来、女天としての本地は十一面観音菩薩とされています。また、素戔嗚尊が退治した八又大蛇は、弁才天の方便の姿であると記されています(「平成の大遷宮 出雲大社展」)。
 常行堂より鼻高山を遥拝。
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石段を下って鰐淵寺川に戻り、川を渡って南へ。山王七仏堂に参拝し、谷を見下ろしつつ山腹を登ってゆきました。11時半すぎ、浮浪滝に到着。
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蔵王宝窟の前に建つ蔵王堂を見上げました。滝の水はチョロチョロですが、周辺の岩は湿ってツルツル。蔵王堂まで登ろうとしたものの、途中で滑って転んで掌から出血・・・。さすがに、蔵王権現さまはお厳しいです。須佐之男命さまによる試煉ともいえましょう。己れの日頃の不肖を省み、蔵王堂を見上げつつ勤行を修しました。
(続く)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝