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三種の神器・下

(承前)
 この「三種の神器」について、南北朝時代の南朝の重臣・北畠親房が著した「神皇正統記」(延元4年(1339)成立)に次のようにあります(「第八十二代、第四十四世、後鳥羽院」)。

「三種の神器の事は所々に申侍しかども、先内侍所は神鏡也。八咫の鏡と申。正體は皇太神宮にいはひ奉る。内侍所にましますは崇神天皇の御代に鋳かへられたりし御鏡なり。村上の御時、天徳年中に火事にあひ給。それまでは圓規かけましまさず。後朱雀の御時、長久年中にかさねて火ありしに、灰燼の中より光をささせ給けるを、おさめてあがめ奉られける。されど正體はつつがなくして萬代の宗廟にまします。」

八咫の鏡(やたのかがみ)の正体は、今も皇太神宮(伊勢神宮)にお祀りされています。

「寶劍も正體は天の叢雲の劍<後には草薙と云>と申は、熱田の神宮にいはひ奉る。西海にしづみしは崇神の御代におなじくつくりかへられし劍なり。うせぬることは末世のしるしにやとうらめしけれど、熱田の神あらたなる御こと也。」

寿永2年(1185)、壇ノ浦での平家滅亡の際、まだ幼い安徳天皇が入水されたときに草薙の劍も海に沈み、見つかりませんでしたが、正体は今も熱田神宮に祀られています。
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(熱田神宮の信長塀、2017.8参拝時)

「神璽は八坂瓊の曲玉と申す。神代より今にかはらず、代々の御身をはなれぬ御まぼりなれば、海中よりうかび出給へるもことはり也。三種の御ことはよく心えたてまつるべきなり。なべて物しらぬたぐひは、「上古の神鏡は天徳・長久の災にあひ、草薙の寶劍は海にしづみにけり。」と申傳ること侍にや。返々ひがことなり。此国は三種の正體をもちて眼目とし、福田とするなれば、日月の天をめぐらん程は一もかけ給まじきなり。天照太神の勅に「寶祚のさかへまさむことあめつちときはまりなかるべし。」と侍れば、いかでか疑奉るべき。いまよりゆくさきもいとたのもしくこそおもひ給れ。」

八咫の鏡の正体は伊勢神宮に、草薙の劍の正体は熱田神宮に祀られて今に至っていますが、八尺瓊の勾玉は昔から天皇の許にあります。安徳天皇入水のときに草薙の劍(形代)と共に八尺瓊の勾玉も海に沈んだものの、勾玉は箱ごと海上に浮かんでいたのを片岡常春が拾い上げたのでした(「平家物語」)。
blog_import_5c77fa163fb79.jpeg (壇ノ浦、2017.9)

「神皇正統記」「第三代、天津彦々火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)」の項に、

「此三種につきたる神勅は正く國をたもちますべき道なるべし。鏡は一物をたくはえず。私の心なくして萬象をてらすに是非善悪のすがたあらはれずとふことなし。そのすがたにしたがひて感應するを徳とす。これ正直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす。慈悲の本源也。劍は剛利決断を徳とす。智恵の本源也。此三徳を翕(あはせ)受ずしては、天下のおさまらんことまことにかたかるべし。」

三種の神器は、正直・柔和善順(慈悲)・剛利決断(智恵)の三徳を表しています。

「中にも鏡本とし、宗廟の正體とあふがれ給。鏡は明をかたちとせり。心性あきらかなれば、慈悲決断は其中にあり。又正く御影をうつし給しかば、ふかき御心をとどめ給けむかし。」

「此理をさとり、其道にたがはずば、内外典の学問もここにきはまるべきにこそ。されど、此道のひろまるべき事は内外典流布のちからなりと云つべし。魚をうることは網の一目によるなれど、衆目の力なければ是をうることかたきが如し。應神天皇の御(代)より儒書をひろめられ、聖徳太子の御(時)より、釈教さかりにし給し、是皆権化の神聖にましませば、天照太神の御心をうけて我國の道をひろめふかくし給なるべし。」

天台智者大師の「摩訶止観」に、

「一目の羅(あみ)は鳥を得ること能はざるも、鳥を得るは羅の一目のみ。衆生の心行はおのおの同じからず、あるいは多人にして同一の心行あり、あるいは一人にして多種の心行あり。」

三種の神器の示すところは、神道のみならず、仏教や儒教にも通じるものです。それはつまり、一教や一宗一派を超越したもの。「神皇正統記」「第五十二代、第二十九世、嵯峨天皇」の項には、

「一宗に志ある人餘宗をそしりいやしむ、大なるあやまりなり。人の機根もしなじななれば教法も無盡なり。況(いはんや)わが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、極たる罪業にや。われは此宗に歸すれども、人は又彼宗に心ざす。共に随分の益あるべし。是皆今生一世の値遇にあらず。國の主ともなり、輔政の人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずして得益のひろからむことを思給べきなり。」

私は、いかなる宗教宗派であろうと、一教・一宗派のみで国や世界が救われるなどとは、絶対に信じません。山の頂に登り下りする道は、本来一つではあり得ないのです。
 最後に、「草薙の劍」についてもう一言。天孫降臨のずっと後の代、景行天皇の息子・倭建命(日本武尊、ヤマトタケルノミコト)は父に命じられ西国を征伐した後、続けて東国征伐を命じられます。日本武尊は、天照大御神を伊勢神宮に祀ったおば・倭比賣命(ヤマトヒメノミコト)を訪ねて参拝の後、

「天皇既に吾死ねと思ほす所以か、何しかも西の方の悪しき人等を撃ちに遣はして、返り参上り来し間、未だ幾時も経らねば、軍衆も賜はずて、今更に東の方十二道の悪しき人等を平(ことむ)けに遣はすらむ。」(「古事記」)

と涙をこぼします。倭比賣命は甥っ子に草薙劔(くさなぎのたち)と嚢を渡し、やさしく励ましたのでした。焼津の野原で火に囲まれた日本武尊は、草薙劔で草を苅り払い、嚢に入っていた火打ちで向かい火をつけて脱出。その後、無事に東征を終えて尾張の美夜受比賣(ミヤズヒメ)の許で一夜をすごしたのでした。そして、草薙劔を美夜受比賣の許に置いたまま伊吹山の神を退治しに出かけます。
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(伊吹山、2019.4.11)

「この山の神は、徒手(むなで、素手)に直に取りてむ。」

と山に入った日本武尊は、白猪(「古事記」、「日本書紀」では大蛇)の姿で現われた伊吹の神を使者と勘違いし、

「今殺さずとも、還らむ時に殺さむ。」

と見過ごし、山中で大氷雨に打ち惑わされて致命傷を受け、尾張へは戻らず故郷・大和への途上、鈴鹿の能褒野で

嬢子(をとめ)の 床の邊に 我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや

と詠って息絶えたのでした。
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(能褒野・加佐登神社の日本武尊像、2016.8) 

そして、草薙の劔は尾張の熱田神宮に祀られたのでした。
 私は、日本武尊が草薙の劔を美夜受比賣の許に置いて伊吹山に向かったのは、油断によるものと思っておりました。確かにこの神話は、山に登る者にとってのよい教訓です。しかし、「尾張国風土記」の逸文には次のようにあります。

「熱田の社は、昔、日本武の命、東の国を巡歴りて還りたまひし時、尾張の連らが遠つ祖なる宮酢媛の命を娶きけり。その家に宿り夜頭(ころ)厠に向きまししとき随身(は)かせる剣を桑の木に掛け、遺して殿に入りたまひけり。乃ち驚き、また往きて取りたまふに剣に光ありて神の如し。え把へず。即ち宮酢姫に謂りて曰りたまはく「この剣に神しき気あり。奉斎りて吾が形影(みかた)とすべし」とのりたまひけりといふ、因りて以ちて社を立つ。郷に由りて名とせり。」
(前田家本「釈日本紀」巻七)

この伝承によれば、草薙劔の方で尾張から動かなくなっています。また、伊吹山南西麓に古くから鎮座する近江の伊夫岐神社の祭神は、「本朝諸社一覧」(貞享2年(1685))に

「八岐蛇所變」

つまり、八岐大蛇(八俣の大蛇)の霊とあり、伊吹山南東麓の美濃の伊富岐神社にも

「亦之八岐大蛇化身」

との伝承があります(「垂井町史」)。

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(伊夫岐神社、2019.4.11)

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(伊富岐神社、2019.5.3)

伊吹山の神が八俣の大蛇の化身だとすれば、かつて出雲で須佐之男命に殺されたときに奪われた草薙の劔を取り戻す、絶好の機会。日本武尊が便所に行き木に掛けた草薙の劔が、光を放ち警告したので、尊は己れの運命を感じつつ劔を美夜受比賣に託し、伊吹山へ向かったとも考えられるのです。
 八俣の大蛇の化身は、今もどこかにいるのでしょうか?表面には見えなくても、奴は存在しています。私たち人間の、心のどこかに。奴を退治することはできなくとも、せめて、心の智剣を奪われぬよう心掛けたいものです。日本武尊が、命を落としても草薙の劔は渡さなかったように。
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(伊吹山頂、2019.5.3。真西に竹生島、その遥か彼方には伯耆大山、そして出雲大社。)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝