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安来・比婆山~月山富田城放浪2

20190406132540f48.jpg (巻頭写真:洞光寺より月山富田城を遥拝)
(承前)
 4月4日、日本の母・伊邪那美命の御陵・比婆山から久米川沿いに下ってゆき、不動滝に参拝。
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滝の両脇に祀られている、不動明王と龍。11時に峠之内(たわのうち)に下り、比婆山を遥拝。
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伯太川を渡り、宇波(うなみ)方面への道を桜や牛を見つつ、大谷川沿いに西へと登ってゆきました。
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観音堂に参拝して大谷川に別れを告げ、車道をてくてく西上。トンネルとループがありましたが、野人は勿論、藪を直登。
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11時半すぎに笹刈トンネルをくぐると、目の前に開けた、宇波への下り坂の景色。
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このトンネルの北方の山は、「出雲国風土記」にある枯見山(うらみやま)です。
 正午、宇波神社に参拝。
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神社からさらに西へ歩を進めると、高台に土居城(宇波城)跡がありました。
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案内板によれば、正中2年(1325)に三村十郎朝貞が築城、十代・真木上野介朝定の娘・晴姫は、尼子経久の母です。城跡にて経久公と母・晴姫、そして父・尼子清定公を偲びました。やがて宇波川との合流地点に下ると、「鋳物師の里宇波」の案内板。
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宇波川沿いに行道、13時に飯梨川に出ました。
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この川の上流には、出雲のたたら製鉄発祥の地とされる金屋子神社が鎮座しています。
 飯梨川沿いに北へと下り、13時半、倉手神社に参拝。
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祭神は金屋子神社と同じ金山彦命と、素戔嗚尊(須佐之男命)。飯梨川左岸を一心に行道、14時に下佐山橋を渡ると、北東に月山富田城(がっさんとだじょう)が姿を現わしました!
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戦国時代、出雲国守護代から山陰山陽十一ヶ国にまたがる戦国大名となった尼子経久の、本拠地です。経久公の曾祖父は、近江・尼子に住して尼子姓を名乗った佐々木(京極)氏の一族・高久。高久の祖父は、、南北朝時代の「バサラ大名」佐々木道誉。道誉公は近江の他、出雲や飛騨等の守護職も手にし、尼子氏は出雲守護代として出雲に移ったのでした。
 広瀬の富田八幡宮に参拝。
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本殿の向かって右奥に鎮座する勝日神社は、「出雲国風土記」の「賀豆比乃社」。元々は月山にあり、月山頂の勝日高守神社の里宮であったそうです。富田八幡宮から北へ歩を進め、都弁志呂神社(つべしろじんじゃ)へ。
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「出雲国風土記」の「都俾志呂の社」、祭神は須佐之男命。境内より月山を遥拝。
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都弁志呂神社の東には、洞光寺。
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尼子経久公と、父・清定公の墓所です。
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応仁の乱以降、守護・佐々木(京極)氏の力の弱まった出雲で勢力を伸ばした出雲守護代・尼子清定公。守護代を継いだ息子の経久公は、文明16年(1484)、27歳の時に守護代の地位を剥奪され、月山富田城から追放されました。しかし、文明18年(1486)元日に月山富田城を奪回、出雲を平定し、さらに山陰・山陽十一ヶ国にまたがる戦国大名となったのでした。尼子父子の宝篋印塔ご宝前で宝篋印陀羅尼と念仏をお唱えし、尼子一族を供養。洞光寺より、月山を遥拝しました(巻頭写真)。
 洞光寺から、いざ月山富田城へ。飯梨川に下ると、尼子経久公の像がありました。
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川を渡って巌倉寺に参拝。
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関ヶ原の合戦後に富田城に入り、松江城を築いた堀尾吉晴の大きな五輪塔の後方にある、山中鹿助幸盛の供養塔(宝篋印塔)。
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出雲・尼子氏は経久公の後、孫の晴久、曾孫の義久と続き、周防の大内義興・義隆や安芸の毛利元就と中国地方の覇権を争いましたが、永禄9年(1566)、義久は月山富田城で毛利元就に降伏したのでした。しかしその三年後、尼子の遺臣・山中鹿助(やまなかしかのすけ)らが尼子勝久を奉じて出雲に入国、月山富田城の奪回を目論むものの、結局天正6年(1578)に播磨の上月城で毛利氏に敗れ、勝久は自害、鹿助は備中で殺されたのでした。宝篋印陀羅尼を誦し、尼子氏再興に命をかけた山中鹿助を供養しました。
 月山富田城へと登ってゆくと、現われた山中鹿助の像。
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桜の彼方に、山上の城郭。16時に山中御殿に出ました。
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さらに上へと続く険しい坂。
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ようやく山頂部に出、南に歩いてきた飯梨川上流方面を見下ろしました。
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本丸奥に鎮座する、勝日高守神社。
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「出雲国風土記」の「加豆比乃高の社」、祭神は大己貴幸魂神、即ち大国主神の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)です。「古事記」によれば、須佐之男命の子孫・大穴牟遅神(おほなむちのかみ、大国主神)は、兄弟の八十神たちに伯耆で二度も殺され、須佐之男命のおられる根の堅州国、即ち黄泉の国へ行って須佐之男命の娘・須世理毘賣の愛と、須佐之男命の試煉を受けます。須世理毘賣を連れ、須佐之男命の生大刀・生弓矢・天の詔琴を盗んで黄泉比良坂(よもつひらさか)から地上に戻った大国主神は、出雲を平定して少名毘古那神(スクナビコナノカミ)と共に葦原の中つ国の国作りを進めます。しかし、少名那毘古神が常世に渡ってしまい、

「吾独りして何(いか)にかよくこの国を得作らむ。」

と憂えていた時、海を照らして依って来た神がありました。「日本書紀」には、大己貴神(大国主神)が

「汝は是誰ぞ」

と問うと、その神は

「吾は是汝が幸魂奇魂なり」

と答えたとあります。大国主神が己れの内に見出だした、神性。柏手を打ち、私たち一人一人の内に具わっている神性・仏性、即ち幸魂奇魂を拝みました。
 挫折し復活し、出雲を平定し葦原の中つ国の国作りを進めた大国主神の姿は、戦国時代の尼子経久に重なるところがあります。経久公は、「剛柔虚実」の四字に合戦の道も治国の法もある、と看破しています(「名将言行録」)。

「剛は柔の終り、虚は実の本」

とは、「陰は陽の始め、幽は顕の本」と言い換えることもできましょう。「日本書紀」によれば、大己貴神(大国主神)は出雲に大社を造営することを条件に、「顕露の事」を皇孫(天孫)に譲り、自らは「幽事」を治める神となったのでした。「幽事」とは意識下・無意識の世界とも言えましょう。無意識なくして意識なく、意識なくして無意識はありません。
 本丸より望む、飯梨川下流。彼方には中海。
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出雲を歩いていると、集落の屋根が一様に柿色をしているのをよく見かけます。民家のみならず、寺院の屋根も柿色、神社の拝殿なども柿色をしているのは、今日もあちこちで見た光景でした。特色のない街中で育った私は、特色のある集落の風景に人間的な温かみと、あこがれを感じます。出雲の柿色の瓦屋根は、出雲の隣の石見特産の「石州瓦」。山陰地方に広く見られる瓦屋根です。
 月山富田城から飯梨川へと一気に下り、桜の花越しに見上げたお城。
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山陰の風光は、やさしく穏やかに感じられます。広瀬からバスで安来駅に戻り、駅前から夕焼けの大山(だいせん)を拝みました。
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コメント

修理固成

やはり古事記神話の謎は天皇礼賛だけではないいびつな構造をしているある種の正直さが心惹かれるのでしょう。
古事記神話の構造をザックリいうと高天原の2度の地上への介入がその構造の中心となっている。1度目はイザナギとイザナミがオノゴロ島を作り、国生み神生みを行い、次にイザナミのあとを継ぎスサノオが
根之堅洲国で帝王となる。第二の高天原の介入はアマテラスによる九州への天皇の始祖の派遣とそれに続く天皇を擁する日本の話でこれは今も続いている。
これらの2度の高天原の介入に挟まれた形で出雲神話がある。天皇の権威を高めるのに出雲があまり役に立たないのに古事記で大きく取り上げられている。その神話の構造の歪さに我々は心を惹かれる。
たとえば天皇も大国主も大刀(レガリア)の出どころはスサノオでありその権威の根源を知りたくなってしまう。そうなると島根県安来市あたりの観光をしてしまいたくなる。

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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝