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豊郷~甲良~多賀~霊仙山~柏原巡礼1

 3月27日、東近江の豊郷(とよさと)から徒歩で甲良~多賀を経て霊仙山を縦走、柏原まで巡拝してきました。
 朝6時半に豊郷駅で降車、東側に歩を進めて白山神社に参拝。
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来た道を戻り、左手に繖山(きぬがさやま)や箕作山(みつくりやま)・赤神山(太郎坊山)を望みつつ駅の西側へ。
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7時、天稚彦神社に着きました。
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天稚彦(天若日子、アメノワカヒコ)は、大国主神(大己貴命)が出雲を拠点に国作りを進めていた葦原の中つ国に、高天の原から国譲りの交渉のため遣わされたものの、大国主神の娘の下照媛命(シタテルヒメノミコト)と結婚して高天の原から遣わされた雉を射殺し、高天の原からの返し矢で亡くなったのでした。当社の由緒によれば、下照媛命が天稚彦命のご遺体を此の地に葬られたのが創祀とのこと。「古事記」によれば、天若日子の親族が高天の原から下ってきて葬礼を行いましたが、弔いに来た下照比賣の兄・阿遅志貴高日子根神(アヂシキタカヒコネノカミ)の容姿が天若日子とそっくりだった為、天若日子は死んでいなかった!と故人と勘違いをし、怒った阿遅志貴高日子根神は喪屋を切り伏せ、美濃国の藍見河(長良川)の河上まで蹴り飛ばしたのでした。私は今まで、天若日子の葬礼は出雲か伯耆で行われたのだろうと思っていましたので、美濃の喪山はほぼ真東に数百キロ飛んできたと見ていました。しかし、此処で葬礼が行われたとすると、北東に向け約七十キロ飛んできたことになります。東近江・豊郷に天稚彦命が葬られたとの伝承が無視できないのは、豊郷には阿遅志貴高日子根神を祀る社もあるからです。
 天稚彦神社から北側へ歩を進め、三十分強で安食の阿自岐神社に参拝。
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主祭神は味耜高彦根神(阿遅志貴高日子根神)。美濃の喪山周辺には天稚彦命は元より、下照媛命を祀る社や二人の間にできたという御手洗姫命、さらに天稚彦に雉を射殺すよう進言した天探女(アメノサグメ)を祀る社までありますが、味耜高彦根神を主祭神に祀る社は見当たりません。古くから天稚彦命を祀る社と味耜高彦根神を祀る社があり、味耜高彦根神の妹の下照媛命が夫・天稚彦命を埋葬したとの伝承がある豊郷は、記紀の喪山伝説と関係があるように思われます。阿自岐神社の庭園の池に、陽光が煌めいていました。
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「古事記」によれば、阿遅志貴高日子根神と下照比賣命の父は出雲の大国主神、母は宗像・奥津宮(沖ノ島)の多紀理毘賣命(タキリビメノミコト)。「出雲国風土記」によれば、阿遅須枳高日子命は出雲の神門郡高岸郷で育っています。
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(出雲の高西公園、2019.1.31)
神門郡塩治(えんや)郷には、阿遅須枳高日子命の御子・塩治毘古命(ヤムヤビコノミコト)を祀る塩治神社もあります。東近江で行われた天稚彦の葬礼に、阿遅志貴高日子根神は義兄として、また義父・大国主神の長男として、出雲から弔いにきたのかもしれません。
 阿自岐神社から南東へ行道し、8時すぎに四十九院(唯念寺)に参拝。
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四十九院は天平3年(731)に行基菩薩が建立、行基が建てた四十九番目の寺であったそうです。「四十九院」の名は「太平記」に度々出てきます。建武3年(1336)、南朝に与(くみ)していた比叡山の衆徒たちが四十九院に陣取り、多賀に陣した北朝方の小笠原貞宗(信濃守護)と犬上川を挟んで対峙し、敗退しています。建武4年(1337)に佐々木道誉が甲良の勝楽寺を本拠地としてからは、北朝方が京都から落ちて再上洛するまで何度か四十九院に留まっています。文和3年(1354)には、南朝方の山名時氏・師氏父子が足利尊氏の子・直冬を奉じて伯耆から上洛し、将軍・足利尊氏は後光厳天皇を守護して四十九院へ下向。その後、四十九院に近江・美濃・尾張・三河・遠江・伊賀・伊勢の勢が集結、播磨国にいた尊氏の嫡男・義詮(よしあきら)の元には西国の勢が集まり、東西から上洛して南朝軍と戦っています。四十九院の南に鎮座する春日神社は元々は四十九院の庭園に勧請されていたそうで、文和3年(1354)に後光厳天皇が四十九院におられた際、「春日大明神」の宸翰を賜ったとのこと。
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 四十九院の春日神社より、北東に霊仙山を遥拝。
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「太平記」の前述の比叡山衆徒と小笠原貞宗の戦の段で、犬上郡多賀について

「この所は、後ろは大山を当て、前には犬上川と云ふ河原を充つ。」

とありますが、まさにその通りの光景です。四十九院から南東へ行道。豊郷から甲良町に入り、9時前に藤堂高虎(伊勢・津藩初代藩主)の出生地・在士(ざいじ)の八幡神社に参拝。 在士の西隣の尼子には、尼子城の堀跡が残されています。
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尼子氏は南北朝時代に活躍したバサラ大名・佐々木道誉(京極道誉)の三男・高秀の、次男・高久が当地に住し、尼子を称したのに始まります。道誉の嫡男・秀綱は文和2年(1353)、足利義詮が後光厳天皇を奉じて都を落ちた際、護衛中に堅田で討死しています。次男・秀宗は貞和3年(1347)に、秀綱の子・秀詮と氏詮も康安元年(1361)に討死しており、道誉の跡を継いだのは三男・高秀でした。そして、高秀の嫡男・高詮が佐々木(京極)家を継ぎ、次男・高久が尼子氏の祖となったのでした。佐々木道誉は本拠地・近江の他、出雲、飛騨、摂津などの守護職も手にし、それらの地には守護代を送っていました。道誉の孫・高詮も近江の他、出雲、隠岐、飛騨等の守護職にあり、出雲には尼子高久の次男・持久を守護代として送ります。この持久の孫・尼子経久は、出雲守護代から山陰山陽十一ヶ国にまたがる戦国大名となり、以降、出雲・尼子氏は周防の大内義興・義隆父子、そして安芸の毛利元就と中国地方の覇権を争ったのでした。
 尼子・在士から、佐々木道誉の本拠地・勝楽寺へと行脚。途中、レトロな建物がありました。
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昭和8年(1933)に建てられた甲良東小学校の校舎で、現在も図書館として現役です。やがて、前方に勝楽寺の裏山が見えてきました。
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10時前、勝楽寺着。
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境内には佐々木道誉公の墓。
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だいぶ磨滅しているようですが、宝篋印塔です。宝篋印陀羅尼と念仏をお唱えし、道誉公および佐々木(京極)一族、尼子一族を偲びました。佐々木道誉の「バサラ」な風流ぶりは、「太平記」にいろいろと記されています。康安元年(1361)、将軍・足利義詮の執事であった細川清氏が道誉との確執から南朝方に転じ、南朝軍が入京、北朝方は12月8日、後光厳天皇を奉じて近江八幡の武佐寺に落ちます。この際、道誉は都で宿していた所の座敷に掛け物・花瓶・香炉・茶釜・天目茶碗などを置き調え、書院には王羲之の草書の拓本や翰愈の詩文、寝床には豪華な寝具、侍の詰め所には食用として鳥・兎・雉・白鳥を懸け並べ、酒を用意して遁世者(時衆僧)二人を留め置き、

「誰にしても、この宿所へ入らんずる人に、一献勧めよ」

と命じて去ったのでした。南朝方でこの宿所に最初に入ったのは、楠木正儀(くすのきまさのり、楠木正成の三男)。時衆僧に挨拶され、道誉の情を感じた正儀は、同月26日に住吉・天王寺へ落ちる際に同じように宿所をしつらえ、さらに秘蔵の鎧と太刀、家来二人まで留め置いたとのこと。楠木正儀は、この三ヶ月前(9月)に摂津で道誉の嫡孫・秀詮とその弟・氏詮を討っています。鎧と太刀は、道誉の情け深さに感じた正儀の返礼といえましょうか。「太平記」には、

「道誉がこの振る舞ひ、情け深く風情ありと、感ずる人もあり、例の古博奕打ち(老練なギャンブラー)に出し抜かれて、楠、鎧と太刀とを取られたりと、笑ふ族(やから)も多かりける。」

とあります。
(続く)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝