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御正体山登拝~妙心上人のお心

 岐阜県揖斐川町の両界山横蔵寺(よこくらじ)は伝教大師(最澄上人)のご開山、現在は山麓のみの境内ですが、かつては山上に堂宇が建ち並び、比叡山延暦寺が織田信長に焼かれた後、横蔵寺山上の本堂に祀られていた薬師如来像が延暦寺根本中堂のご本尊として遷座された、と伝わる古刹です。


(2018.2参拝時)
山上には熊谷直実公のお墓もあり、裏山の一番高いピークには、今も白山権現が祀られています。


(同)
 横蔵寺は、舎利仏(ミイラ)が祀られていることでも知られます。天明元年(1781)に横蔵で生まれた妙心上人入定のお姿でありますが、妙心上人が入定された地は此処ではありません。富士山で修行された後、富士山の鬼門(丑寅、北東)に鎮座する御正体山(みしょうたいやま)にて、文化12年(1815)に入定されたのでした。妙心上人が富士山を拝みつつ入定遷化された御正体山に、登拝してきました。
 9月24日朝8時、山梨県都留市の東桂駅で下車。御正体山へと歩き始めました。長泉院、今宮神社、門原不動尊と順拝して鹿留川沿いの林道を南へ。


一時間ほどで御正体神社に着きました。


御正体山開山・妙心上人、二代・明善法尼、三代・巨戒上人の霊蹟です。石段を登って御正体権現に参拝。


隣には阿弥陀三尊の名号碑。


巨戒上人が弘化5年(嘉永元年、1848)に起てられたもので、「南無阿弥陀仏」の名号碑には
「開祖 食日一行妙心律師」
「二代 但念佛行者木食明善法尼」
「三世 圓蓮社理春諦阿巨戒源常」
「開 文化十弐乙亥年伍月五日 滅」
「二 天保八稔丁酉二月十八日 寂」
とあり、妙心上人のご命日が5月5日であったことが分かります。
 妙心上人の故郷・上神原区編の「即身仏になった妙心上人」によれば、妙心上人は少年時代に京都の聖護院に学び、やがて西国・坂東・秩父の百観音や四国八十八ヶ所等、諸国行脚の後、善光寺大勧進(天台宗)にて「妙心」の法名を授かっています。そして文化11年(1814)より富士山で修行、翌年に富士山鬼門の御正体山で入定されたのでした。妙心上人のご真筆(渡邊綱吉「御正躰開山食日一行妙心法師」)に、

「御いとまいたし
東叡山御領 信州みのち郡宗旨天台
善光寺萬善堂弟子 法師妙心」

とあることから、妙心上人が天台宗の僧であったことは間違いありませんが、上人は「食日一行妙心」(じきじついちぎょうみょうしん)とも名乗り、

「日月仙元の御教 菩薩を麁末(そまつ)にいたすと今生より餓鬼道に落ると心得べし」(「ご真筆」)

等と説いているように、新興の富士講の行者でもありました(「菩薩」とは、富士講では「仙元大菩薩」のことで、お米のことでもあります)。肥前大村出身の書行藤仏(角行藤仏、かくぎょうとうぶつ)が始めた富士講の六世・食行身禄(じきぎょうみろく)が富士山北口(吉田口)七合五勺目の烏帽子岩で入定遷化されたのは、享保18年(1733)7月17日。6月13日から7月13日までの三十一日間、断食しつつ法を説かれた後でした。妙心上人が文化12年(1815)3月29日に

「三生躰八方志やうめんにおいて入生にいる」(「ご真筆」)

と記し、5月5日に遷化されたのも、食行身禄に倣ったものでしょう。また、御正体二世・明善法尼は肥後出身の念仏行者、三世・巨戒上人は増上寺から来た僧であったようです(「即身仏となった妙心上人」)。名号碑の御前で妙心上人・明善法尼・巨戒上人を偲び、お彼岸の法要を修しました。
 鹿留川沿いにさらに上流へと行道。


10時前、池の平の登山口に着きました。沢沿いの静かな山道には、御正体神社から点々と三十三観音が祀られています。


連休中とはいえ登山者は誰もおらず、釣人に一人会ったのみです。


10時半、湧水で妙心上人が水垢離をされたという龍の口に参拝。山道は此処から沢を離れ、急峻な尾根の上りとなります。近年奉納の三十三観音像よりも明らかに古い石仏も祀られてあり、表情がユーモラスです。


馬頭観音さまでしょうか。大師さま?のような像もありました。
 三十三体目の観音さまを拝んでさらに登ってゆくと、11時前にトリカブト咲く平坦地に出ました。


妙心上人が修行され、即身仏となり祀られていた上人堂の跡です。


明治の神仏分離・廃仏棄釈の際に上人堂は解体され、上人のご尊体は医学研究の資料として山梨県が管理、博覧会で見世物にされていたのを、明治22年(1889)に上人のご遺族が取り戻して故郷の横蔵寺にお祀りしたのでした。
 富士山・烏帽子岩で入定された食行身禄は、元禄元年(1688)より「南無仙元大菩薩様の身禄の世」、つまり「もとのちちはは様」(漢字は富士講独特の造字)である「もとの浅間大菩薩」が天照皇太神に委ねていた御世が終わり、「もとの父母さま」の御子である「仙元大菩薩」の世になったとし、弥勒菩薩の都率天へ「三国の真の改め役人」となるべく入定されました(「御添え書の巻」)。妙心上人のお心は、どうであったのでしょうか。上人のご真筆には、

「南無元の父母様日月仙元大菩薩の御恩徳報じても報じがたし」

等、富士講の諸尊を拝んでいたことは明らかですが、

「南無阿弥陀仏を一声唱ふれば一声一声に極楽に蓮の栄ふると相心得べし腹たちぬる時はその花消滅すると相心得べし」
「三生躰八方志やうめんにおいて入生にいる
南無阿弥陀仏
妙法蓮華経」

とも記しています。

「冨士山は躰の山なり御正躰は行の山なり」(「ご真筆」)

古くは末代上人により大日如来を本地とする「浅間大菩薩」と崇められ、富士講で新たに「仙元大菩薩」と拝まれるようになった富士山を、妙心上人は過去・現在・未来の三世にわたって礼拝供養し見守り続けてゆくべく、富士山鬼門の「三生躰大権現」山中にて入定されたのでしょう。伝統を尊重しつつ、其処にとどまることなく、新たな道を開かれた妙心上人。

「現世を見て未来をさとれ
 食日一行妙心」(「ご真筆」)

 上人堂跡にて、富士山の方角(南西)を向いて法華経如来寿量品偈と念仏、御正体権現・仙元大菩薩・妙心上人ご宝号をお唱えしました。富士山は雲の中。トリカブト咲く尾根をさらに急登、北西からの尾根との合流点に出ると、富士山が頭を雲の上に出していました!


御正体権現と仙元大菩薩、妙心上人のお導きに感謝。富士山はすぐまた雲に隠れました。
 比較的緩やかな尾根を東へ行道。シラビソの枝と実が、あちこちに落ちていました。


峰神社に参拝し、南方へと尾根をアップダウンしつつ縦走。


御正体山は、なかなか奥深い山です。正午に登頂、山頂の祠にて勤行を修しました。


富士山の手前、さほど高度が感じられませんが、千七百m近い山頂。曇って日差しもなく、涼しいです。東桂駅から四時間、予定通りのペース。トリカブトの花を拝みつつ来た道を下ってゆきました。


上人堂跡に戻り、南西に面してしばらく念仏をお称えしましたが、富士山は不見。しかし、入定時の妙心上人には見えていたはずです。

「三生躰八方志やうめんにおいて入生にいる」

「八」の字は、富士山のお姿を思わせます。
 上人堂跡から急な山道を降下、登りに大師さまかと思った石像に、妙心上人を拝みました。


龍の口に下って洗面して喉を潤し、14時前に池の平へ降下。鹿留川の渓谷を眺めつつ林道を下ってゆきました。


途中、散策していた地元の方にご挨拶、妙心上人を拝みに美濃国から来たことを話すと、御正体山や妙心上人の話をしてくださいました。御正体神社にお参りするためその方と別れ、御正体神社、大山祇命社と順拝して門原まで下ると、何と、先ほどの方が車で迎えに来、駅まで送ってくださるとのこと。ご好意を謝し、乗せていただきました(有難うございました!)。
 予定より早く東桂駅に戻り、帰りの高速バスまで時間に余裕ができたので、下吉田で下車し新倉浅間神社に参拝しました。新倉山から御正体山方面を遥拝。


富士山は雲を纏っていましたが、時折、雲間に山頂が拝めました。


山を下って小室浅間神社(富士山下宮)に参拝、神馬の背後に新倉山の五重塔(戦没者慰霊塔)。


「富士みち」を歩いて上吉田へと向かい、富士山北口(吉田口)の起点・金鳥居に掌を合わせました。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝