FC2ブログ

記事一覧

豊原寺~化生ヶ岳/丸岡・春江放浪3

(承前)
 翌々日の2月15日、丸岡の西隣の春江町へ。朝8時半、坂井町下兵庫の春日神社に参拝。


この辺り一帯はかつての奈良興福寺の荘園「河口庄」で、寛弘8年(1011)に春日大明神が勧請されたとのこと。神社から兵庫川を南へ渡ると、春江町。空気のとても冷たい朝。東には、豊原・化生ヶ岳(けしょうがたけ)の山並の後ろに富士写ヶ岳、火燈山(ひともしやま)、丈競山(たけくらべやま)、浄法寺山を遥拝。


比メ神社(「メ」は口偏に羊)に参拝して再び兵庫川の北に出、西側へと行道。


大森円墳に鎮座する勇島神社にお参りしました。


七世紀頃の古墳で、一説には、男大迹王(おほどのおほきみ、後の継体天皇)と当地の豪族の娘の間に生まれた姫が三歳で亡くなられ、此処に埋葬されたとのこと。広々として清々しい田園の中を、さらに西へ。舟戸の神明社を経て、新清永橋より北西に三国港の火力発電所を望みました。


9時半に清永白山神社参拝。境内には、天文18年(1549)の石造九重塔。


白山権現を供養し、さらに西へと歩を進めました。
 木部新保の交差点で交通安全を見守る、巨大な鬼の親子。


この辺りは木部(きべ)といい、「越前国名蹟考」には

「鬼部郷十七村
或は木部と書く但郷名は鬼の字を用ひ来れる由也」

とあります。北西には三国の風力発電所も見え、やがて前方(西)に大きな社が見えてきました。



東には、丸岡・豊原方面。


10時、坂井町の紀倍神社(きべじんじゃ)に着きました。


昔、この辺りは一面の大澤大淵で通行人の被害が絶えず、大同元年(806)に比叡山の僧等二百余人が芦原を開き、京都の上賀茂明神を勧請して祀ったとのこと。祭神は別雷神(わけいかづちのかみ)。「賀茂之本地」に、別雷神は

「天上にしてはあちすきたかひこねの神と申」

とあります。「古事記」によれば、大国主神(大己貴命)と宗像・奥津宮の多紀理毘賣命(タキリビメノミコト)の間に生まれた長男・阿遅志貴高日子根神は、

「今、迦毛大御神(かものおほみかみ)と謂ふ」

とあり、「出雲国風土記」にも

「天の下所造(つく)らしし大神(大穴持命)の御子、阿遅須枳高日子命、葛城の賀茂の社に坐(いま)す。」

とあります。紀倍神社は、大国主神の御子・阿遅志貴高日子根神を祀った社ともいえましょう。
 神さびた社の西を流れる、九頭竜川。


対岸は、三里浜。川岸を上流(南東)に歩いてゆくと田上神社があり、
「式内 紀倍神社迹」
の碑。


さらに川岸を行道。


10時半、坂井町から春江町に入り、八幡神社に参拝。


化生ヶ岳や火燈山、丈競山、浄法寺山を望みつつ東へ。


化生ヶ岳の背後には、大日山も見えてきたようです。木部西方寺観音堂にて般若心経をお唱えし、春江町の紀倍神社に参拝。


昔、この一帯は湖沼地帯で、水鬼が出没し、郷民は恐怖のどん底にあったとのこと。大同元年(806)、葦原を開いて山城国加茂宮の分霊を勧請し、比叡山の僧らの加勢によって水鬼を退治したそうです。そして、水鬼の遺骸を埋めてヒバを植えたとのこと。現在境内に聳えている「オニヒバ」は、天正3年(1575)に織田信長の兵火にかかった後に植えられた二代目だそうです。坂井町の紀倍神社と、ほぼ同じ由来です。
 紀倍神社の東には、信社王神社。


豊原・化生ヶ岳に祀られている深沙大王の前立を祭る社です(「丸岡町史」)。社殿は化生ヶ岳と向き合っており、その後方には大日山の雪が見えます。


勤行を修し、白山三所権現と深沙大王を供養。南方に歩を進めつつ東方を望むと、化生ヶ岳の後方に、白く幽かに白山頂(御前峰・大汝峰)らしき山かげが拝めました。ゆりの里を経て、磯部川沿いの石塚神社へ。洪水・氾濫の多かった当地で男大迹王(後の継体天皇)が治水事業をされた際、上に登って指揮をとられたという石が祀ってあります。


 正午、磯部川より拝んだ化生ヶ岳と大日山。


南東には、永平寺周辺の山々の奥に、一際白い部子山と銀杏峯。


南方へ足を進め、八ヶ川(はつかがわ)沿いに南東へ行道。13時、福井市に入って河合の鷲塚神社に参拝しました。


昔、この辺一帯は沼沢で、此処は小高い丘で大槻(けやき)があり、梢に棲んでいた荒鷲が角鹿(敦賀)から羽咋に通う船舶を度々襲っていたそうです。大己貴命が荒鷲を射止め、槻の下に埋めたので、矢放大明神として大己貴命が祀られたとのこと。「出雲国風土記」には、大穴持命(大己貴命)が出雲から「越の八口」を平定しに行ったことが記されていますが、越前・坂井平野に広がっていたという沼沢地帯には八ツ口の地名があり、その周辺には縄文時代から弥生時代の集落がありました。鷲塚には敦賀~羽咋間の船舶を襲う荒鷲を大己貴命が退治したという伝承、木部には平安時代初期まで出没していたという水鬼と、賀茂明神勧請の伝承。高向は継体天皇の母の故郷であり、石塚には男大迹王(後の継体天皇)による治水事業の伝承。白山の真西に広がっていた広大な沼沢地帯は、古代の越(高志)の重要な地域の一つであったに違いありません。矢放大明神ご宝前で勤行を修し、白山・大汝峰の祭神でもある大己貴命を供養しました。
 鷲塚神社から、南東へと行道。豊原寺から浄法寺山へと続く豊原禅定道の峰々の奥に、平泉寺からの白山越前禅定道の法恩寺山と、経ヶ岳を遥拝。


天池の日吉神社を経て14時に八重巻白山神社に着きました。


寛平年間(889~898)、白山越前馬場・平泉寺の神殿が鳴動し、衆徒らが「尊像を流して流水に任すべし」との夢告を受けたので、新しい薦(こも)に八重に巻いて大河(九頭竜川)に流したところ、九頭の龍が現われ尊像を載せて下ってゆき、岸に上がった処が此処であったとのこと。遷座したのが九月九日だったので、寺号を白峯山重陽寺と称したそうです(「越前国名蹟考」)。ご本尊は泰澄大師作の白山妙理大権現本地・十一面観音菩薩。法要を修し、白山三所権現王子眷属、並びに泰澄大師を供養しました。
 白山神社の隣には、岐阜県東濃地方を本拠地とするスーパーマーケット・バロー。


どの店舗にも焼きたてパンのコーナーが必ずあり、東海地方を中心に北陸地方にもけっこう進出しています。パンを買い、九頭竜川の堤防より法恩寺山と経ヶ岳を遥拝。


清流・九頭竜川の河原を下ってゆき、15時前、中角白山神社に参拝。


九頭竜川上流の山々は普段登拝しておりますが、九頭竜川下流域は広々と長閑で空気も清々しく、心が安らぎます。白山権現に感謝し、九頭竜川を遡って長良川を下る帰路につきました。
関連記事

コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

コメントの投稿

非公開コメント

白山順禮写真館

Haxanjunrei

松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝