FC2ブログ

記事一覧

芦倉山登拝



 かつて白山の修験者たちは、一般の登拝者の登る美濃禅定道とは別に、長滝寺から毘沙門岳、桧峠、大日岳、芦倉山、丸山を経て、神鳩で美濃禅定道に合流するルートを行場としていたといいます。8月15日、石徹白より芦倉山に登拝しました。
 白鳥の長滝寺、石徹白の白山中居神社に参拝し、保川林道へ。ゴロ石でガタガタの轍の上を、ボンネットよりも丈の高い草を倒しながら上ること1時間。9時前、大きな落石がいくつも道に散らばっている所で降車しました。ここから林道終点まで歩いて10分。芦倉山は頂が雲に隠れていました。
 林道終点の少し手前に、「中州ノ宿跡(中須宮)道登り口」と書かれた看板が草の中に倒れていました。これこそが、かつての白山修験者の行場です。長滝寺から神鳩までに、十宿があったといいます。登り口から藪を掻き分け東へ進むと、ちょっとした広場があり、お宮の跡らしき遺構もありました(写真)。般若心経を読誦。中州ノ宿から東へは、藪の中を谷が下っていました。
 来た道を少し戻ると、北側へ道がついています。叢を掻き分けて登ってゆくと、次第に道は北西の方へ。間違いなく、芦倉山への尾根でした。登るにつれて藪は繁くなってきましたが、道はずっと続いています。山頂に近づくと、道は全く無くなりました。背丈よりも高い藪を掻き分け、帰りの目印にテープを付けつつ上へ。一度、眼鏡が跳んでしまい、予備の眼鏡をかけて藪の中を探し回ったものの、なかなか見つかりません。眼鏡がなくては、単独での山行は難しいでしょう。藪山で正しい尾根を見極めるのも、自分で付けた目印を確認するのも、安心して歩くことすらも困難となるでしょう。私はいつも、予備の眼鏡をリュックに入れています。
 15分ほども探したあげく、土まみれになった眼鏡を発見しました。そこから山頂までは、たったの3分。10時53分、登頂。
 山頂は藪に覆われ、座る所もありません。空は雲に覆われ、展望はゼロ。しかし、無事登頂できたことと眼鏡が見つかったことが素直にうれしく、白山の方に向かって観音経をお唱えしました。
 11時過ぎに下山、藪をしばらくさ迷ったものの、尾根を外さず下ると道に出会いました。11時半過ぎ、強い雨が急に降り始め、道を急ぎました。12時に中須ノ宿に到着。雨の中、中須宮跡にて大きな声で般若心経をお唱えし、無事下山できたことを感謝しました。
 天正13年(1585年)8月、越前大野城主・金森長近は、豊臣秀吉の命により飛騨に攻め入りました。長近は、石徹白の白山中居神社より山越えで尾上郷に入ったといわれています。地形図を見れば、石徹白から尾上郷へ出るには、保川を遡って鞍部を越え、小シウド谷に下るのが最も妥当なルートであろうと思われます。
 今回、実地に登ってみて、その鞍部には白山修験の行場と中須宮があり、さらに東側へ谷が下っていることが分かりました。この谷を下ってゆけば、小シウド谷を経て尾上郷川、さらに庄川へと至るはずです。此処を通って、金森長近は飛騨に入ったことでしょう。また、此処を通って、「大菩薩峠」の宇津木兵馬は、飛騨から越前穴馬郷へと出たことでしょう。此処は、美濃から白山への修験の道と、飛騨・越前を結ぶ道の、十字路でありました。
 長近と妻の福は、同年夏、白山三所権現の一つ、別山の社に仏像を寄進しています。別山の本地仏・聖観音菩薩の像と思われます。長滝寺経聞坊に残る文書によれば、仏像の背銘文に「天下泰平之武士百姓共歌千秋之楽」「国土安全而子孫諸人同万歳之齢」等とあります。当時は戦乱の世、さらに、同年11月には白山周辺を震源とする巨大地震が起きており、天下泰平、国土安全への願いには、切なるものがあったはずです。
 帰りは、石徹白の大師堂と美濃の洲原神社に参拝しました。帰省ラッシュの為かノロノロ運転の車の列から、金森長近が晩年に築城した美濃の小倉山城が、よく見えました。
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

白山順禮写真館

Haxanjunrei

松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝