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長滝巡拝・毘沙門岳登拝


 11月12日、前日の雨はやみ、天候は徐々に回復傾向。朝8時半、美濃馬場白山中宮長瀧寺に参拝しました。拝殿、大講堂、薬師堂、常行堂跡、三重塔跡、開山堂跡等を巡拝しました。
 昔、この対岸で長瀧寺の住僧・敬愚上人が火定に入られました。火定三昧、即ち坐禅したまま己の身を焼き、焼身供養を行ったのであります。敬愚上人は永正15年(1518)6月付の制札を書いたと伝わっており(「高鷲村史」)、戦国時代の人でありました。当時の白山中宮長瀧寺は、かつて「上り千人、下り千人」といわれた繁栄にも陰りが見え、郡上郡内の末寺が次々と天台宗から浄土真宗に改宗し、飛騨にあった広大な寺領・河上庄も、戦国武将たちによって侵略されつつありました。古川町寿楽寺の大般若経奥書によれば、大永元年(1521)に飛騨で争乱があり、荘園警護の為に長瀧寺の僧兵が河上庄に向かったとあります。
 衰運にあったのは白山美濃馬場のみではなく、加賀馬場白山寺、越前馬場平泉寺も同様でした。かつては、加賀白山七社の一つ・佐羅早松宮の神輿を担いで京の都に押しかけ、本山である比叡山延暦寺を動かし、後白河院の近臣・西光の息子である加賀国守と目代を流罪にするほどの勢力を持っていた加賀の白山衆徒も、この頃には加賀における本願寺・一向一揆の勢いに圧倒され、天文6年(1537)に白山長吏の弟・平等坊が越前に亡命、理性坊澄範は人質となったと「白山比メ神社略史」にあります。また、南谷三千六百坊、北谷二千四百坊、僧兵八千を擁した巨大寺院・越前馬場平泉寺も、天正元年(1573)、一乗谷を捨てて平泉寺を頼り大野に逃れて来た朝倉義景を裏切り、朝倉景鏡と共に信長方について義景を自害に追い込んだ為、信長と抗戦中であった本願寺顕如上人は越前一向一揆の蜂起を指令。翌天正2年(1574)、平泉寺は全山焼失、景鏡も平泉寺院主も自害したのでありました。長瀧寺敬愚上人は、まさに白山中宮長瀧寺の存亡の危機のさ中にありました。このような状況下で、上人は火定に入られたのです。
 川向いの山を眺めていると、色づいた木々が、静かに燃え続ける上人の心に思えてなりませんでした。


ふと、華厳経にある、善財童子が刀山に登って大火聚の中に身を投げ、菩薩寂静安楽照明三昧を得たという話を想いました。敬愚上人は、自らを灯として、向いの山からずっと長瀧寺を見守ってきたのではないでしょうか。永禄10年(1567)に織田信長が美濃を制圧すると、翌年、74歳の道雅法印が岐阜城に赴いて信長に拝謁、長瀧寺の既得権保護の制札を受けています。長瀧寺は戦国時代を乗り切り、明治の神仏分離の際も、加賀白山寺、越前平泉寺が廃寺となる中、長瀧寺と長滝白山神社に棲み分けることで、法灯を今に伝えているのであります。
 長瀧寺に戻り、阿名院に参拝。廃絶した花蔵院を享禄2年(1529)道雅法印が再興し、阿名院と名付けたとあります。本尊は阿弥陀三尊。長瀧寺から長良川側に一段下りた此処は、対岸の敬愚上人火定の山とは目と鼻の先です。西面して火定三昧に入った敬愚上人と、その西にある、阿弥陀仏を本尊とする阿名院…敬愚上人の火定がいつであったか定かではありませんが、その姿を、焔を、若き日の道雅法印も見ていたはずです。
 長滝白山神社の本殿・大御前社、越南智社、別山社に参拝した後、長瀧寺から車で阿弥陀ヶ滝へ向かいました。


天文年間(1532~1555)、長瀧寺の名の由来であるこの長滝で修行していた道雅法印の前に阿弥陀如来が示現し、阿弥陀ヶ滝と名付けたそうです。滝の裏の不動明王に参拝し、岩窟にて念仏をお唱えして暫し坐しました。頭上から下流へと流れゆく水の如く、敬愚上人から道雅法印へと伝えられた「心」を想いました。
 阿弥陀ヶ滝を11時に発ち、車道を歩いて下り正ヶ洞棚田を経て旧白山禅定道に入りました。床並社に参拝し、峠を二つ越えて12時に旧桧峠着。白山方面は雲に覆われていましたが、大日ヶ岳は姿を現していました。毘沙門岳への登山道を登って12時半にスキー場の上に出ると、前方に毘沙門岳、後方に大日ヶ岳、左手に白鳥市街、右手には石徹白。毘沙門岳の上に日が現れては隠れていました。


13時すぎ登頂。北風が冷たく、手袋をしていない手がかじかみます。白山方面は雪雲の中ですが、北に大日ヶ岳。


東に鷲ヶ岳・白尾山、南に滝波山・平家岳。


白山に向かって妙法蓮華経観世音菩薩普門品を読誦しました。「若有持是観世音菩薩名者 設入大火 火不能焼 由是菩薩威神力故…」たとえ火に入っても、火も焼くこと能わざるもの、敬愚上人が遺したものは、それではなかったでしょうか。火中にあっても焼けぬもの、水中にあっても溺れぬもの、俗塵の中にあっても俗塵に染まらぬもの…敬愚上人の焼身供養と、俗世の権力者に頭を下げて法灯を守った道雅法印の行いとは、決して別のものではありません。「廛(まち)に入りて手を垂るると、孤峰に独り立つとは一般(おなじ)なり」(「碧巌録」第43則)。山で得られても日常生活に戻ればたちまち失われてしまうような体験は、本物ではありません。
 白山三所権現と毘沙門天、大日如来を供養し、四方の山々に礼拝して14時下山。15時に旧桧峠に着き、旧禅定道を下りました。茶屋峠から下は赤や黄や白に色づいた木々が美しく、苔むし、しっとりと落ち着いた信仰の道に心を洗われます。


色とりどりの葉の下を歩いていると、阿弥陀経の「青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光」という経文が心に現れました…それは、私の心に点された灯でありました。願わくはこの灯の、消えることのなからんことを。
 正ヶ洞の下の名号碑にて観経文と念仏をお唱えし、車道を登って16時に駐車場着。帰りは前谷白山神社と長瀧寺に参拝し、長良川沿いの帰路につきました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝