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白山平泉寺巡拝・矯正展

 しばらく体調がすぐれず、久々の遠出です。山登りは自制し、白山越前禅定道の玄関口・白山平泉寺へ。
 9月29日朝、車で越前大野から勝山に入って九頭竜川を渡り、先ずは六呂師高原方面に向かいました。7時に大矢谷白山神社に到着。


神社の隣に、途方もなく大きな岩が聳え立っています。白山を開山された泰澄大師が籠ったと伝わる岩窟です。岩のあまりのデカさに圧倒されながら、般若心経を読誦しました。この岩は経ヶ岳山頂部が崩壊して流れ落ちてきたもののようです。
 来た道を戻って平泉寺に向かう途中、大渡という処に「白山妙理大権現」の幟や「白山宮」の提灯が綺麗に飾り付けられた白山神社があったので、お参りしました。秋祭りでしょうか。


 平泉寺に着き、泰澄大師廟、顕海寺、御手洗池と巡拝して、しっとりとした苔に囲まれながら拝殿・本社へ。


白山妙理大権現、越南知大権現、別山大権現の白山三所権現各ご宝前にて読経・念仏し、ご真言・ご宝号をお唱えしました。開山社にお参りした後、南谷僧坊発掘地へ。平泉寺境内から越前禅定道へと登る尾根の左右には、僧の居住する坊院が沢山ありました。その数、左は北谷二千四百坊、右は南谷三千六百坊。実際に歩いてみると、その規模の巨大さに驚かされます。




僧坊の間には石畳の道が縦横に走り、僧坊はずっと上まで続いているようです。坊さん達は此処でどのような生活を送っていたのでしょうか…。平泉寺には能面打ちの名手・三光坊もいれば、三国の海岸に突き落とされた悪僧・東尋坊もいました。この発掘地に来る途中にあった「謀反岩」は、本殿用の石垣として寄進する石の大きさを弟の玉泉坊と競って負けた宝光院が、此処で弟を亡きものにしようと企んだことに因むそうです。


悪僧もいれば清僧もいたことでしょう。私が当時此処にいたとしたら…悪僧かもしれません。
 これだけの規模を誇った平泉寺が壊滅したのは、天正2年(1574)。前年に朝倉義景の従兄弟・朝倉景鏡(かげあきら)と共に織田方に寝返って義景を自害に追い込んだ平泉寺は、景鏡を匿ったことで、信長と敵対する本願寺の越前・加賀一向一揆勢から標的とされ全山焼失したのでした…。この時に焼け残った杉の一つが、若宮社の前にありました。


平泉寺御手洗池に戻り、池の前で正身端坐。明静なる水には、すべてが只、ありのままに映っていました。


 平泉寺を発ち、九頭竜川沿いに一路福井へ。この辺りは白山からよく見えますので、当然、白山もよく見えます。小舟渡橋の手前辺りから、白山御前峰と大汝峰を遥拝しました。


九頭竜川の向こうには、えちぜん鉄道。


永平寺町を通って福井に入り、向かったのは福井刑務所の矯正展。


福井刑務所はじめ全国の刑務作業製品を見たり買ったり、工場内の見学をしました。此処でも高齢や障がいのある受刑者が増えているとのことでした。出所しても引き受ける家族などがいない高齢者や障がい者を、福祉施設がきちんと受け容れて支援できる体制を作っていかないと、彼らは遅かれ早かれ、此処に戻ってくることになります。福井刑務所では職業訓練も行われており、溶接や電気、造園などと共にホームヘルパー科がありました。彼らは日常においても、高齢や障がいのある受刑者の食事や排泄の介助をしているとのことでした。罪を償い出所したら、是非とも福祉施設で活躍していただき、出所した高齢者や障がい者の支援にもあたってほしいものです。
 刑務所で昼すぎまですごし、足羽川沿いに一乗谷へ。戦国大名朝倉氏と家臣の居館や庭園、山城の跡です。


広大な朝倉館跡の後ろの山中に庭園があり、山上には城跡。天正元年(1573)、信長に敗れて近江から敗走し一乗谷に戻った朝倉義景は、一乗谷を捨てて平泉寺に向けて退却。それまで平泉寺は義景に味方し、近江へも玉泉坊や宝光院率いる僧兵達が出陣していました。しかし平泉寺は義景の従兄弟・景鏡と共に信長方に転身、平泉寺衆徒は一乗谷の城下を焼き払い、義景は大野で自害して果てたのでありました。平泉寺は何故、このような選択をしたのか…。おそらく、それは白山平泉寺を戦火から守るためであったと思われます。元亀元年(1570)に朝倉・浅井軍を山内に布陣させて信長を苦しめた比叡山延暦寺が信長に焼き討ちされたのは、元亀2年(1571)。二年前に壊滅した本山・延暦寺と同じ途を辿らぬ為には、平泉寺にもはや別の方法はなかったのかもしれません。しかし一旦免れた災難は、翌年、同じ仏教の他宗派によってもたらされたのでした…。
 朝倉氏の墓所にて、朝倉家および三界万霊の菩提を怨親平等に弔いました。朝倉館跡の少し北に、朝倉景鏡の館跡がありました。


朝倉館に次ぐ広さです。信長の下で姓を土橋に改め、再出発を始めた彼でしたが、結局、平泉寺と運命を共にしたのでした。私が景鏡と同じ立場に立たされたら、平泉寺衆徒と同じ立場に立たされたら、どうするでしょう?其処には個人の力ではどうすることもできない、大きな時代の波が押し寄せていたのでありましょう。そして白山は、時代の荒波に消え去ったものも、残されたものも、すべてを慈悲の眼で、見守り続けてきたのでした。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝