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出雲巡礼/大念寺~西谷~仏経山1

 2月21日朝7時半、出雲・今市の大念寺に参拝。


本堂の裏山には、六世紀後半の前方後円墳「今市大念寺古墳」があります。


前方後円墳としては出雲最大(約92m)、当時の出雲西部の首長の墳墓のようです。石室にて念仏をお称えしました。


大念寺から南東へ歩を進め、先月(2019.1.31)も訪れた一の谷公園の展望台へ。


8時、展望台から北西に弥山(みせん)を遥拝。


その手前には、順に出雲ドーム、大念寺古墳。弥山の西麓に鎮座する大社に向かって四拍手しました。大社から東に連なる山並は、「出雲国風土記」に「出雲の御崎山(みさきやま)」と記されています。東には、仏経山を遥拝。


「出雲国風土記」に「神名火山(かむなびやま)」と記される山。今日これから登拝する山です。
 一の谷公園から下り、涼池院の「花の井」へと行道。


弘化3年(1846)松江藩主命名の銘水とのこと。涼池院から南東へ歩いてゆくと、萬祥山窯元の後ろの丘の上に墳丘が見えてきました。8時半、西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)に到着。弥生時代後期(西暦200年頃)からの墳墓群で、その中には山陰地方に広く分布する「四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)」の全国最大級のものが、四基あります。西谷3号墓。


突出部を含めると南北40m以上、東西50m以上。弥生時代後期後半(二世紀後半頃)に作られ、墓穴は大小八つ以上あるそうです。頂部下の二つの埋葬施設の木棺からは、鉄剣、ガラス管玉(くだたま)、ガラス勾玉(まがたま)が出土し、墓上から出土した大量の土器には出雲のものの他、吉備や越(北陸地方)の特徴をもつものもあるとのこと。出雲の男王と女王が葬られたと思われる3号墓より大社を遥拝し、大国主神と王子眷属に想いを致しました。


 3号墓の北側には、2号墓。


3号墓に続いて造られたようです。四隅突出型墳丘墓の形は、江戸時代後期に豪潮律師が造立した壮麗な隅飾突起をもつ宝篋印塔の笠を、ひっくり返したかのよう。


(豪潮律師宝篋印塔、熊本・玉名、2018.7)
九州や東海地方で活動された豪潮律師の宝篋印塔と、古代の四隅突出型墳丘墓に直接の関係があるはずもありませんが、どちらにも大切な方の亡骸(舎利)が納められており、時空を超えて共通したデザインが感じられます。


宝篋印陀羅尼をお唱えし、大国主神王子眷属を供養しました。3号墓の南には、4号墓。


観音坂をはさんで3号墓と2号墓が見えます。かつて、3号墓の上には子安観音が祀られていたそうです。さらに南の6号墓からは、南東に斐伊川が望めました。


この川の源流部で須佐之男命は「高志の八俣の大蛇(こしのやまたのをろち)」を退治し(「古事記」)、また、この川の上流へと大国主神(大己貴命)は八十神たちを追い払ったのでした(「出雲国風土記」)。
 出雲弥生の森博物館を拝観した後、日本最大の四隅突出型墳丘墓・西谷9号墓へ。


三谷神社が鎮座する墳丘墓は樹木に覆われ、全貌は見えません。


9号墓が造られたのは西暦250年頃のようで、その後、出雲から四隅突出型墳丘墓は姿を消してしまいます。最後の出雲王の墓なのでしょうか。弥生時代後期、四隅突出型墳丘墓は越前や越中まで分布を広げています。9号墓から斐伊川へ歩を進め、10時、南神立橋より仏経山を遥拝。


下流側には神立橋と出雲の御崎山の山並。


斐伊川対岸の出西(しゅっさい)に「出雲結い(居相撲結)」という構築物がありました。


川が決壊した際の急水止工法として古くから当地で用いられてきたそうで、相撲の祖とされ垂仁天皇に仕えた出雲の野見宿禰(のみのすくね)が考案したとのこと。野見宿禰は、「日本書紀」によれば埴輪の考案者でもあります。
 出西より、東に仏経山を遥拝。


山裾を行道し、10時半に久武神社(くむじんじゃ)に着きました。


「出雲国風土記」に「久牟の社」とあります。祭神は素戔嗚尊(須佐之男命)。社伝によれば、素戔嗚尊が八俣の大蛇の生けにえにされる直前だった奇稲田姫(クシイナダヒメ)を当地から二百m東の稲城にかくまい、大蛇を退治した後、この地に来て

八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を

と歌ったとのこと。「古事記」「日本書紀」によれば、須佐之男命は斐伊川上流の鳥髪(仁多郡の鳥上山(船通山))で櫛名田比賣を角髪(みずら)に挿して八俣の大蛇を退治し、須賀の地(大原郡)で
「我が御心すがすがし」
と言って須賀の宮を建てたとき、この歌を詠んだことになっています。


(須我神社、2019.1.31)
しかし、斐伊川下流の久武神社周辺は出雲国出雲郡出雲郷、つまり元々の出雲の地であり、「出雲」の地名の由来であるこの歌が当地で詠まれたというのも、うなずけます。
 中世の出雲大社と鰐淵寺(がくえんじ)では、素戔嗚尊(須佐之男命)が主祭神とされていました。須佐之男命は、伊弉諾尊(イザナギノミコト)が伊弉冊尊(イザナミノミコト、出雲国と伯伎国の境の比婆山に葬られた)と黄泉比良坂(よもつひらさか、出雲国の伊賦夜坂)で離別した後、筑紫(九州)で禊をして最後に生まれた神。伊弉諾尊が左目を洗ったときに天照大御神が、右目を洗ったときに月読神が、そして鼻を洗ったときに須佐之男命が生まれたのでした。須佐之男命は父から海原を治めるよう命じられたものの、「妣(はは)の国根の堅巣国」、即ち伊弉冊尊のおられる黄泉の国に行きたいと泣き続けて勘当され、姉の天照大御神に別れの挨拶に行って誓ひ(うけひ)をした後、大暴れして高天の原から追放され出雲の国に来たのでした。須佐之男命は大国主神(大己貴命)の祖先であり、大国主神の正妻・須勢理毘賣(スセリビメ)の父であり、また、兄弟の八十神たちに迫害されていた大己貴命を黄泉の国で鍛えて「大国の主の神」へと育てた師。出雲大社の祭神は古代は大国主神、中世は素戔嗚尊、近世以降は大国主神に回帰していますが、私は特定の神さまよりも、伊弉冊尊~須佐之男命(素戔嗚尊)~大国主神と連なる出雲ゆかりの黄泉・幽世(かくりよ)・意識下の大神たちに、深い畏敬の心を感じるのです。(続く)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝