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長滝・石徹白巡拝/信長居館跡


 3月1日、白鳥で参禅後、白山中宮長瀧寺に参拝。


奥美濃は今冬、雪が少なかったです。大講堂で般若心経を読誦、阿名院にて念仏をお唱えし、東日本大震災で犠牲になられた方々に回向しました。


 長瀧寺から車で前谷を上って阿弥陀ヶ滝へ。県道から滝への道は厚い雪に覆われていました。スパイク付の長靴を履きましたが、昨日からの気温上昇の為か、膝までズボッとはまります。滝まで登ってゆくと、滝壺は淡いブルーの氷に覆われていました(冒頭写真)。氷の上を歩いて滝の裏へ。お不動様の横には、氷った滝の柱。


岩窟にて東日本大震災で犠牲になられた方々の為に念仏をお唱えし、正身端坐しました。
 この滝は、奈良時代に白山を開山し長瀧寺を建てた泰澄大師が発見したと伝えられ、天文年間(1532~1555)に長瀧寺阿名院・道雅法印が此処で修行中に阿弥陀如来を感得、阿弥陀ヶ滝と名付けました。永禄11年(1568)、前年に美濃を平定した織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、岐阜に戻ると、74歳の道雅法印は岐阜城に赴き信長に謁見、長瀧寺の既得権安堵の制札と軍配、食膳を受領しています。当時の長瀧寺は末寺が次々と一向宗に改宗し、飛騨にあった荘園も戦国武将に侵略されて危機的な状況にありました。後年、信長の栄華は露と消え、岐阜城も安土城も塵に埋もれましたが、長瀧寺はかろうじて今に残り、阿弥陀ヶ滝は変わることなく、今も綿々と流れ続けているのでした。
 阿弥陀ヶ滝から桧峠を越え、石徹白の大師堂へ。


明治の神仏分離・排仏棄釈の際、中居神社にあった奥州平泉・藤原秀衡寄進の虚空蔵菩薩像を始めとする仏像等が此処に安置されました。般若心経、虚空蔵菩薩ご真言、白山三所権現ご宝号をお唱えしました。此処には、織田信長が元亀2年(1571)6月に「白山別山大行事権現御宝前」に寄進した鰐口も残されています。
 元亀元年(1570)9月、顕如上人率いる石山本願寺が信長に対して決起、信長が出兵した隙に朝倉義景・浅井長政連合軍が近江坂本、大津、醍醐まで侵攻し、比叡山に布陣しました。翌元亀2年(1571)6月、越前の朝倉義景は娘を本願寺顕如上人の息子・教如上人と婚約させ、足利義昭、武田信玄、朝倉義景、比叡山延暦寺、本願寺一向一揆等からなる信長包囲網が固められています。当時、美濃白鳥にあった安養寺(一向宗)には石山本願寺、足利義昭、武田信玄、朝倉義景の書状が残っており、信長包囲網の中継点の一つであったようです。信長が白山中居神社・別山権現に鰐口を寄進したのは、まさにこのような時でした。長瀧寺、中居神社といった美濃越前国境の白山衆徒を味方につけることで、反信長ネットワークの分断と越前攻略を期していたのでしょう。
 続いて、白山中居神社に参拝。


本殿への石段を覆う雪の斜面に、神社の方が足場を作っていました。今年の積雪は例年の半分くらい、今年はもう雪は積もらないだろう、とのことでした。本殿の伊邪那岐神、伊邪那美神に参拝し、白山権現ご宝号をお唱えしました。
 元亀2年(1571)9月、信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしました。同年冬、ルイス・フロイスがフランシスコ・カブラルや日本人修道士ロレンソを伴って岐阜城に信長を訪ねた際、信長はロレンソに、伊弉諾・伊弉冉が日本の最初の住人であることについての意見を求め、その答えに満足した、とフロイスの「日本史」にあります。ロレンソがどう答えたのかは分かりませんが、おそらくアダムとイブ、原罪、神(デウス)のみによる救い等を説いたのでしょう。そして信長は、彼らの教えと自分の心は同じであることを「白山権現の名において」誓う、と述べたというのです。「権現」とは、日本の神々は仏教の仏・菩薩が日本人に合わせて姿を変えた「仮の姿」である、ということです。目が不自由で、洗礼以前は琵琶法師であったロレンソは、これを利用して伊弉諾の本地はアダムである、と説いたのかもしれません。そして、伊弉諾も伊弉冉も所詮、罪ある人間である、と…。しかし、信長はなぜ熊野権現でも日吉山王権現でも蔵王権現でもなく、「白山権現」と言ったのでしょうか。無論、比叡山を焼き討ちした信長が「山王権現」の名を出すはずもありませんが…。(白山信仰の拠点、越前平泉寺、加賀白山寺、美濃長瀧寺は、いずれも比叡山延暦寺の末寺です。)
 石徹白のマイクロ水力発電機に挨拶して白鳥に戻り、大島にある安養寺旧蹟に参拝しました。



現在は郡上八幡城下にある安養寺は、当時は此処にあったようです。碑の後ろには熊ヶ岳や、油坂峠周辺の美濃越前国境の山々。念仏をお唱えしました。
 長良川をずっと下り、金華山(岐阜城)の麓へ。信長の居館跡の発掘調査が現地公開されていました。居館の背後、今まで明治天皇の像が立っていた下から池の遺構が現われ、さらに水路を挟んで、客人をもてなしたとみられる大庭園が現われていました。滝も作られていたそうです。



フロイスたちもこの庭を目にしたことでしょう。(因みに、目の不自由だったロレンソは片目がわずかに見え、近視で眼鏡をかけていたカブラルは、岐阜の人々から目が四つあると思われたそうです。)この居館で、信長は「白山権現の名において…」と言ったのでした。


信長は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの前も、清洲城から熱田神宮へ向かう途中で榎白山神社に戦勝祈願しています。阿名院道雅法印との相見、中居神社・白山別山大行事権現への寄進。濃尾平野から北に、真っ白に輝く白山。岐阜城下を流れる長良川の源流、白山。織田家のルーツである越前・織田町の北に聳える、白山を開山された泰澄大師修行・入寂の霊峰、越知山…。
 なぜ「白山権現の名において」なのか、そんなことにはお構いなく、長良川は綿々と流れ続けていました。阿弥陀ヶ滝から、白山連峰から、綿々と流れ続けていました。人間に名付けられる、ずっとずっと以前から…。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝