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法観寺・雲居寺跡~浄蔵法師忌

 11月21日は、浄蔵法師のご命日。「大法師浄蔵伝」によれば、浄蔵法師は応和3年(963)あるいは康保元年(964)の11月21日、京都東山の雲居寺(うんごじ)で遷化されました。法師を偲び、11月21日夕、鴨川から東山へと向かいました。


 松原橋(かつての五条橋)から望む、鴨川上流。正面には、浄蔵法師が修行された比叡山。浄蔵法師最晩年の応和3年(963)8月、この辺りの鴨川西岸で、空也上人が十四年かけて書写された金泥大般若経六百巻の供養会が厳修されました。「空也上人誄」によれば、この法会には六百人の高徳の僧が招かれ、その中には八坂寺(法観寺)の浄蔵大徳もいました。浄蔵法師は、法会に来ていた大勢の乞食比丘の中の一人を見て驚き、敬い拝んで上座に坐らせ、ご飯を捧げました。その比丘は二杯食べ、浄蔵法師に見送られて去りましたが、食べたはずのご飯が、元の通りに残っていたそうです。浄蔵法師曰く、「文殊、空也の行に感ぜし也」。この乞食比丘は、空也上人の徳行によって現われた文殊菩薩であったというのです。「本朝世紀」には、これより二十四年前の天慶2年(939)閏(うるう)7月、修行僧空也が坐禅練行したことが記され、「文殊之化身」とあります。
 天慶2年(939)は、空也上人37歳、浄蔵法師49歳の時です(数え年)。この年、浄蔵法師は白山で夏行をしており、7月下旬、故老から「昔、神融という名の苦行人がおり、景雲年中(慶雲?704~707)に始めて白山を開き、法華経の功力で毒龍悪鬼を御厨(みくりや)という池に籠めた。近頃、修行者でこの池畔に行った者はいない。もし人が近寄れば、天地震吼し四方は暗闇となる。」との伝承を聞いたのでした。法師がその真偽を確かめようと、晴天の真昼時に御厨池の畔に到り、竹筒に水を酌み護身結界して戻ろうとすると、雷電霹靂し暴風雨となり、天地震裂・山川崩倒して毒龍が姿を現わしたのでした。龍は黒雲を吐き、草木を吸って悉く池に引き込み、雲霧立ちこめ右も左も分からぬ状況になりました。浄蔵法師は恐怖の中で神呪を唱え大願を立て、 なんとか無事に危難を脱したのでした。笈を背負い水を提げ、白山を下って京に戻った法師は、後に、その霊水を人々に授けて病を治したそうです(「大法師浄蔵伝」)。


(白山・御厨池、2018年10月登拝時)
浄蔵法師が平将門調伏のため、二十一日間の修法を比叡山首楞厳院(横川中堂)で行じたのは、その翌年(天慶3年(940))の正月22日からでした。
 鴨川から東山の上空を望むと、おぼろ月。


今日は十四夜。五条橋(現・松原橋)を渡って東へ上ってゆき、法観寺(八坂寺)の塔へ。


天暦4年(950)、浄蔵法師は法観寺に住し、夏行を修していました。5月下旬、強盗十余人が弓箭を携えて乱入しましたが、法師が大音声で「守護者はいませんか!」と言うやいなや、盗人たちは庭に倒れ臥し、杖やムチで打たれるような大声をあげて錯乱状態に陥りました。法師が護法善神に、この賊らは、無知無明によって惑わされているだけなのです、どうか、早く許してやってください、と言うと、賊らは正気を取り戻し、慚謝して去ったとのことです(「大法師浄蔵伝」)。
 また、天暦6年(952)3月、高官・貴族ら数十人が法観寺に花見に来た際、塔が北西、つまり内裏(御所)の方角へ傾いているのを不安がっていたので、法師は、以前からこの塔を直そうと思っておりました、と述べました。彼らが改修費を援助しようとすると、浄蔵法師は「物を用いなくてもできます」と言ったのでした。その夜、法師は亥の刻(21~23時)に露地に坐して塔を加持し、本坊に戻りました。弟子の仁トウ(王偏に當)が不思議に思って庭を徘徊していると、子の刻(23~1時)に北西の方から微風が吹き来たり、塔の四隅に吊るしてある宝鐸が調和のとれた音で鳴りました。夜が明けると、塔はまっすぐに聳え立っていました。高官・貴族らは集まり、礼拝したとのことです(「大法師浄蔵伝」)。
 法観寺から少し上って二寧坂を下り、高台寺のある高台から法観寺を遥拝。


浄蔵法師が遷化された雲居寺は、この辺りにありました。大勢の観光客と派手なイルミネーション。静かにお参りできる場所を探し、霊山観音さまの前で読経・念仏。大きな観音さまの頭上に輝く、十四夜の月。


下界の人工的な灯りの上に超然と、月光環が現われました。


少年の頃、宇多法皇に見出だされて得度を受け、比叡山、大峰、葛城山、那智山、さらに白山等で修行された浄蔵法師は、応和3年(963)73歳、または康保元年(964)74歳の10月、東山雲居寺を終焉の地と定めて入山しました。11月17日・18日、法師は
「悲シイ哉、破戒ノ身ヲ以テ久シク信施ヲ受ク、罪報ヲ想フ毎ニ、心神安ラカナラズ、命終ノ期至リ遁(のが)ルル處無シ」
と頻りに陳べています(「大法師浄蔵伝」)。「破戒ノ身」とは、法師に二人の子があったことを指すのでしょうか。長男は出家し才芸に優れていましたが、修行中に奥州で亡くなりました。次男は、成人してからおじの大江朝臣の養子となったそうです。浄蔵法師は11月21日酉の刻(17~19時)、正念に念仏して合掌し、西に面して安坐しながら遷化されました。雲居寺があった高台寺周辺から静かな大谷祖廟の方へ上ってゆくと、月が宝冠を戴いた観音さまの如く、闇夜を照らしぬいていました。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝