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初瀬~多武峰~飛鳥巡拝・下

 翌15日朝6時、飛鳥の山田寺跡に参拝。


欽明天皇16年(641)に蘇我倉山田石川麻呂が創建、本尊は薬師如来だったようです。山田寺の南から東へ車道をてくてく登ってゆき、30分程で高家(たいえ)の峠着。観音さまやお地蔵さまが並んでおられる背後に三輪山を遥拝。


高家から下って7時に辻堂橋のお地蔵さまに掌を合わせ、北山川に沿って南へと登ってゆきました。道は谷沿いに只管、上へ。アジサイの花が疲れを癒してくれます。


北山の金毘羅権現堂と手力雄神社に参拝してさらに登ると、尾根にひっそりと石仏が佇んでおられました。


辻堂橋から多武峰へと一時間程登り続けて、ようやく道が下りになったところで「多武峰中興の祖 増賀上人墓」の入口に着きました。石段を上って増賀上人廟にて法要を修し、正身端坐。


 増賀上人は、僧侶の名聞利養や偽善を笑殺するかの如き幾多の奇行で知られ、応和3年(963)に藤原高光(如覚)に招かれて比叡山から多武峰に移って以降、長保5年(1003)に亡くなるまでの四十年、多武峰妙楽寺の復興と弟子たちの指導に専念されました。死に際しては弟子たちと共に念仏を唱和し、死語三年たってから火葬するよう遺言したそうです。私は、増賀上人のこのような言動の背後に、限りのない慈悲心を感じるのです。上人は長徳2年(996)、講堂にて九十日間専ら法華経を誦し、自分が往生を遂げた暁には、先ず多武峰の大衆を済度し、次にすべての衆生に及ばん、との誓願を発しておられます。すぐに火葬することを許さなかったのは、己れの屍を以て弟子たちに無常の現実を示さん、との老婆心であったのではないでしょうか。


 御廟から少し下ると、念誦崛(ねずき)不動尊への入口がありました。渓を少し下って不動明王に参拝。


増賀上人は、自作の不動明王像の前で行法を修していた時に三目八臂の天魔が現われたので、不動明王の姿をとって天魔を追い払ったそうです。山の中で稀に遭遇する神秘的現象も、その体験に強く執着するなら魔であり、妖怪に他ならないでしょう。
 9時半前、増賀堂跡に参拝。


増賀上人は多武峰妙楽寺南西隅の此処に居られました。談山神社に入ると、「神廟拝所」に如意輪観音菩薩が坐しておられました。妙楽寺を開山された定慧和尚(藤原鎌足の長子)が天智4年(665)に唐から持ち帰った如意輪観音像を、模刻したものと伝えられています。般若心経とご真言をお唱えしました。妙楽寺には定慧和尚が唐から持ち帰った十一面観音菩薩像もありましたが、明治時代にフェノロサが購入、現在は東京の国立博物館におられます。「神廟拝所」は、かつては妙楽寺の講堂でありました。安倍文殊院におられる釈迦三尊さまが元々おられた処です。此処で増賀上人は「摩訶止観」を講じ、昼夜に法華経を誦して発願をされたのです。


講堂の上には権殿と十三重塔。権殿は妙楽寺の常行三昧堂でした。常行三昧は天台大師の「摩訶止観」に説かれる四種三昧(常坐・常行・半行半坐・非行非坐)の一つ、増賀上人のおられた当時、常行三昧堂や法華三昧堂が整備され、修されていました。妙楽寺は止観の道場であったことでしょう。


談山神社本殿は妙楽寺の聖霊院であり、当初から藤原鎌足公が祀られていました。常行堂と比叡神社の間の山道を登って談山(かたらいやま)と御破裂山へ。山頂の藤原鎌足公廟所にて、念仏をお唱えしました。
 11時に談山神社を辞し、増賀堂に掌を合わせて飛鳥へと下ってゆきました。川に沿ってのどかな村を一時間程下り、石舞台古墳へ。


蘇我馬子の墓といわれており、念仏をお唱えしました。外の日射しは暑いものの、石室の中は涼しいものです。その後、岡寺、橘寺と巡拝。



談山神社に続いて、この二寺でも如意輪観音菩薩を拝みました。田圃の中に点在する飛鳥京の遺構を歩いて飛鳥寺へ。


崇峻天皇元年(588)蘇我馬子が発願、推古天皇4年(596)創建の日本最初の寺であり、本尊のお釈迦さま(飛鳥大仏)は日本最古の仏像とのこと。悠久たる時の流れ。こののどかな田園が、かつてわが国の中心だったのでした。
 甘樫丘に登ると眼下に飛鳥寺や飛鳥京跡が見渡せ、彼方には多武峰の山並を拝むことができました。


多武峰の十一面観音さまも釈迦三尊さまも、今は山を下りてしまわれました。しかし、増賀上人の衆生済度の誓願は、今も山野に息づいているのを感じました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝