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小白山登拝

 7月28日朝6時前、小雨の中、越前・下打波の白山神社に参拝。


泰澄大師が白山開山の前に地面に挿した箸が根付いた、と伝わる大桂の下で、般若心経を読誦しました。此処に来るまでに何回かトイレに寄ってきたのですが、登拝の前に便を調えておくことは大事なことです。天台智者大師の「摩訶止観」に、禅定に入るには先ず、食・眠・身・息・心の五事を調えよ、と説かれていますが、これは登拝にもそのまま当てはまるでしょう。登拝日の前から、すでに登拝は始まっているといえます。
 打波川沿いに県道を遡り、美濃又川沿いの林道へ。三ノ又谷に入るとすぐにゲートがあり、駐車。石徹白境の橋立峠を目指して6時半に林道を歩き始めました。雨はあがり、路傍には観音さま。落石の多い林道はやがてつづら折りに上ってゆき、オオバギボウシ、ヤマホタルブクロ、ソバナ等の花が咲き、アサギマダラがひらひらと舞っていました。


東には、橋立峠と小白山(こはくさん)の間の稜線が見えてきました。


さらに登ってゆくと、絶壁にシモツケソウやコオニユリ、オオバギボウシ等が咲いていました。


涼しく静かな林道散策です。
 8時に林道終点着。橋立峠から打波側の斜面は崩壊しており、稜線まで土留め工がされています。


林道からさらに藪を進むと、クガイソウがあちこちに咲いていました。さて、何処から斜面に取り付くか…。ほぼ垂直なブロック板積みをよじ登るのは大変なので、登れそうな処を探していると、踏み跡(獣道?)のある尾根がありました。登ってゆくと尾根は完全な笹藪に。藪を漕いで9時前に橋立峠に着きました。


藪中ですが、石徹白側には谷が下っていました。
 峠から南へ登ってゆくと、ヤセ尾根の右側(打波側)は尾根の直下まで土留めがしてある為、藪のド真ん中を進むよりは楽です。


しかし、崩壊地なので滑落のおそれはあります。眼下に三ノ又谷や歩いてきた林道を見下ろし、北には1634m峰の右奥に野伏ヶ岳。



崩壊地を過ぎると、尾根は凄まじい藪に。無秩序にはびこる頑強な笹は、まるで八万四千の煩悩の如くでありました。


途中、西側に三ノ又谷が見下ろせ、彼方には経ヶ岳から赤兎山の稜線。


かつて、平泉寺から白山まで登拝した折、経ヶ岳(北岳)と大舟山の間から三ノ又谷がよく見えたのを覚えています。東側には大日ヶ岳、桧峠、毘沙門岳。


現在の県境は今歩いている尾根ですが、かつては大日ヶ岳~桧峠~毘沙門岳の尾根が国境でありました。北には橋立峠と野伏ヶ岳。


白山は雲を被っていました。
 藪中を、一切を遮し、十一面観音菩薩のご真言をお唱えしながら藪を掻き分け足を踏み入れ、小白山へと一歩ずつ登ってゆきました。11時登頂。北面して観音経と白山権現ご真言・ご宝号をお唱えしました。打波側より雲が流れて北と西はよく見えませんが、石徹白側はよく見えました。山頂は坐る処もない藪。石徹白側の斜面に気持ちのよい草原がありました。


眼下に石徹白、その背後に大日ヶ岳~桧峠~毘沙門岳の稜線、さらにその奥に鷲ヶ岳~白尾山。


毘沙門岳の南には西山や三ノ宿、高賀の山並、さらに滝波山、美濃平家岳、平家岳。


大日ヶ岳本地・大日如来、桧峠付近の国境(くにさか)ノ宿本地・十一面観音菩薩、多和ノ宿本地・毘沙門天、三ノ宿本地・阿弥陀如来、高賀山本地・虚空蔵菩薩などの諸尊を前に、草を敷いて正身端坐しました。
 正午すぎまで坐し、下山。来た藪を下る覚悟でした。


が、尾根の左側に谷があるのを見つけ、しばらく下ってみました。


急な処はありますが下れない程ではなく、やがて水も涌き出し、冷たい水で顔を洗い喉を潤しました。正面には経ヶ岳を遥拝。


次第に勾配は急になり、天然のシャワーで行水。途中から右手の山腹へ藪を漕ぐと、崩壊地のブロック板積みに出ることができました。ブロック板積みに沿って山腹をトラバース。



橋立峠へ登った際の尾根を下るつもりでしたがよく分からず、谷を下ってみると、谷の左に往路の尾根がありました。14時に林道終点着。


小白山から下ってきた谷を見上げ、投地礼をしました。


 林道をてくてく下ってゆき、15時半すぎにゲート着。ゲートの少し手前にネムノキの花が咲き、カラスアゲハが舞っていました。


帰りに再び下打波の白山神社と、泰澄大師の挿した箸が根付いたと伝わる大桂に参拝。


玄奘三蔵法師の「大唐西域記」に、お釈迦さまが歯の掃除に使って棄てた楊枝が根付いた、と伝わる大樹が、インドのマガダ国などにあることが記されています。泰澄大師の大桂も釈尊の高樹に倣ったものでありましょうが、楊枝ではなく箸となっているのは、奈良時代初頭の当地にはまだ楊枝が普及していなかったからでしょう。楊枝は仏教と共に日本に伝来したといわれています。箸も仏教と同時に大陸から伝来したようで、朝廷の儀式に初めて箸食を採用したのは聖徳太子でした。七世紀、飛鳥の都にはすでに箸も楊枝も伝来していたはずです。しかし、箸が庶民にまで普及したのは八世紀初め、ちょうど、泰澄大師が白山を開山された頃でした。
 泰澄大師が白山麓の此の地に根付かせた大桂は、今も無数の葉を茂らせています。それはまるで、煩悩が八万四千あるとしても、煩悩の数だけ仏さまの教えが、無明を転じる道があることを、そして、これら無数の葉、無量の教えの根は一つであることを、示しているかのようでありました。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝