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武芸八幡~喪山~天王山~権現山巡礼1

 二年前(2016年12月)に美濃の武芸八幡宮~喪山~天王山~権現山と放浪しましたが、この山域について、当時はハッキリとは気付いていなかったことが意識の上に昇ってきたので、再度巡拝してきました。
 12月15日朝、武芸川町の武芸八幡宮(むげはちまんぐう)に参拝。


養老元年(717)に泰澄大師が大碓命(オオウスノミコト、日本武尊の兄、美濃の豪族・牟宜都君(ムゲツ氏)等の祖先)を祀って創建、門前の下馬標は織田信長が奉納したものです。かつては神宮寺として大聖寺があり、延喜年中(901~923)に宇多法皇が御幸されたと伝わります。長い参道を歩いて拝殿に参拝。


本殿の脇に摂社が並んでおり、本殿側から順に出雲社・鹽竃神社・天満神社・白山神社・秋葉神社・須佐乃男神社・御鍬神社。白山神社が祀られているのは、泰澄大師ご開山の寺社であれば当然かもしれませんが、出雲社(大己貴命(大国主神))と須佐乃男神社(須佐乃男命)が祀られていることの意味に、今まで思い至りませんでした。お二方とも、出雲とゆかりのある神さまです。
 かつての宇多法皇の足跡を辿り、武芸八幡から峠を越えて東へ。


沢沿いの小藪から開けた田園地帯に下り、喪山を目指して行道。


西に、越えてきた峠を振り返ります。


武芸八幡から三十分ほどで喪山に着きました。


「古事記」によれば、出雲の大穴牟遅神(オオナムチノカミ)即ち大国主神は、根の堅州国(黄泉の国)で祖先の須佐之男命による試煉を受けて地上に戻り、出雲を拠点に葦原中国(アシハラノナカツクニ=日本)の国作りを完成しました。高天の原の天照大御神(アマテラスオオミカミ、須佐之男命の姉)は、息子の天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)に葦原中国を治めさせようとして天菩比神(アメノホヒノカミ)を遣わしたものの、大国主神に従ってしまい、三年たっても戻ってきません。次に遣わした天若日子(アメノワカヒコ)は、大国主神の娘の下照比賣(シタテルヒメ)と結婚してしまい、八年たっても戻ってきませんでした。高天の原(天つ神)側では偵察のために鳴女(なきめ)という名の雉を遣わしたものの、天若日子は天つ神から賜った弓矢で射殺してしまいました。その矢は高天の原の天照大御神と高御産巣日神(タカミムスビノカミ)の処まで至り、高御産巣日神が「もし天若日子に邪心があるのなら、この矢に当たれ」と言って下に返すと、その矢は寝ていた天若日子の胸に命中したのでした。天若日子の妻、即ち大国主神の娘である下照比賣の泣く声が天まで届き、天若日子の親族が下ってきて喪屋を建て、八日八夜の葬礼を行いました。弔いにきた下照比賣の兄・阿遅志貴高日子根神(アヂシキタカヒコネノカミ)を見た天若日子の両親は、わが子に似ていた阿遅志貴高日子根神を生き返ったわが子と勘違いしてしまい、怒った阿遅志貴高日子根神が喪屋を剣で切り蹴り飛ばしたのが、この喪山とのことです。
 この神話から分かるのは、大己貴命(大国主神)の娘・下照比賣命が自分の兄に似た男と結婚したことです。また、この「喪山」が、おそらく出雲の国から美濃まで飛んできたことです。喪山の西にある武芸八幡宮に出雲社と須佐乃男神社が祀られているのも、頷けます。喪山神社に参拝し、喪山に登って北へと行道。


喪山を下って御嶽神社に登り、喪山と向き合って立つ不動明王に参拝。


さらに北上して大矢田神社(おやだじんじゃ)御旅所より天王山を遥拝しました。


大矢田神社は明治の神仏分離までは天王山禅定寺と称し、養老2年(718)に泰澄大師が牛頭天王(須佐之男命)を祀って開山されました。牛頭天王(ごずてんのう)は京都・東山の祇園社(現・八坂神社)、および祇園祭りの祭神として有名です。インド・マガダ国の王で牛の頭をもつ牛頭天王は、后を求めて南海の竜宮への旅の途次、裕福な巨端将来(こたんしょうらい)の家に泊まろうとしたものの、断られます。巨端将来の兄で貧しい蘇民将来(そみんしょうらい)は牛頭天王一行を厚くもてなし、食事と宿を提供しました。竜宮で婆利采女(はりさいじょ)を后とした天王には八人の王子ができ、マガダ国への帰途、巨端将来の一族を皆殺しにします。ただし、蘇民将来の娘であった巨端将来の妻の命を救うため、茅輪を作り「蘇民将来子孫也」という札をつけるよう命じたのでした。
 牛頭天王は疫病神であると同時に防疫神であるという、二面性をもった神さまです。日本では牛頭天王と須佐之男命が習合しています。須佐之男命は牛とは関係ありませんが、伊弉諾尊(イザナギノミコト)の鼻から生まれたにもかかわらず、黄泉の国の伊弉冊尊(イザナミノミコト)の処に行きたいと泣き続けたり、姉の天照大御神が治める高天の原で大暴れして追放され、出雲国で八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して救った櫛名田比賣(クシナダヒメ)を妻として出雲・須賀に宮を建て、やがてかつての夢の通り、伊弉冊尊(黄泉津大神)のおられる根の堅巣国(黄泉の国)で大神となるなど、陰と陽を兼ね備えた神さまです。
 御旅所から北へ。天王神社、天王山祖霊社と順拝して9時に仁王門前に着きました。


一時、雪が降ってきました。牛頭天王の八王子を祀る八王子神社、牛頭天王の妻である婆利采女(須佐之男命の妻である櫛名田比賣(奇稲田姫命))を祀る華堂神社。石段を登り、開山・泰澄大師を祀る祖霊殿を経て拝殿へ。



牛頭天王即ち須佐之男命にお参りして天王山へと登ってゆきました。大モミジは既に散っていましたが、途中、まだ色あせていない紅葉が拝めました。


険しい山道を一心に登ってゆくと、汗が出ます。山頂部に出ると、北に板取川と、高賀山。滝波山は雪化粧。


拝殿から三十分で登頂、西に冠雪した伊吹山。


南には、歩いてきた参道、喪山、そして長良川。


かつては牛頭天王(須佐之男命)を祀る霊山であったはずですが、今は山頂にそのおもかげはなく、牛頭天王(須佐之男命)は意識の下に潜っておいでのようです。来た道を少し戻って北へ下り、立岩から北に高賀の山並、東に中央アルプスの雪嶺を遥拝しました。


西には、武芸川の権現山。


立岩からまっすぐ尾根を下ってゆき、大岩を拝んでさらに尾根を降下。


水のない半道川(はみちがわ)を渡り、ズボンを草まるけにして車道に出ました。福寿稲荷神社の鳥居をくぐって上に登り、稲荷社からさらに上へ。


御嶽山の行者を祀った石碑の上に祠があり、一番上には大穴牟遅大神と少彦名(スクナビコナ)大神を祀った石碑。


神仏分離前は蔵王権現が祀られていたのでしょうが、この二尊は出雲を拠点に日本の国作りをされた神さま。大穴牟遅神(大国主神)は喪山の天若日子の義父であり、天王山の須佐之男命の婿。この山域に相応しい二尊に、思わず掌を合わせました。(つづく)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝