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気比・西方ヶ岳~蠑螺ヶ岳巡拝

 16日朝5時半、敦賀の氣比神宮に参拝。


霊亀元年(715)、当時近江国守であった藤原武智麻呂が、気比神の神託により氣比神宮境内に神宮寺を建ててから千三百年。神と仏の共生を示す「神宮寺」の最古の記録です。氣比神宮寺は今では何処にあったかも定かではないようですが、氣比神宮入口の見事な権現鳥居が神仏習合の伝統を明白に物語っています。鳥居の前後に稚児柱のある権現鳥居は、神宮寺が描かれてある氣比神宮の古図にも描かれています。権現鳥居は白山平泉寺や厳島神社などにも見られます。
 拝殿に参拝した後、「氣比神宮古殿地」より天筒山を遥拝。


天筒山の麓を北へ歩いてゆくと金前寺(こんぜんじ)に着きました。


天平八年(736)、聖武天皇の勅により泰澄大師が十一面観音菩薩を本尊として建立。氣比宮奥院であったそうです。泰澄大師は、藤原武智麻呂が氣比神宮寺を建てた二年後の養老元年(717)、白山頂翠ヶ池に十一面観音菩薩を感得して白山を開きました。金前寺を建てた天平八年には、同じく聖武天皇の勅により近江高月の向源寺を、自ら十一面観音菩薩の像を刻んで建立しています。金前寺や向源寺の建立は、天平七年(735)に大流行した疱瘡(天然痘)の病難消除を祈願してのことであったようです。一旦、終息したかに見えた疱瘡は天平九年(737)に再び猛威を振るい、当時右大臣であった藤原武智麻呂や、共に朝廷の中枢にあった彼の三人の弟の命をも奪うほどでした。金前寺にて般若心経と十一面観音菩薩ご真言をお唱えし、武智麻呂公の菩提を弔うと共に、現在も続くエボラ出血熱などの伝染病の病難消除をお祈りしました。
 金前寺から金崎宮に参拝し、金ヶ崎城址へ。元亀元年(1570)、織田信長は越前に兵を進めて金ヶ崎城を落とし、朝倉義景の本拠地・一乗谷に進撃しようとしていました。しかし、同盟していた北近江の浅井長政が義景に味方した為に退路を断たれ、急いで京に逃げ帰り、木下藤吉郎秀吉に金ヶ崎城のしんがりを勤めさせたのでした。「月見御殿」より、敦賀湾と西方ヶ岳を遥拝。


金前寺は元亀元年の戦火で全焼、昭和二十年(1945)には米軍の爆撃により灰塵に帰したとのこと。南北朝から戦国時代、先の大戦まで、当地で亡くなられた多くの戦没者・犠牲者の為に念仏をお唱えしました。
 金ヶ崎から天筒山に登り、山腹の「山之神」へ。静かな山道にはシャガが咲いていました。


7時すぎに山之神に参拝。


境内には「大権現」の石碑が、麓の氣比神宮側に建てられていました。


神仏習合千三百年の伝統が感じられます。気比権現は白山権現(客人権現)と共に比叡山の山王二十一社に勧請されており、気比権現の本地は聖観音菩薩(客人権現の本地は十一面観音菩薩)。本地仏ご真言と気比権現ご宝号をお唱えしました。
 氣比神宮に戻り、車で西浦の常宮神社へ。明治の神仏分離までは常宮大権現と称する氣比神宮の奥宮で、社家はなく、天台宗の社僧がお仕えしていたそうです。神仏分離で社僧が還俗して神職となった状況は、同じく天台宗であった白山三馬場(越前平泉寺・加賀白山寺・美濃長瀧寺)においても同様であったでしょう。境内には桜が咲き、本殿には「常宮大権現」の額。


参拝して8時に西方ヶ岳へと登り始めました。
 山道を登ってゆくと「奥の院展望所」と書かれた岩があり、棚田と海が見下ろせました。


山道には岩が多く、雨宿りもできるような巨岩がゴロゴロ。


中生代末の花崗岩です。銀命水で喉を潤し一休み。側にはカナヘビ君が這い、タムシバが蕾んでいました。巨大な「オウム岩」から上は山道に残雪も見られ、イワウチワが白にピンクに咲いていました。


9時半、西方ヶ岳登頂。山頂東の岩上に立つと、北にカモシカ台へと続く尾根、東には敦賀湾が望めました。



空が霞んで白山は不見。白山の方に向かって観音経を読誦しました。
 西方ヶ岳からさらに北へ縦走。途中で左手の谷に下るとカモシカ台の巨岩が見上げられ、谷には尼池がありました。



10時にカモシカ台着。岩上からは南に西方ヶ岳


北に蠑螺(さざえ)ヶ岳


西には美浜原発と日本海。


美浜原発も敦賀原発も現在稼働しておらず、先月、美浜1、2号機と敦賀1号機の廃炉が決定したばかりです。敦賀2号機も断層の問題で再稼働は難しそうです。地熱などの原発に替わるエネルギーの開発・普及を、今の子供たちが将来実現してくれることでしょう。頭の固い大人たちは既存の権益にしがみついてしまいがちです。発電所や送電線が無くたって生きてゆける鳥やカナヘビや蝶が、うらやましいものです。原発の炉心を絶えず冷却することが必要なように、私たちも己れの欲望・怒り・無知の三毒を絶えず冷却し、正念がメルトダウンして苦しみが撒き散らされることのないようにしたいものです。
 海の彼方は大陸です。


敵味方なく、先の大戦の戦没者・犠牲者の為に、原爆の犠牲者の為に、念仏をお唱えしました。11時に坐を立ち、10分ちょっとで蠑螺ヶ岳着。東に明神崎や水島が見下ろせました。


北東に少し下った岩の上に立つと、北に敦賀原発、南に敦賀港が望めました。



東にぼんやりと残雪の峰々も見えてきました。白山に連なる両白山地の、西端の山々でしょう。のどかな山頂で正午前まで坐し、来た道を戻りました。
 20分程で西方ヶ岳に戻り、岩上に坐して東の残雪の山々を遥拝。


白山の方に向かって投地礼をし、13時に下山しました。銀命水に下ると、朝は蕾だったタムシバの花が開いていました。


奥の院展望所の少し上で、往路には気づかなかった脇道を発見。登ってみると、巨岩の隙間の渓の源頭に窟がありました。


常宮大権現の奥の院のようです。ご宝号と念仏をお唱えさせていただきました。奥の院展望所から見上げると、奥の院の巨岩の上をトンビが舞っていました。


 14時15分に麓に下り、出会ったおばあさんに挨拶すると、「おかえり。」と答えてくれました。山から下りてきて「おかえり」と言われると、なんだかホッとします。常宮神社にお参りし、帰りに気比の松原に寄りました。波穏やかな浜辺に広大な松原が茂っています。彼方には西方ヶ岳。



ふと、陸前高田の松原のことを想いました。大津波で一本残らず消えてしまった松原…。百年かけ、千年かけて高田松原が甦ることを切に祈ります。
 明るく静かな気比の山と海には、神と仏が、日本と世界が、歴史と未来が共存していました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝