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白山加賀禅定道登拝・下

 17時半前、まだ大部分が雪に覆われている翠ヶ池に降りると、大汝峰をバックに、凍った池に夕日が映っていました。


池畔に坐して法要を修し、先の大戦の戦没者に回向しました。大汝峰に戻って夕焼けの御前峰・剣ヶ峰を遥拝。


夜は白山会の大汝小屋に泊まらせていただきました。


風の強い山上の、大人一人分程度の緊急避難小屋。戦時中、米軍のB29爆撃機の見張り小屋として建てられたそうです。70年前、マリアナ諸島から次々と飛来しては各地を爆撃していった米軍の新型機B29。此処にはレーダーでもあったのでしょうか。B29は福井大空襲の復路や富山大空襲・長岡大空襲の往路にこの周辺を通ったかもしれません。富山と長岡には、後に長崎に落とされた原爆の模擬爆弾も投下されています。長崎に原爆が落とされる前日には、敦賀に模擬爆弾が投下されました。
 無謀な侵略戦争の結末…。70年がたち、見た目には国土は復興したようにみえます。しかし、心の深いところでは、まだ自他ともに苦しみは癒えていないのかもしれません。戦後70年の祈りとは、一国・一民族の過去の為だけではなく、人類の過去・現在・未来の為の祈りでなければならないと思います。
 翌22日朝4時半すぎに小屋を出ると、北アルプスから日が昇ってきました。


上空には雲が多く、朝日はすぐに雲に隠れました。冷たい北風。立山の左側には朝焼けの富山湾が見渡せました。


南には御前峰・剣ヶ峰、昨日は雲に隠れていた別山も遥拝できました。



御前峰を前に坐し、5時半に下山。福井市街が、朝日に明るく輝いて見えました。


 七倉山から四塚山へ縦走し、大汝峰・御前峰・別山の白山三所権現を遥拝。


四塚山から加賀禅定道の尾根を一望し、下ってゆきました。


長坂の下りで日が差してきて、油池でジャンパーを脱ぎました。池には四塚山が映っていました。


日差しはあるものの冷涼な風が気持ちよく、順調に歩いて8時前に天池着。下に百四丈滝を拝みつつ雪庇を下ってゆきました。七倉山・四塚山の雪融け水が滝を下り、尾添川・手取川を経て日本海へと流れてゆきます。


 美女坂の下りはけっこう足にこたえます。坂を下るとカタクリの花が出迎えてくれました。


9時に奥長倉小屋着、10時にしかり場に着き、四塚山・七倉山の奥に大汝峰を遥拝。


日差しが強くなってきました。檜新宮に参拝して御仏供(ごぶく)水へ。ハライ谷は雪に覆われ、金沢の大乗寺につながっていると伝わる御仏供水は厚い雪に埋もれていました。


谷には雪崩の跡。持ってきた飲料が尽きたので、加賀禅定道の尾根には戻らずハライ谷を下ってゆくことにしました。


 天然のかき氷を食べつつハライ谷の雪を下ってゆくと、やがて雪の割れ目に沢が現われました。


花咲く沢で喉を潤し、右岸に渡り左岸に渡りハライ谷を下ってゆきました。


正午に林道着、林道ゲート前の駐車場に無事戻ると、久しぶりにヒトに出会いました。
 下山後、尾添の白山下山仏に参拝。明治の神仏分離の際に加賀禅定道から下ろされた仏さまたちが祀られています。その中の「安正観音」さまは、昔、飛騨の婆さんが盗み出し、金の延べ棒にする為に七日七晩フイゴで吹いて溶かそうとしたところ、首だけが無くなり、加賀禅定道・檜新宮の屋根の葺き替えの時にその首が出現、首から下を復元して大切にお祀りしてきたそうです。白山の金(銀)の仏像を飛騨の悪人が盗んで溶かそうとしたという話は、飛騨白川郷や美濃禅定道側にも伝えられており、別山に祀られていた藤原秀衡公寄進の聖観音菩薩像であったとの伝承もあります。また、この悪事の直後に天正13年(1586)の白山大地震が発生し、白川郷の帰雲山が大崩壊したとも伝えられています。ご宝前にて般若心経をお唱えしました。仏像であれ山菜であれ国土であれ、何であろうと、己れの欲望を充たす為に盗みをはたらくならば、結局は自分も苦しみ他人も苦しむことになります。
 手取川を下り、白山比メ神社に参拝。かつての白山加賀馬場本宮白山寺です。神社の脇に「河濯尊(かわすそん)大権現」が祀られていました。泰澄大師が彫ったと伝えられる女神像で、左手に薬壺を持っておられます。本地は薬師如来でしょうか?続いて白山比メ神社の近くの「歌占滝」へ。謡曲「歌占」の舞台。この滝の上にあった住吉宮で、別れ別れになっていた父と子が再会したのでありました。


藪を上って滝の上に出てみると、今は社はなく、一面に水田が広がっていました。歌占滝の水は、上で一旦別れ、下で再び一つになって流れていました。
 帰り道、下吉野あたりから前方に白山の山並が見えたので、コンビニで車を停めました。東側の山の麓に坐像が見えたので、泰澄大師でもあろうか、と見に行くと、その左手に巨大な杉の樹が祀られていました。「御仏供(ごぶく)杉」です。お像は泰澄大師ではなく、大智禅師でありました。南北朝時代の曹洞宗の禅僧で、私も昔、駒澤大学の坐禅堂で大智禅師発願文をお唱えしたものです。肥後の方ですが、まさか白山麓で相見するとは思っておりませんでした。中国(元)から帰ってきた後、正中3年(1326)ここ吉野に祇陀寺を開山されたとのこと。御仏供杉は、数年後、肥後に戻る際に杉の小枝を逆さに挿したものが根付いた、と伝えられているそうです。


この御仏供杉とハライ谷の大乗寺御仏供水との関係は分かりませんが、大智禅師は若い頃、加賀大乗寺の瑩山禅師の下でも修行されています。大智禅師の御前で般若心経と発願文を読誦しました。


 大智禅師は晩年、肥前・島原半島南部の加津佐に円通寺を開き、其処で亡くなられました。加津佐には、岩の上で毎日坐禅する禅師を真似て坐すようになった猿の不慮の死を傷み、禅師が猿の姿を石に彫って供養したことが伝えられているそうです。

「願わくは、我れ此の父母所生の身を以て、三宝の願海に回向し、一動一静法式に違せず、今身より仏身に至るまで、其の中間に於て、生生世世出生入死、仏法を離れず。在在処処、広く衆生を度して疲厭を生ぜず。或は剣樹刀山の上、或はカク湯爐炭の中、唯だ是れ正法眼蔵を以て、重担と為して、随処に主宰とならん。」(「大智禅師発願文」)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝