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鮎走白山宮/篠脇山 巡礼

 6月1日朝、郡上市高鷲町の鮎走白山神社に参拝しました。



社伝によれば奈良時代養老年中、泰澄大師が白山を開山された際、当地に口の宮と奥の宮を建て、背後の山(大日ヶ岳)の頂にて大日如来を感得し、尾根伝いに白山まで登ったとのことです。現在の鮎走白山神社は「口の宮」に当たります。口の宮の裏にはお地蔵さまや不動明王が祀られ、大洞川沿いに上る林道を歩いてゆくと、15分程で奥の宮跡に到着しました。



静かな境内には石垣や石段が残り、最上段には本殿があったのでしょうか。



往時は七堂伽藍が建ち並んでいたと伝えられています。般若心経と大日如来ご真言、白山権現ご宝号をお唱えしました。境内の下を、大洞川が流れていました。



 続いて、鮎走から程近い白山美濃馬場中宮長瀧寺に参拝。泰澄大師が開いたと伝わる白山美濃禅定道は、長瀧寺から前谷、旧桧峠を経て石徹白の中居神社の裏の尾根を上り、美女下平から初河谷や倉谷を渡って今清水社(大杉)に出ていました。禅定道とは別に、長瀧寺の裏の尾根伝いに一ノ宿、二ノ宿、三ノ宿、西山、毘沙門岳、大日ヶ岳、芦倉山、丸山を経て神鳩に出る行者の道もあったようです。鮎走からのルートもあったのでしょう。長瀧寺大講堂のご本尊は、明治時代の火災で焼失するまでは、本像と台座合わせて高さ6.3mにもなる大日如来坐像、脇にも大きな釈迦如来と阿弥陀如来が坐していたそうです。大日如来を白山の本地とみるのは、長瀧にも鮎走にも共通する美濃側の白山信仰の特徴のようです。長瀧寺の坊院跡より大日ヶ岳の山並を遥拝しました。



大日如来(毘盧遮那仏)は密教における宇宙の根本仏、天台密教では、久遠実成の本仏(釈尊)と二仏一体です。
 白鳥町から大和町に入った処に、阿千葉城跡があります。鎌倉時代、下総国千葉郡の千葉氏の一族・東(とう)氏が、承久の乱(1221)の戦功によって美濃国郡上郡山田庄の地頭となり、最初に城を築いた処です。城の上り口には馬頭観音さまが祀られていました。



山道を数分歩くと城跡に出ました。



千葉氏とその一族は妙見菩薩を氏神としており、東氏も此処に妙見菩薩を下総国より勧請しています。因みに、私の故郷に近い下総国の青べかの町にも、妙見菩薩を祀った島があります。妙見菩薩は北極星を象徴しています。妙見菩薩ご真言をお唱えしました。城跡を下ろうとすると、山道の脇にカモシカの頭蓋骨が転がっていました。



馬をはじめとする動物たちの救い手である馬頭観音さまを念いつつ、菩提を弔いました。
 次いで、大和町・古今伝授の里フィールドミュージアムへ。東氏は阿千葉城で三代すごした後、此処、篠脇城に移りました。先ずは明建神社に参拝。阿千葉城から移した妙見宮です。明治の神仏分離で現在の社名となりましたが、参道入口の見事な権現鳥居が神仏習合の伝統を物語っています。



拝殿の右側には妙見宮の別当寺・尊星王院の跡があり、妙見菩薩ご真言をお唱えしました。



 フィールドミュージアムでは、妙見宮の薪能「くるす桜」の映像や東氏九代・常縁(つねより)の和歌などが観賞できます。東常縁は古今和歌集の奥義を宗祇に伝授した、武将にして歌人であります。見学後、篠脇山へ。山道にはコアジサイが咲き、観音菩薩像が並んでいました。



20分程で山上の篠脇城址着。東家代々と、麓の村の日清・日露戦争戦死者の霊位を祀ったお堂があり、観音経と念仏をお唱えして、併せて先の大戦の戦没者にも回向しました。



東氏は戦国時代永禄2年(1559)に分家の遠藤氏に滅ぼされ、生き残った東常尭は白川郷・帰雲城の内ヶ島氏を頼って再起を図ったものの、天正13年(1586)の白山大地震で帰雲山が大崩壊して城下が埋没し、内ヶ島氏も東氏も亡びてしまったのでした。
 お堂の側面をふと見ると、額に詩が書いてありました。

篠脇城跡
青葉若葉に包まれて
日さえ洩れざる城跡の
壊れかけたる石垣に
我れたたずみて眺むれば
宵暗包ふ黄昏の
寂寥我に迫るかな

昭和十九年秋
氏名の後、二十一才とあります。昭和19年秋といえば、戦況が悪化し、日本が特攻隊を始めた頃です…。この詩を書かれた方は、戦線に赴くのでしょうか、それとも、愛しい人を見送ったのでしょうか…。
 山上に坐していると、涼しいそよ風に汗が引いてきます。樹上でセミが一斉に鳴いては止み、鳴いては静まります。国家間の、人間同士の、あるいは人間と他の生き物との間のトラブルを、武力や暴力を用いずに解決することはできないものでしょうか…。たとえそれが難しいとしても、現実はテロや軍備拡張や愚かしい我のぶつかり合いだとしても、人間には詩や歌が、祈りが、対立を超えた真実の心の世界が必要なのだと信じます。
 一時間程して坐を立ち、大手門より下山しました。麓には東氏館跡庭園があり、東常縁の歌碑がありました。



応仁の乱の最中の応仁2年(1468)、美濃の斎藤妙椿が郡上に侵攻して東氏八代・氏数の守る篠脇城を落としました。宗家千葉氏の内乱平定の為、将軍足利義政の命により下総に派遣されて関東を転戦していた弟の東常縁は、この悲報に接し

あるがうちにかかる世をしも見たりけり
人の昔のなおも恋しき

と詠み、その後、妙椿に十首の和歌を送ったそうです。

いかばかり嘆くとか知る心かな
ふみまよふ道の末のやどりを

思いやる心の通う道ならで
たよりも知らぬ古里の空

たよりなき身を秋風の音ながら
さても恋ひしき古里の春

人間誰しも、自分の生まれ育った故郷を想う心は同じはずです。そして、故郷に戻れぬ悲しみもまた、同じはずです。常縁の和歌を受け取った妙椿は和議に応じ、篠脇城は剣を用いることなく、和歌によって返還されたのでした。
 東常縁がシテの謡曲「くるす桜」は、毎年8月7日、明建神社の祭礼の夜に奉納されています。また、篝火として「白山の火」「千葉家の火」「篠脇の火」が採火され、点されるそうです。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝