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美山巡礼

 7月6日午前、美山町(岐阜県山県市)を巡拝しました。
 武儀川に架かる美山大橋から川に降りると、下流に「行徳岩」がありました。


明智光秀の母が身籠っていたとき、この岩の上に立ち、立派な子を授かるよう祈ったそうです。この辺りには光秀の母君にまつわる伝承がいくつか残されています。川から国道のトンネルをくぐって10分ほど歩くと、中洞の白山神社がありました。


光秀の母君は、此処でわが子の出世を祈ったと伝えられています。境内の左側には「明智光秀公の墓」がありました。天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長を亡き者にした光秀は、その十一日後に山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れて亡くなったといわれています。が、美山の伝承では、死んだのは光秀の影武者であり、光秀は生まれ故郷のこの地に荒深小五郎と名を変え、西洞寺の林間の庵に隠棲していたとのことです。墓前にて光秀公と一族の菩提を弔いました。


光秀は慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦で東軍に味方しようと七十余才の老体を鞭って村を出ましたが、根尾で川に流されて亡くなった、と伝えられています。
 白山神社は参集殿の左に阿弥陀堂があり、参拝して奥の山へ。昨夜の雨に濡れた草葉の間を登ると、本殿が鎮座していました。白山権現に参拝。


参集殿に戻る途中、行く手を横切る薄い踏み跡があり、左側に江戸時代の墓がありました。光秀の子孫、荒深家の方のものです。さらに藪中を進んで沢を渡り、国道に出ました。


 道を渡ると「仏光山西光寺旧跡(庵の庭)」と書かれた案内板がありました。光秀の母君が住んでおられた処のようです。案内に従って山を登ってゆくと、山道は北東方向へどんどん高度を上げてゆきました。15分ほど登ると、雨宿りできそうな岩の下にクマのぬいぐるみ等がお供えしてありました。


そのすぐ先が、「庵の庭」でした。


光秀の母が尼僧となって住んでいた寺があったそうです。小さな境内にはアジサイの花が咲き、滝が寂かに流れていました。天文11年(1542)、宗桂禅尼が土岐家滅亡を弔うため庵を建立、慶長9年(1604)にこの庵にて入寂(94才)とあります。光秀の父は美濃国守護・土岐氏の従臣でありました。西光寺は後に西洞寺と呼ばれるようになったとのこと。
 庵の庭からさらに上へ道が続いており、登ってみると、道ごと斜面が崩壊している箇所がありました。やがて道は途絶え、藪を登って稜線に出ました。稜線上は樹が茂って展望はありませんが、かすかな踏み跡があり、北へ縦走。尾根はやがて西に回りこみ、左手に登ってきた山が見えました。


樹間に南西の展望。


西には土岐氏の大桑(おおが)城のあった古城山があります。尾根は下りとなり、やがて完全な藪に。左手の山腹をトラバースする踏み跡(獣道?)を見つけ、辿ってゆくと眼下に沢が現われました。


沢に降りると、沢のほとりに人が独り入れるくらいの窟がありました。


草の露と汗で全身ドロドロです。眼下に沢を見下ろしながら、窟前に坐しました。ひっそりとした山中の沢の響きが清々しく、山籠りするにはよい処です。光秀(荒深小五郎)が隠れ棲んでいたというのは此処ではないか、と感じました。


 沢は北から南へ流れており、沢を登ると上を山道が横切っていました。山道を右へ進み、庵の庭から登ってきた山道に合流、庵の庭に戻って滝の水で喉を潤しました。滝の脇にも薄い踏み跡が上っており、登ってゆくと先程の窟に戻りました。窟の前で再び正身端坐。己れの名を棄てて隠棲せざるを得なかった光秀。かつて出世を願った母の想いは如何ばかりであったでしょう。しかし、七十才を越えた光秀が関ヶ原に向かおうとしたのは、義憤を捨てることができなかったのでしょうか。観音経と念仏をお唱えし、戦国乱世の騒乱で命を落としたすべての人々に回向しました。



 庵の庭から下り、武儀川へ。車で武儀川沿いに遡り、富永白山神社、徳永白山神社と巡拝しました。



いずれも森閑としたお社です。南無白山妙理大権現。
 昼すぎ、武儀川から神崎川沿いの道へ進むと、前方に大きな観音さまがお姿を現わしました。美山平和観音です。境内は少し荒れていますが、「済州島のシンボル・トルハルバン」の像の間を通って観音さまの御前へ。



1991年に武藤久次さんという方が平和を祈願して建立、韓国で八ヶ月かけて作製されたお像とのことです。小雨の中、般若心経を読誦して日韓両国の平和を祈願しました。昨夜半、ユネスコの世界遺産委員会で「明治日本の産業革命遺産」の登録が決定したことは、韓国の「百済歴史地区」の登録と合わせて、両国の間での久々の明るい話題でありました。韓国側は当初、朝鮮人の強制労働があったとして反対していましたが、お互いが歩み寄ってのようやくの登録決定です。確かに、朝鮮半島の方たちが受けた苦しみに私たちはもっと寄り添う必要があるのかもしれません。今回の世界遺産には長崎の三菱長崎造船所等が含まれており、戦前、長崎で鉄工所をやっていた私の曾祖父や祖父も喜んでいることでしょう。長崎では原子爆弾によって七万人以上の尊い命が失われましたが、その中には朝鮮の方たちも多く含まれていました。平和とは、いつか、遠い世界で実現されるものではなく、お互いが今、隣人と和解し共生しようとする努力の中にこそ、あるのではないでしょうか。
 美山平和観音は、当初は周囲に温泉や展望台もあり賑わったようですが、今は草に覆われ、廃墟の中に観音さまが独り立ち続けておられます。この観音さまが日韓両国の平和のため、世界の平和のための心の拠り所となることを、切に祈ります。



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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝