FC2ブログ

記事一覧

菩提山~明神山~伊吹山登拝

 8月28日、岐阜県垂井町岩手の白山神社より伊吹山まで縦走しました。
 朝5時すぎ、垂井町の伊富岐神社に参拝。


伊吹山の神を祀る古社です。境内入口には弥勒堂があり、弥勒菩薩ご真言をお唱えしました。伊吹山頂にも弥勒堂があります。また、伊富岐神社入口の東側にはかつて蛇池という池があり、伊吹山の「荒神」退治にきた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)をこの池の大蛇が苦しめた、と伝えられています。(「垂井町史」)
 続いて、明泉寺に参拝しました。戦国時代の軍師・竹中半兵衛の叔父が創建した浄土真宗のお寺です。門前には「戦争は罪悪である」と書かれた碑が立っていました。


昭和12年(1937)、日中戦争が始まり、出征兵士を垂井駅まで見送りに行っていた明泉寺・竹中彰元住職(当時71才)は、村人に「戦争は罪悪である」「戦争はもうこの辺でやめた方が国家として賢明である」と話したそうです。その後、村の坊さんの会合でも同様の発言をし、特別高等警察に逮捕され、翌年、陸軍刑法違反の罪で禁錮四月執行猶予三年の判決を受けました。当時の宗教界は、国家の「国民精神総動員」に連動して戦争に協力していました。本来、「不殺生」を説く仏教界も「一殺多生」を唱え、彰元師のような正しい仏法に基づく見解に耳を貸しはしませんでした。彰元師はこの件で、東本願寺より僧位を最下位に落とす処分を受けています(70年後の2007年に復権されました)。念仏をお唱えし、先の大戦で亡くなられた方々に回向しました。
 菩提山城登山口の菩提・白山神社下に駐車し、5時45分出発。白山神社にて般若心経と白山三所権現ご真言・ご宝号をお唱えしました。


30分程登ると菩提山頂に出ました。山頂からは濃尾平野を一望。


麓には明泉寺付近も見えます。菩提山城は戦国時代、竹中半兵衛の父・重元が攻略して居城とした城です。北西の樹間に、伊吹山が頭を覗かせていました。
 城跡を歩いて南西へ。尾根上に踏み跡が続いており、尾根をはずさず辿ってゆくと、鳥居が現われました。鳥居から踏み跡は北西へ。7時に「杖立明神さかさ杉」に参拝しました。日本武尊が逆さに差した杖が根付いた、と伝わる杉です。


父・景行天皇の命による西国征伐・東国征伐を終えた日本武尊は、尾張のミヤズヒメの許に草薙剣を置いたまま伊吹山の荒神退治に向かいました。当地の伝承によれば、日本武尊は岩手山(菩提山)から尾根伝いに伊吹山へ向かいましたが、道が険しく、杖を突きつつ此処まで登り、此処から先は杖はいらぬと杖を地面に突き差したそうです(「垂井町史」)。枝が逆さについているように見えるのは、冬の雪の重みのためでしょう。日本武尊は、白い猪の姿(「古事記」)あるいは大蛇の姿(「日本書紀」)で現われた伊吹山の神を、これは荒神の使いであろう、と見過ごし、大氷雨を受けて遭難、下山後、故郷の大和を偲びつつ伊勢の能褒野で亡くなったのでした。日本武尊に念仏をお唱えしました。
 さかさ杉から尾根道を登り、7時半前に明神山登頂。杖立明神に参拝しました。祀られているのは日本武尊です。


鹿が走り去ってゆきました。明神山の山頂からは樹間に伊吹山が遥拝できました。


伊吹山の左には川戸山。西に見える鉄塔を目指し、日本武尊の歩いた尾根を縦走してゆきました。林道を渡ると尾根には鉄塔巡視路が現われ、8時に鉄塔着。此処でも鹿に出会いました。鉄塔から北西に伊吹山を遥拝。


南には霊仙山や鈴鹿の山並。


尾根伝いに南西に下って南に登り、さらに西へ藪中の踏み跡を登ると、8時半に782m三角点に着きました。川戸山の後ろに伊吹山が鎮座していました。


さらに西へ進むと、美濃・近江国境の尾根に出ました。
 伊吹山南東尾根の少し藪化した踏み跡を登り、川戸山に登頂。南東に歩いてきた尾根、その奥には養老の山並。


川戸山から先は踏み跡は明瞭になり、9時半に「播隆上人修行屋敷跡」(行者杉)に参拝しました。


江戸時代に槍ヶ岳を開山された播隆上人が修行していた処です。念仏をお唱えしました。左下から、伊吹山ドライブウェイを走る車の音が聞こえました
 さらに尾根を北西へ進むと、尾根の右手から伊吹山を目の前に拝むことができました。


ドライブウェイに削られているとはいえ、日本武尊の歩いたという古の縦走尾根は、雄大な山並を真正面に続いていました。播隆上人も此処から伊吹山を遥拝し、登拝したことでしょう。尾根の左手からは琵琶湖や比叡山も垣間見えました。尾根を下って10時にドライブウェイに着地、しばらく車道を歩いたもののコンクリートの上は暑く、斜面に取り付いて藪を漕ぐと尾根上に踏み跡が続いていました。上平寺越駐車場に出、伊吹山頂を見上げました。


 上平寺越駐車場から車道を少し登り、10時半に尾根の踏み跡へ。藪中にゴロ石の細道が続いています。


石灰岩でしょう。登ってゆくと、南東に川戸山が見下ろせました。


北風が涼しく、苔むす明るく静かな山中をアサギマダラがフワリフワリと舞い、鹿の群れが駈け去ってゆきました。


やがて伊吹山頂部が見えてき、11時半、「徳彦霊神」と書かれた祠に参拝。


西側に伊吹山頂と琵琶湖の彼方の比叡山を拝みました。


山頂部に出、サラシナショウマやイブキトリカブトの咲く山道を歩いて山頂へ。11時45分に伊吹山寺覚心堂にて読経しました。



 山頂で休憩していると、霧が流れ来ては去り、遠くの山並は見えませんでした。涼しい風。伊吹山の神を退治に来た日本武尊を、伊吹山の神は雹や霧で退散させましたが、その前に白猪(大蛇)の姿で日本武尊の前に現われた際、日本武尊が「神の使いっぱしり」と勘違いして攻撃しなかったのに対し、伊吹山の神も直接攻撃を加えませんでした。伊吹山の神は「専守防衛」に徹していたように見受けられます。また、日本武尊がミヤズヒメの許に草薙剣を置いてきたのは、油断・慢心の為でありましょう。山に登る者にとって、日本武尊の遭難は永遠の戒めです。
 弥勒堂に参拝して正午すぎに下山。お花畑をアサギマダラが舞っていました。


来た尾根を戻って13時すぎに上平寺越駐車場通過、さらに尾根の踏み跡を下ってドライブウェイを横切り、川戸山への尾根へ。往路に伊吹山を遥拝した辺りに坐し、伊吹山の雄大な山容と歩いてきた尾根を見上げました。


伊吹山の右手には能郷白山。


伊吹山に投地礼をしました。
 行者杉、川戸山を経て15時に国境尾根から782m三角点への分岐着。樹間を涼しい西風が吹いていましたが、アップダウンの多い尾根歩きでさすがに疲れてきました。鉄塔、明神山と縦走し杖立明神に感謝。日本武尊が伊吹山の神の化身(白猪・大蛇)を「使いっぱしり」として殺さなかったのは、不要な殺生を避けたとも受け取れます。古事記では、日本武尊は西国征伐に続いて東国征伐を命ぜられたことに対し、父(景行天皇)は自分を殺すおつもりなのか、と嘆いています。また、日本書紀では、東国征伐に日本武尊は双子の兄の大碓命を推薦し、景行天皇が大碓命を出征させようとしたところ、大碓命は隠れて出征を拒んでいます。この大碓命は臆病者、小心者とされているようですが、大碓命が封ぜられた美濃の美山の山奥には、彼が隠れたと伝わる巨大な「戸立岩」があり、武芸川町には泰澄大師が大碓命を祀ったと伝わる武芸(むげ)八幡宮があり、大碓命の子孫であるムゲツ氏が壬申の乱(672年)後に建立した弥勒寺は、江戸時代に円空上人が再興して晩年を送り、すぐ側の長良川畔で入定されています。大碓命は小心者などではなく、出征を拒み、美濃にしっかりと種をまいた方だともいえるのではないでしょうか。
 日本武尊の子である仲哀天皇は、九州のクマソ征伐の際、神憑りした神功皇后の「朝鮮半島(新羅)に出兵せよ」との「神託」を拒んだために亡くなり、皇后が「三韓征伐」をしたとされています。私は、出兵のお告げに従わなかった仲哀天皇の判断は正しかったと信じます。「神のお告げ」によって戦争を始めるというのは極めて危険であり、宗教の、狂信の恐ろしさであると思います。
 明神山南東尾根の鳥居を、西日が照らしていました。


鳥居から北東へ縦走し、16時半に菩提山着。濃尾平野を見下ろして一休みし、北西に伊吹山を拝んで下山しました。


17時すぎに菩提・白山神社と弘法大師開山の菩提寺の観音さまに参拝。仏教の「不殺生戒」とは、「殺さない」だけでなく、「殺させない」「殺すことを喜ばない」ことでもあります。下山後、車中でまとわりつくアブを手でたたいたら命中し、地に落ちました。軽くたたいたのでしばらくすると動き出しましたが、「不殺生」の実践は実に難しいものです。それでも、殺生を喜ばないこと、戦争を喜ばないことは、絶えず絶えず実践してまいりたいものです。
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

白山順禮写真館

Haxanjunrei

松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝