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信濃比叡より恵那山・神坂山登拝

 22日朝6時前、信濃比叡・広拯院に参拝。



弘仁8年(817)、伝教大師最澄上人が東国布教の際、東山道の難所・神坂峠の信濃側に建てた布施屋(避難所)で、本尊は薬師如来です。大師は峠の美濃側にも布施屋・広済院を建てています。伝教大師のお像の前で般若心経を読誦し、古の東山道を歩き始めました。暮白の滝を拝み、明らむ東の空には網掛山の姿。





6時半に神坂神社に参拝し、カラマツコースを登ってゆきました。



 うっすらと霧のかかる涼しい山道を延々と上へ。



けっこうキツい登りでしたが、7時15分に1471mピークに出てからは、なだらかな道が続きました。ナナカナドの赤い実や、葉先が色づき始めた樹々を見つつ行道。



萬岳荘を経て8時すぎに国境稜線に出ました。霧で展望はないものの空は晴れてきつつあります。



恵那山への縦走路を歩いて、トリカブト咲く神坂峠遺跡に参拝。



かつて日本武尊が此処を越えて東征し、伝教大師が東国布教に赴いたのでした。
 神坂峠からは登山者も見られ、前方には恵那山の山腹が見えてきました。



9時に鳥越峠を通過し、やがて右側があちこち崩壊している尾根を縦走。振り返ると、富士見台や神坂山が拝めました。



晴れてきて恵那山も姿を現わしましたが、遠くの山々は見えません。



崩壊した谷の先に、温川が見下ろせました。



 山頂部への急峻な山道を登って10時半頃に山頂部へ。樹々は色づき始めています。



二乃宮(剣神社)で不動明王ご真言、三乃宮(神明社)で天照皇大神に参拝。山頂部はさすがに人が多いです。四乃宮(熊野社)、五乃宮(富士社)、



六乃宮(葛城社)と巡拝し、11時15分に山頂の恵那神社本社にて般若心経をお唱えしました。



熊野、富士、葛城と、役行者ゆかりの地の神々が祀られていますが、この恵那山も役行者が開いた山です。役行者がどこにも祀られていませんが、明治の神仏分離・廃仏毀釈で姿を消したのでしょう。当時の苗木藩による廃仏毀釈は徹底していたそうです。しかし、役行者の代わりに役行者ゆかりの地の神々が祀ってあれば、隠れキリシタンならぬ「隠れ修験者」にとっては、表向きは神社でも其処に役行者や本地仏を拝むことができます。
 恵那神社の祭神は伊邪那岐大神と伊邪那美大神で、白山の祭神と同じです。恵那権現の本地は観音さまでしょうか。白山権現ご宝号をお唱えしました。山頂部の樹々はやや色づいていますが、雲に覆われ展望はありません。11時半に山頂を辞し、下山。



復路は静かでした。14時に神坂峠着。



日本書紀によれば、日本武尊は東征からの帰りに信濃坂(神坂峠)で難渋し、白鹿に化けた山神に蒜を投げて殺し、白狗(白いオオカミか)に導かれて美濃に無事下ることができたとのこと。日本武尊はその後、尾張のミヤズヒメと一夜を明かして伊吹山の荒神退治に向かい、遭難して伊勢で亡くなったのでした。
 弘仁8年(817)に伝教大師(最澄上人)が東国布教の折に此処を通ってからおよそ百年後、比叡山の浄蔵法師も此処を通って東国に向かったようです。古の東山道には醒井と御嵩に浄蔵法師の伝承が残っています。御嵩の長岡観音堂は、伝教大師が御嵩に建てた布施屋・願興寺に泊まった浄蔵法師が霊夢をみて、村人の病難消除の為に彫った十一面観音菩薩を祀ったお堂で、開眼供養は延喜20年(920)とのこと。浄蔵法師はその後、東山道を下って行ったと伝えられており、伝教大師の跡を偲んで神坂峠を越えたことでしょう。浄蔵法師は後に白山でも修行し、「泰澄和尚伝記」を口述したとも伝えられています。
 神坂峠から富士見台へ縦走。



14時半に富士見台に着くと、大勢の観光客で賑わっていました。南西に恵那山を遥拝。



北には御嶽山方面がうっすらと見え、白山は不見。木曽駒ヶ岳は雲を被っていました。





富士見台から神坂山へ向かうと静かな道となり、落雷遭難の碑に掌を合わせて15時に神坂山登頂。



やっと、誰もいない山頂に辿り着きました。石上に坐し、観音経を読誦。



浄蔵法師が白山頂の水を京の庶民に施したのは、天慶2年(939)頃と伝えられています。当時は東国の平将門の乱、西国の藤原純友の乱の最中で、地震や洪水などの天災も続いていました。浄蔵法師が翌天慶3年、比叡山横川で平将門調伏の修法を行ったのは朝廷の意向によるものでしょうが、白山の水を人々に施したのは、災害や病に苦しむ庶民の為であったのでしょう。同じ頃、天慶元年(938)に空也上人が京で乞食を行じ、いただいたお布施で仏事をなし、また貧しい人々に施し、念仏を弘め始めています。翌天慶2年に上人は坐禅を行じ、「文殊の化身」とも呼ばれています(石井義長「空也」)。空也上人は後に、貴賤の喜捨による十一面観音菩薩像の造立(病難消除の為)と金字大般若経六百巻の書写を発願し、応和3年(963)、金字大般若経供養会を鴨川の河原で行いました。高僧が招かれ、大臣から庶民まで結縁したこの法会には最晩年の浄蔵法師も参加し、招かれた百人程の乞食比丘の中に文殊菩薩を見出だして供養した、と伝えられています。浄蔵法師のこの行動は、戦争や天災、疫病の不安におののく京の巷で乞食を行じ、苦しむ人々を救わんと活動した空也上人を讃え、その行をさらに弘めてゆくための方便であったのでしょう。空也上人は京都東山の西光寺(六波羅蜜寺)の他、会津で亡くなったとも伝えられ、浄蔵法師も東山の雲居寺(廃寺)の他、長州・須佐で亡くなったとも伝えられています。それらの伝承は、この法会に結縁した乞食比丘たちの地方での活動によるものなのかもしれません。
 恵那山に掌を合わせ、15時半に下山。



富士見台との鞍部から萬岳荘方面へ下り、古の東山道へ。神坂山から湧く苔清水で喉を潤しました。日本武尊の前に現われた山神とは、神坂山の神でしょうか。往路と同じカラマツコースを一心に下り、16時45分に神坂神社に降りました。境内の石は、日本武尊が腰かけ、白狗に出会った処だそうです。



神社から少し下った処に東屋があり、名号碑に掌を合わせました。往路には気づきませんでしが、「陀」の字の右側が「它」ではなく「色」になっています。



ふと、御嵩で見た、キリシタン遺物といわれる「南無阿弥絶仏」の石碑を思い出しました。しかし、「陀」の俗字は「こざとへん」に「施」の右側なので、陀の俗字が変形しただけなのかもしれません。念仏をお唱えしました。
 伝教大師が歩いた古の東山道を下ってゆき、17時15分に広拯院着。伝教大師像の御前で般若心経と山家学生式を読誦しました。「己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。」その心は、「身を捨ててこそ」という空也上人にも通じる、お釈迦さま以来の仏の道です。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝