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百里ヶ岳登拝・小浜巡拝

 24日早朝、若狭小浜の若狭姫神社に参拝。


若狭国一宮で、此処が下社、若狭彦神社が上社、若狭神宮寺が奥の院であったとのこと。古来、神仏習合の寺社で、明治の神仏分離までは此処、下社に十一面千手観音菩薩、上社には薬師如来が祀られていたそうです。参拝して薬師如来と十一面観音菩薩ご真言をお唱えしました。境内には「遠敷(おにゅう)大明神霊水」があり、空気も水も清々しく感じられました。
 続いて、車で上社(若狭彦神社)へ。


霊亀元年(715)鎮座、下社は養老5年(721)の鎮座とのこと。上社からさらに南へ車を進めると、奥の院(若狭神宮寺)がありました。


まだ門が開いていないので下山後に参拝することにし、さらに南へ進んで遠敷川(音無川)の「鵜の瀬」へ。


東大寺の良弁和尚の弟子・実忠和尚が天平勝宝4年(752)、十一面観音菩薩を本尊として始めた「修二会」に、若狭の遠敷明神が閼伽水を献じたいと願うと、黒と白の鵜が石を穿って此処に水が湧出したそうです。そして旱害の年、東大寺で修二会に使う閼伽水が欠如し、僧たちが若狭の方に向かって祈念すると、東大寺の井戸の水が満ちて此処の流れは絶えた、と伝えられています(「元亨釈書」)。遠敷明神が十一面観音菩薩にお供えした水の近くには白石神社があり、「良弁和尚生誕之地」の石碑もありました。良弁和尚は「元亨釈書」には近江の人と書かれていますが、当地では此処、若狭小浜の下根来(しもねごり)で生まれたと伝えられているそうです。
 鵜の瀬から川沿いの道を車で上ってゆき、上根来へ。登山者用の駐車スペースに車を停めて7時半に出発、車道を十数分歩くと「鯖街道」の入口がありました。


小浜と京都を結ぶ古道の一つです。道は尾根を巻きながら南へ上ってゆき、8時に岩の上から南東に百里ヶ岳を遥拝。


一旦、林道に出ましたが、林道ではなく尾根に続く踏み跡を辿ってゆきました。


708m小ピークを過ぎて尾根を下ると、右下の林道からの登山道と合流。お地蔵さまに掌を合わせ、古道を登ってゆきました。


 道はやがて、左手に谷をはさんで百里ヶ岳を望みつつ山腹をトラバース。9時に根来坂峠(針畑峠)に着き、お地蔵さまと「大乗妙典一石一字塔」に掌を合わせました。


峠からは、若狭・近江国境の尾根を東へ縦走。近江からの登山道と合流して尾根は北へ。東側には雲海が見え、正面には百里ヶ岳山頂が近づいてきました。



9時半すぎ、山頂に近づくと法螺貝の音が聞こえ、山頂に着くと、一人の山伏さんが読経していました。金峯山から来られたとのこと。
 空は晴れていますが、霞んでいて遠くの山々は見えません。北東(白山)の方に向かって観音経を読誦しました。山頂から東の尾根に進むと、東側に駒ヶ岳などの近江・若狭国境尾根が見渡せました。


その南は比良山方面でしょうか。


山々を眺めつつ、しばし坐しました。
 30分程して坐を立ち、山頂に戻って国境尾根を北へ下ってゆきました。右手には駒ヶ岳などに続く尾根と、朽木、さらに琵琶湖へと流れ下る谷。


左手の谷の水は、遠敷川へ下って小浜湾に注ぎます。木地山峠のお地蔵さまに掌を合わせ、上根来へと下ってゆきました。


沢を何回か渡って一旦、尾根に上がり、尾根から北側へ下って沢沿いに西へ。あまり整備されていないワイルドな山道でした。


11時45分に未舗装の林道に出、聳え立つ岩壁に掌を合わせました。


林道から南東に百里ヶ岳を遥拝し、正午前に駐車地に降りました。


 下山後、鵜の瀬のお水をお供え用にいただき、般若心経と十一面観音菩薩ご真言、遠敷明神・良弁和尚・実忠和尚のご宝号をお唱えしました。続いて、神宮寺に参拝。古来の神仏混淆の伝統が残されているお寺で、仏さまにお参りするのに柏手を打っていました。ご本尊は薬師如来、脇に十一面千手観音菩薩。上社・下社の本地仏でしょう。神さまを神さまとして、仏さまを仏さまとして拝むことには慣れていますが、仏さまを神さまとして、神さまを仏さまとして拝むことには、正直、違和感がありました。しかし、古代の神仏習合の祈りとは、そういうものだったのかもしれません。
 神宮寺を創建したのは和銅7年(714)、和朝臣赤麿公(法名滑元)で、赤麿公は遠敷明神の子孫とのことです。また、滑元和尚は白山を開山した泰澄大師の弟子でもあるようですが、泰澄大師が白山を開いたのは養老元年(717)とされているので、神宮寺の創建は白山開山よりも先になります。越知山大谷寺の縁起によれば、泰澄大師が大谷寺を創建したのは持統天皇6年(692)なので、滑元和尚は越知山で修行したのでしょうか?神宮寺の本堂は、かつては拝殿と渡り廊下でつながっていたとのこと。これは、白山美濃馬場中宮長瀧寺の神仏分離以前の姿と似ています。小浜、気比、越知山等、若狭・越前の神仏混淆・神仏両道の歴史は古く、奥が深そうです。
 最後に、羽賀寺に参拝しました。道に迷ったあげく着いたそのお寺は、明るく静かなお寺でした。


本堂には、開山行基大菩薩(霊亀2年(716))、中興浄蔵貴所と書かれています。拝観をお願いし、参拝。ご本尊の十一面観音菩薩は行基作と伝えられ、慈悲深さが身心に沁みこんでくるような、優しく尊いお姿です。羽賀寺は天暦元年(947)、青龍が東の谷から出て海に入り、大雨で山が崩れて堂宇が泥の中に埋没したとのこと。翌年、浄蔵貴所が泥中からご本尊の十一面観音菩薩を見つけ出し、寺を再興したと伝えられています。浄蔵法師は当時、京都東山の八坂寺(法観寺)にいたと思われ、京都から「鯖街道」を通って此処に来たのでしょうか(あるいは、尾根伝いに?)。青龍が起こした大災害と、泥の中から出てきた麗しい十一面観音さま。その光景は、まるで、翠ヶ池に九頭龍王が現われた後、十一面観音さまが示現した、という白山開山伝承にそっくりです。
 この白山開山伝承は、「元亨釈書」によれば天徳2年(958)、浄蔵法師が語ったことを元に門人の神興和尚が書いた伝記(「泰澄和尚伝記」)に基づいていますが、「大法師浄蔵伝」によれば、浄蔵法師は天慶2年(939)に白山で夏安居をした際、古老から、白山を開いた(神融という)苦行人が法華経の功力で(御厨池(みくりやいけ)という)一大池に毒龍悪鬼をとじ込めた、池に近づく者があれば天地震吼し四方は真っ暗になる、と聞き、事の真偽を確かめようと安居解制後に池に行って水を汲むと、雷電霹靂し嵐となり、毒龍が出現、法師は神呪を誦しつつほうほうの体で室に戻っています。そして、法師が京に持ち帰った水を病に苦しむ庶民に施すと、病が治ったということです。そこには、翠ヶ池で泰澄大師の前に九頭龍王と十一面観音菩薩が現われた、という話はまったくありません。また、浄蔵法師は延喜9年(909)、左大臣藤原時平の病を加持した際、時平の両耳から菅原道真の怨霊が青龍となって出現し、加持をやめるよう訴えた為、加持をやめて退出し、時平は亡くなっています。この件で宇多法皇のお叱りを受けた浄蔵法師は、その後三年間、比叡山横川中堂に籠っています(「大法師浄蔵伝」)。
 浄蔵法師は、天慶2年(939)に白山で聞いた「御厨池」の毒龍伝承を、天暦2年(948)、埋没した羽賀寺の泥中から十一面観音菩薩像を掘り出した体験を元に、災害や疫病等の恐怖・苦しみを表す九頭龍王の後に、限りない慈悲心をもって立ち上がる十一面観音菩薩が示現した、という開山伝承に昇華させ、天徳2年(958)に神興和尚に語ったのではないでしょうか。
 羽賀寺の十一面観音さまの御前でしばしすごさせていただき、呼吸も歩調も、ゆったりとなりました。「マインドフルネス」(正念)とは、まさにこのことでしょう。これからも、観音さまを正しく念じてまいりたいものです。
 
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝