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大白川より白山登拝

 天慶2年(939)、比叡山の浄蔵法師が白山で夏安居をした時に古老から聞いた話では、慶雲年中(704~708)に苦行人が白山を開き、法華経の功力で毒龍悪鬼を大きな池にとじ込めた、人が近づけば天地震吼し辺りは真っ暗になる、と「大法師浄蔵伝」にあります。傍注には苦行人の名は「神融」、池の名は「御厨(みくりや)」とあります。神融法師は「大日本国法華経験記」では越後の人とされていますが、「泰澄和尚伝記」では泰澄大師と同一人物となっています。「御厨池」については「古事談」にも、白山権現がおられる山に池があり、御在所(御前峰か)から三十六町、深山中にある。御厨池という。龍王たちが集まって供養をする池で、人が近寄れば雷電猛裂し人を害う、とあります。
 「大法師浄蔵伝」では、浄蔵法師が古老の話の真偽を確かめようと、安居解制後に池まで行って水を汲み、護身結界して室に戻ろうとすると雷電霹靂し暴風雨となって毒龍が現われ、法師は神呪を誦しつつほうほうの体で室に戻っています。そして、京に持ち帰ったその水を病に苦しむ庶民に施すと、病が治った、と書かれています。「古事談」には、浄蔵および最澄(泰澄?)聖人が白山権現に申請して御厨池の水を汲み取ったこと、それを伝え聞いた日台聖人が池の前で勤行して水を汲み取ると、心神迷妄したが無事に持ち帰り、病のある人がこれを飲み、これを塗れば治らぬことはなく、生生世世、仏法に値遇することができる、とあります。
 この「御厨池」とは、どの池なのでしょうか?翠ヶ池か、千蛇ヶ池か…。しかし、「白山之記」には「翠池」は長久3年(1042)の噴火でできた火口であることが記されており、地質学的にも千蛇ヶ池、翠ヶ池、紺屋ヶ池など現在の主な火口は、長久3年以降の噴火によるものとされているようです。泰澄大師が白山を開いたとされる養老元年(717)はもちろん、浄蔵法師が白山に登った天慶2年(939)にも、翠ヶ池や千蛇ヶ池は存在しなかった可能性が高いのです。
 「白山之記」に、御在所の東の谷に寳池があり、人跡不通の池であるが、日域聖人がその水を汲んだ、その味は八功徳を具すという、とあります。この「寳池」が「御厨池」であると思われますが、白山頂部の東側はどこも急峻で、思い当たる池はありませんでした。しかし、「白山之記」の山や池の地理的記述はかなり正確です。さらに、石徹白に伝わる白山絵図(上村俊邦さんの著書にあり、白山美濃禅定道や、長瀧寺から尾根伝いの行者の宿(行場)が描かれている古図)を見ると、「みどりの池 こうやぢごくとも云」(翠ヶ池・紺屋ヶ池)、「万歳ヶ池」(千蛇ヶ池)とは別に、「てんぽうりん岩や」の右下(南東)辺りに「みくりやの池」が描かれているではありませんか。こんな処に池があるのだろうか、と、地形図を見直していたら、本当に池がありました!此処を確かめるべく、白山に登拝してきました。
 28日朝6時すぎに大白川登山口を出発、夜中の雨はやみ、行く手の大倉尾根を大きな虹が取り囲んでいました。


時々、通り雨がありますが天候は回復しつつあり、白山頂部は雲の中ですが、奥三方岳・三方崩山はよく見えました。


やがて、東の雲の上から日が差し、7時半に大倉山避難小屋を通過、風が冷たくなってきました。


 8時、大倉尾根を登って賽の河原に出る手前で左手に広がる枯れ野へ。ハイマツ帯に沿って緩斜面を登り気味にしばらく進んでゆくと、奥に池が現われました。


さほど大きな池ではありませんが、此処が泰澄大師が法華経の功力で毒龍をとじ込め、浄蔵法師や日台(日域)聖人が水を汲んだという「御厨池」でしょう。池の御前で観音経(法華経観世音菩薩普門品)を読誦し、池を見下ろすハイマツの枝に坐しました。「或いは悪羅刹 毒龍諸鬼等に遇わんに 彼の観音力を念ずれば 時に悉く敢えて害せじ」(「観音経」)。南から、雨まじりの冷たい風が吹いていました。池のお水を服し、投地礼して白山頂へと向かいました。


 山頂部は霧雨、室堂からの道には雪も氷もありませんでしたが、北西からの風が冷たいです。9時半に御前峰登頂、般若心経、白山権現ご真言・ご宝号をお唱えしました。


霧で展望はありません。御宝庫から六地蔵に参拝し、大部分が万年雪に覆われた千蛇ヶ池へ。


「白山之記」によれば、長久3年(1042)の噴火で二つの火口ができ、一つは翠池、もう一つは「深い谷」になった、とあります。翠池は「剱御山」(剣ヶ峰)の麓にあり、池の西には深谷があって雪が消えたことがなく、千歳谷と呼ばれている、との記述から、おそらくこの時の噴火で翠ヶ池と千蛇ヶ池ができたのでしょう。千蛇ヶ池の西は千才谷、付近には五色池や百姓池などもあります。


鮮やかな緑色の血の池を経て、白山最大の火口・翠ヶ池へ。現在の翠ヶ池よりも上(南側)に大きな火口壁の一部が残っています。


此処には水はたまらず、さらに下の翠ヶ池へと注ぐ谷筋には雪がありました。


此処は現在の翠ヶ池火口が噴火する以前にできた火口で、翠ヶ池の噴火によって火口壁が吹き飛ばされたのでしょう。「白山之記」には、翠池の上に稲倉峰があり、或いは大師の縛り石ともいう、とあり、これが御宝庫のことだとすると、現在の翠ヶ池からは離れすぎているように思われます。翠ヶ池は延応元年(1239)や天文23年(1554)にも噴火したと考えられており、長久3年(1042)の噴火でできた火口は、現・翠ヶ池の南に残る、より御宝庫に近いこの火口壁だったのではないでしょうか。
 翠ヶ池は、いつ訪れても美しい池です。


今年はまだ、池のほとりに2m近くの残雪がありました。


今年は私も山であまり肌が焼けませんでしたが、白山も薄曇りの日が多かったのでしょうか。翠ヶ池で泰澄大師が九頭龍王と十一面観音菩薩を感得した、という開山伝承は、泰澄大師の当時、この池はなかったのですから、後世に作られた伝承でありましょうが、この美しい池ができたことによって白山信仰は大成された、といってもよいでしょう。残雪の下に坐し、観音経と十一面観音菩薩ご真言をお唱えしました。「彼の観音力を念ずれば 火坑変じて池と成らん」(「観音経」)。「白山之記」には、翠池より白山権現出生したまう、とありますが、この池は白山権現(十一面観音さま)がお作りになった池とも申せましょう。
 11時に坐を立ち、南の旧火口跡へ。火口壁内にも小さな爆裂火口がありました。火口壁を登って南の紺屋ヶ池へ。池の表面は一部、凍っていました。


紺屋ヶ池は万治2年(1659)に噴火したようで、それ以降、今のところ白山は噴火していません。紺屋ヶ池と翠ヶ池南の火口壁の間にも、火口があります。


紺屋ヶ池と同じくらいの火口のようですが、何故、水がたまらないのか不思議です。
 大汝峰へと向かい、正午前登頂。


阿弥陀如来を本地とする大汝社にて念仏をお唱えし、今日で124年目となる濃尾地震はじめ、東日本大震災、半年前のネパール地震、二日前のアフガニスタン地震の犠牲者に回向しました。霧で展望はなく、北西から吹きつける風が冷たかったですが、風さえ避ければさほど寒くはありません。流れゆく雲間に時折、日が一瞬差し、山頂東の尾根から北の谷を見下ろすと、ブロッケン現象が拝めました。
 12時半に下山し、千蛇ヶ池・六地蔵を経て御前峰に戻ると、山頂部から、瞬時に現われては消えるブロッケン現象が時々拝めました。


「汝は当に成るべき仏 我は已に成りし仏」(「梵網菩薩戒経偈」)。あらゆる人に具わっている仏性に掌を合わせました。


山頂の白山奥宮で十一面観音さまと泰澄大師、浄蔵法師などの先達・先徳に掌を合わせ、14時に下山しました。


 室堂に下ると、風も穏やかになりました。


工事中だった社殿も完成したようです。山頂部には誰もおらず、室堂のトイレも閉まっていました。御厨池に下り、観音経を読誦。池には龍はいませんでしたが、手足の生えたオタマジャクシが泳いでいました。


イモリ君でしょう。初夏、白山の残雪上で彼らの死骸をよく見かけます。白山に育まれているすべての生きものたちの、息災延命を祈りました。
 大倉尾根を下ってゆくと、行く手に白水湖やゾロ谷の残雪が見えました。


南に鷲ヶ岳が見え、美濃側は晴れているようです。


白山頂部は雲を被ったまま。


別山も雲に覆われていました。大白川へと下ってゆくと、樹から小鳥の大群が飛び立ちました。


スズメ程の大きさで、速くてよく見えませんが、茶色の羽を開いた後ろ姿が白く見える鳥でした。私が来ると皆、下の方の樹に逃げてゆくので、誰もいない山道はしばらく賑やかでした。山中の紅葉はわずかに残るのみでしたが、登山口周辺はまだ見頃でした。


16時半に無事下山。大白川沿いに紅葉黄葉を見つつ車を走らせ、荘川神社に参拝して帰路につきました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝