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喪山~上神~誕生山~長蔵寺~天王山

 12月26日、再度、美濃の喪山へ。12月15日に巡拝した処以外にも、喪山に因む出雲系の神々が辺り一帯に祀られているようです。
 朝9時半、喪山に参拝。


「古事記」によれば、須佐之男命の子孫であり婿でもある大国主神(大己貴命(オオナムチノミコト))は、出雲を拠点に葦原中国(あしはらのなかつくに)、即ち日本の国作りを進めますが、天照大御神(須佐之男命の姉)は、息子の天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)に葦原中国を治めさせるべく高天の原から降ろしました。ところが天忍穂耳尊は、とても治められる状態でない、とすぐに戻り、弟の天菩比神(アメノホヒノカミ)を葦原中国に遣わしました。が・・・大国主神に従ってしまい戻ってきません。次いで天若日子(アメノワカヒコ)を遣わすと、大国主神の娘の下照比賣命(シタテルヒメノミコト)と結婚してしまい、八年たっても何の音沙汰もありませんでした。高天の原側は偵察の為、鳴女(ナキメ)という雉を遣わしましたが、天佐具女(天探女、アメノサグメ)が天若日子にこの雉を殺すよう進言すると、天若日子は天つ神より賜った弓矢で雉を射殺してしまいます。その矢は高天の原の天照大御神と高御産巣日神の処に至り、高御産巣日神の「還り矢」で天若日子は死んでしまったのでした。葬儀の為に天若日子の親族が降って来、「其處に喪屋を作りて」八日八夜の葬礼をした際、下照比賣命の兄・阿遅志貴高日子根神(アヂシキタカヒコネノカミ)が天若日子にそっくりであった為、天若日子の両親は息子が生きていたと勘違いをし、怒った阿遅志貴高日子根神が剣で喪屋を切り伏せ、蹴り飛ばして美濃に落ちたのが、この喪山なのでした。
 喪山神社の隣にある道樹寺から南へ十分ほど歩き、立派な権現鳥居の青柳神社に参拝。


祭神は大己貴命(大国主神)、下照比賣と阿遅志貴高日子根神の父です。この兄妹の母は、筑紫・宗像の奥津宮に坐す多紀理毘賣命(タキリビメノミコト)。阿遅志貴高日子根神は「迦毛大御神(カモノオオミカミ)」であり、葛城の高鴨神社の主祭神です。青柳神社から東へ十五分ほど歩を進め、誕生八幡宮に参拝。


八幡神社と合祀して誕生八幡神社となりましたが、元の誕生神社は北に聳える誕生山の頂に祀られていたそうで、祭神は天探女(天佐具女、アメノサグメ)。高天の原からの密偵である雉の鳴女の声を聞き、天若日子に射殺すよう進言した巫女です。「誕生山」は元は「探女山」だったのでしょう。
 誕生神社から南へ足を進め、北に天王山と誕生山を遥拝。


天王山は泰澄大師が牛頭天王(須佐之男命)を祀った山であり、誕生山は天探女の山。両山のまん中の山は麓に白山神社があり、白山と呼ばれているようです。誕生神社から南へ歩くこと二十分、上神神社(かさがみじんじゃ)に着きました。


天若日子の妻で、大己貴命(大国主神)の娘である下照比賣を祀った社です。背後の山は下照山。隣には神宮寺の福満寺もあります。お参りして長良川畔に下ると、古宮がありました。かつての長良川は現在より東側を流れていたそうで、江戸時代の大洪水で流れが変わった為に現在地に遷座したとのこと。鳥居の奥に誕生山を遥拝。


白山連峰を源流とする長良川。


11時すぎに誕生八幡神社に戻り、誕生山目指して歩き始めました。
 誕生山遥拝所から北方へ。白山神社から登るつもりでしたが、ゴルフ場の間の小道を進んでゆくと玉垣神社の石碑に出ました。誕生八幡神社に合祀されている字玉田洞玉垣神社(祭神天照大御神・豊受大御神)の跡でしょうか。石碑の後ろの尾根に付き、薄藪の中を上へ。


けっこうキツい登りです。二十分ほど登ると、なんと、ツツジの花が二輪咲いていました。


すでに花びらは散りかけていますが、季節を勘違いして咲いたのでしょうか。今日もけっこう暖かく、汗が出ます。樹間には誕生山。


岩の多い急峻な尾根。


玉垣神社から四十分で「白山」に登頂、樹間に天王山のお姿。


北面して観音経を読誦し、白山権現を供養しました。
 「白山」から誕生山へと縦走・・・しかし、鞍部までは急な下りです。十分ほど下ると「隠れ洞」がありました。


天若日子が高天の原から葦原中国に遣わされた時、降りた処とのこと。涼しく、巨岩からは苔清水が滴っています。


天若日子は此処から出雲に行き、大己貴命の調略によって出雲側に寝返ったのでしょうか。身体は一つでも、せめぎ会う二つの心。高天の原と、出雲の国。意識と無意識。陰と陽。この対立・分裂・葛藤と融和・克服こそ、白山三所権現の表しているものです。白山三所権現の中央・御前峰(白山妙理大権現) の祭神は伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冊尊(イザナミノミコト)。(この両神の離婚調停に関わった巫女・菊理媛神とされている場合もあります。)本地は十一面観音菩薩。「泰澄和尚伝記」や「元亨釈書」によれば、白山妙理大権現の垂迹のお姿は「貴女」(女神)の姿の伊弉諾尊(男神)です。白山妙理大権現の左手(向かって右)の別山(別山大行事権現)の祭神は天忍穂耳尊(天照大御神の子)、または天兒屋命(アメノコヤネノミコト、邇邇芸命(ニニギノミコト)に随従して降臨)。本地は聖観音菩薩。一方、白山妙理大権現の右手(向かって左)の大汝峰(越南知大権現)の祭神は大己貴命(大国主神)、本地は阿弥陀如来。


(白山・大汝峰より望む御前峰と別山、2018.6)
つまり、白山頂を中心に向かって右側(南側)は伊弉諾尊~天照大御神~天忍穂耳尊~邇邇芸命という「陽」の神系、向かって左側(北側)は伊弉冊尊~須佐之男命~大己貴命~阿遅志貴高日子根という「陰」の神系を表しています。天若日子の当時はまだ出雲の国力が強大であり、大己貴命の婿となった天若日子は高天の原に帰ることができなくなったのでしょう。高天の原の天忍穂耳尊は結局葦原中国に降りることができず、大己貴命の国譲りによって高天の原から降臨したのは、天忍穂耳尊の息子の邇邇芸命でした。
 「隠れ洞」というからには洞窟でもあるのでは、と周辺の岩場を徘徊しましたが、窟は見当たりませんでした。岩上から誕生山を遥拝。


隠れ洞で天若日子のことを考えていると、自分の心も分裂・葛藤を蒸し返してきます。意識の上では何かに「賛成」していても、意識の下からフツフツと沸き上がる、物凄い「反対」の黒雲。逆もまた然り。隠れ洞から鞍部に下ってお地蔵さまを拝み、二十分ほど登って誕生山に登頂しました。西に天王山・北西に舟伏山を遥拝。


南側には、順拝してきた社寺の彼方に芥見の権現山や金華山(岐阜城)、百々ヶ峰。


予定より時間がかかってしまったので、北麓の神洞へと足早に下ってゆきました。
 三十分ほどで神洞の白山神社に参拝。


泰澄大師が白山三所に本地仏を拝んだのは、日本の神々の対立の融和の為には仏教が必要と考えたのでしょう。十一面観音さまは、分裂したものの再統合・再配列の象徴としても拝めます。伊弉諾尊と伊弉冊尊の対立、天照大御神と須佐之男命の対立、天忍穂耳尊の軍と大己貴命の軍の熾烈な戦い・・・ 。左手と右手を合わせ、般若心経と白山三所権現ご真言・ご宝号をお唱えしました。
 神洞から板取川を渡り、矢坪ヶ岳を遥拝。


何かをお祀りした大岩があり、見上げると、役行者が祀られていました。


神変大菩薩に読経礼拝し、板取川上流側へ歩を進めて蕨生(わらび)の白山神社へ。石段を登り、参拝。


さらに西へ行道し、誕生山から四十五分で高台の長蔵寺に着きました。


長蔵寺は、千葉氏の一族・東氏の出で肥前生まれの覚源禅師が、正平10年(1355)に開かれた禅寺。禅師は鎌倉・建長寺に伝わる仏舎利を背負って諸国を行脚され、瀬戸の定光寺等を開山されました。長蔵寺で遷化された為、仏舎利も此処に祀られています。舎利礼文と念仏をお称えしました。長蔵寺には、越前・豊原寺伝来の白山三所権現の本地仏(十一面観音菩薩・聖観音菩薩・阿弥陀如来)の図も残っています。寺のある高台から、南に天王山を遥拝。


寺を下って板取川を渡ると、福寿稲荷神社や御嶽社のある山の麓に「覚源禅師此処でさか木の杖忘る」と記された石碑があります。


さらに半道川沿いに上流へ歩いてゆき、覚源禅師が正平11年(1356)に開かれた順心寺に参拝。長蔵寺から一時間弱で半道の白山神社にお参りしました。


 白山神社から、天王山へ。鉄塔に出、西に白山権現を祀る権現山、北西に舟伏山を遥拝。


東に見上げる、牛の頭の如き天王山。


日没がせまり、山頂へと一心に行道。巨大な屏風岩の上からは正面に長蔵寺が見下ろせ、その背後に高賀の山並。


長蔵寺から鐘の声が響いてきます。北東には、御嶽山のお姿。


高賀山本地・虚空蔵菩薩、御嶽山の蔵王権現、そして白山三所権現に掌を合わせ、17時前に天王山頂に出ました。濃尾平野の灯りが彼方まで見渡せ、伊勢湾も見えます。


北側には高賀や奥美濃の峰々。すでに日は沈み、薄暗い山道を一目散に駈け下りました。途中、暗闇の中から牛のような声。イノシシでしょうか。二十分足らずで大矢田神社に下り、勤行を修して牛頭天王即ち須佐之男命と泰澄大師のご加護を感謝し、石段を下ってゆきました。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝