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御嵩巡礼(浄蔵法師忌)

 11月21日は、浄蔵法師のご命日です。浄蔵法師は康保元年(964)11月21日、京都東山の雲居寺にて西面して坐し、正念乱れず遷化されました。法師を偲び、21日早朝、岐阜県御嵩町の長岡観音堂に参拝しました。


お堂の紅葉は、上の方だけ色づいていました。此処は延喜20年(920)、浄蔵法師が伝教大師(最澄上人)の東国布教(弘仁6年(815)または弘仁8年(817))の跡を尋ねて東山道を下った際、御嵩の願興寺で霊夢を見、長岡の地の桂の大木を切って十一面観音菩薩の坐像を彫り、村人たちの病難消除を祈った処です。比叡山の浄蔵法師は、平将門調伏の修法を行ったり、傾いた八坂寺の塔を加持祈祷でまっすぐにしたり(手抜き工事で傾いたマンションも直してほしいもの)、寺に押し入って刀を振り回す男(テロリスト?)を、護法善神を使って柱に縛りつけたり、鉢を飛ばして自分は歩かずに供物を得ていたら(ドローン?)、別の僧の飛鉢に中身を奪われた等々の伝承で知られ、加持祈祷で疫病を治したり、死んだ人を蘇生させたりもしています。マンガじみた話はそれとして、浄蔵法師は「顕密・悉曇・管絃・天文・易道・卜筮・教化・医道・修験・陀羅尼・音曲・文章・芸能、悉くにもて抜萃」(「拾遺往生伝」)という多才な僧であり、加持祈祷と共に治療や施薬も行っていたと思われます。また、心肺停止状態の人を蘇生させる技能もあったのでしょう。
 お堂にて観音経、般若心経、念仏をお唱えし、浄蔵法師とパリ同時テロの犠牲者に回向しました。お堂は山の南側の中腹にあるのですが、お堂の西の尾根筋には白山社があります。お堂から一旦下って白山社への参道を登ると、紅葉に彩られた社が現われました。


浄蔵法師は天慶2年(939)に白山で夏安居をしており、御厨池に神融法師(泰澄大師)が毒龍悪鬼を閉じ籠めた、という古老の話の真偽を確かめようと、その池に行って水を汲み護身結界したところ、激しい雷雨となり毒龍が現われ、なんとか無事に下山した法師が京で病人にその水を施すと、病が治った、と「大法師浄蔵伝」にあります。また、「元亨釈書」には、元亨釈書の泰澄伝と白山明神伝の元となった「泰澄和尚伝記」は、天徳2年(958)に浄蔵法師の門人・神興が法師の話を受けて作ったものであることが書かれています。「御厨池」については先月末の白山登拝時に確認してきましたが、「泰澄和尚伝記」の「緑碧池に九頭龍王と十一面観音菩薩が示現した」という伝承は、浄蔵法師が御厨池の体験を元に「発明」した開山説話でありましょう。
 白山社から下って国道に出ると、向かいの小山の上に稲荷神社がありました。紅葉と権現鳥居の赤が見事でした。


稲荷神社から中山道を東へ進み、和泉式部廟所に参拝。


平安時代の女流歌人・和泉式部が東山道の旅の途中で病に冒され、寛仁3年(1019)に此処で亡くなった、と伝えられているそうです。
ひとりさえ渡ればしずむうきはしにあとなる人はしばしとどまれ
という歌が伝えられています。和泉式部には
いづくにも帰るさまのみ渡ればやもどり橋とは人の言うらん
という歌がありますが、いつも帰ってくるつもりで渡っていても、いつが最期になるか分からぬのが無常の現実であります。「もどり橋」とは京都の戻り橋のことですが、この橋の名は、浄蔵法師が父を蘇生させたことに由来しています。浄蔵法師の父、参議・宮内卿・播磨権守であった三善清行(きよつら)は延喜18年12月(919年1月)に亡くなっていますが、熊野に参詣中に父の危篤を知った浄蔵法師が急ぎ帰京すると、時すでに遅く、父の葬列に出会ったのでした。悲しんだ法師が加持したところ、父は蘇生してわが子を礼拝し、数日後に西面し念仏して亡くなったとのことです。父は心肺停止状態だったのでしょう。浄蔵法師が御嵩に来たのは延喜20年(920)ですから、父の一周忌を経て東国巡礼を発願したのでしょうか。
 和泉式部には、白山を詠んだ歌もあります。
もみぢ葉も真白に霜の置ける朝は越の白峰ぞ思ひやらるる
和泉式部廟所にて念仏をお唱えし、中山道ではなく国道を東へと歩いてゆきました。やがて、左手に正願寺へと上る坂が現われ、登ってゆくと奥に禅寺がありました。


本尊は行基作の十一面観音菩薩坐像。般若心経と十一面観音菩薩ご真言、行基菩薩ご宝号をお唱えしました。正願寺から下って国道を南下し宿(しゅく)へ向かうと、可児川沿いに小泉神社の鳥居と大きな銀杏の樹がありました。


社殿は可児川をはさんで向こうにあります。橋を渡って参拝してきました。鳥居に戻り道をさらに進むと、シャッターが下りた、お堂と思しき建物がありました。宿の天王庵とは此処でしょうか…。ご近所の方に何人か尋ねてみましたが、ご存じないようでした。此処にも、行基作と伝わる十一面観音菩薩立像が祀られているそうです。お堂?の前にて般若心経を読誦しました。行基菩薩作の十一面観音さまが二体、浄蔵法師作の十一面観音さまが一体。この辺りは、十一面観音の里と言ってもよさそうです。延喜20年(920)、長岡観音堂の十一面観音菩薩を彫った浄蔵法師は、近隣の村に行基作の十一面観音菩薩が祀られていることを知っていたのでしょう。その約30年後、浄蔵法師は再び、行基作の十一面観音菩薩と出会うことになります。天暦元年(947)、若狭の羽賀寺が洪水で流失し、翌年、浄蔵法師が泥の中から本尊の行基作・十一面観音菩薩像を見出だして寺を再興したのでした。この時の大雨は、羽賀寺の東の谷から出た青龍が海に入って引き起こされた、と伝えられています。加持祈祷で様々な験力を発揮してきた浄蔵法師ですが、なぜか、龍には苦しめられています。延喜9年(909)、藤原時平の病の加持の際、菅原道真の怨霊が青龍となって出現、法師は加持をあきらめ、時平は亡くなっています。天暦2年(939)、白山の御厨池で毒龍に苦しめられたことは先に述べました。青龍によって泥に埋もれた羽賀寺の跡から、十一面観音菩薩が現われたということは、法師にとって大きな体験であったはずです。私は、浄蔵法師の白山御厨池での体験と、この羽賀寺での体験が、天徳2年(958)に弟子に語ったという「泰澄和尚が緑碧池にて加持念誦していると九頭龍王が現われ、後に十一面観音菩薩が示現した」という白山開山説話の、原型であろうと思います。
 宿から国道に出、美佐野から津橋川沿いの道へ入って美佐野弘法堂に参拝。津橋川沿いに道は上ってゆき、渓流や紅葉を見つつ歩いてゆきました。やがて伊羅久後峡の渓谷を見下ろし、道はなだらかに。


道はその先で中山道と合流、紅葉に彩られた津橋薬師堂に参拝しました。


薬師堂からは古の中山道を西へ。山道を登ってゆくと諸之木(もろのき)峠に出、展望台から笠置山や恵那山を遥拝。


唄清水、一呑の清水を経て、謡坂(うとうざか)の石畳を下ってゆきました。


耳の病が治るという耳神社に参拝した後、来た道を少し戻って中山道を離れ、小原(おばら)へ。車道から北へ、白山神社の急な石段を登ってゆきました。
 丘の上に社殿がありました。


額には「白山堂」と書かれてあり、神仏習合の名残でしょう。おそらく、かつて「白山堂」には白山本地・十一面観音菩薩が祀られていたのではないでしょうか。柏手を打ち、般若心経、白山権現ご真言・ご宝号、泰澄大師・浄蔵法師ご宝号をお唱えして境内にしばし坐しました。涼しいそよ風。浄蔵法師の語った白山開山説話、それは、荒れ狂う九頭龍の如き天災・疫病・戦争…繰り返される苦しみ・悲しみのさ中にあっても、お釈迦さまの覚られた智慧と解放と慈悲の大光明(十一面観音菩薩)は常に照らしていることを、それは泥流にも津波にも流されず、銃刀にも爆弾にも破壊されないものであることを、表わしているのでしょう。
 白山堂から道を南東へ進むと、聖母さまが祀られていました。


此処は元々「七御前」と呼ばれ、五輪塔など仏教の石碑が集められていた処だそうですが、昭和56年(1981)の道路拡張工事の際に十字架碑などが発見され、その後、小原・西洞(さいと)・謡坂で隠れキリシタンの遺物が次々と見つかったことから、昭和62年(1987)に聖マリア像が建立されたそうです。聖母さまの前でパリ同時テロで亡くなられた方々のご冥福と、世界の平和を祈りました。聖母像の後ろには、お地蔵さまや五輪塔と一緒に小さな聖母像も祀られており、世界の平和と人類の共生を祈りました。


どこか近くから、ピアノの音色が響いていました。
 七御前から車道を歩いてゆくと中山道に戻り、一呑の清水で中山道を離れて車道を進むと、謡坂釈迦堂に着きました。


朽ちたお堂に、本尊の釈迦如来と十一面観音菩薩の写真が祀られていました。すべての諸仏諸尊は、お釈迦さまの教えの現われに他なりません。法要を修し、しばし正身端坐。かつて、この地にも隠れキリシタンがいたのでした。それは、仏教徒がキリスト教徒を弾圧していた、ということです。また、明治の廃仏毀釈の際には、神道を信ずる一部の人々が各地で仏像・仏具を破壊したり売ったりし、寺を廃寺にしたのでした。宗教宗派を問わず、私たちは偏った排他的な見方に執われぬよう、正しく見るよう、心せねばならないでしょう。観音さまは、相手に応じて日本の神の姿にもインドの神の姿にもなれば、マリアさまの姿にもなれます。なぜなら、すべての対立差別を超えているからです。
 「自爆テロ」は、元々、イスラムの教えとは関係のないものです。それは、かつての日本軍の特攻隊が「日本精神」とは関係のないものであるのと同様です。昭和19年12月9日の新聞には、「特攻隊は単なる新戦術ではなく、「日本精神」の顕現」「死して生きる死に方」などと書かれています。それは、単なる新戦術にすぎません。生命を粗末にする、目先のことに執われた愚かで悲しく、憐れな行為にすぎません。お釈迦さまは、正しく見、正しく思惟し、正しく語り、正しく行い、正しく生活し、正しく努力し、正しく念じ、正しく禅定する道を説かれました。世界の若者・日本の若者が、生命を粗末にする誤った見方に染まってしまわないよう、努力してゆかねばなりません。
 お昼に坐を立ち、西洞から長岡へと下ってゆきました。一時間弱で長岡観音堂着。


観音経、般若心経、十一面観音菩薩ご真言、浄蔵法師ご宝号をお唱えし、浄蔵法師忌の巡礼を終えました。帰りに、願興寺に参拝。21日より特別拝観で仏像が公開されており、伝教大師作の本尊・薬師如来や釈迦如来、阿弥陀如来など諸仏諸尊を拝みました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝