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繖山~猪子山~伊庭~五個荘巡拝

 27日朝9時、安土の近江風土記の丘を出発し、南へ進んでゆくと、左手に桑実寺へと上る石段が現われました。


紅葉を見ながら登ってゆき、本堂の薬師如来に参拝。ご開山は藤原鎌足の子・定恵和尚です。本堂からさらに登った処に、大師堂がありました。天正4年(1576)、織田信長が天台智者大師と伝教大師(最澄上人)の像を祀った処だそうです。この年は信長が安土城の築城を始めた年であります。元亀2年(1571)、信長は比叡山を焼き討ちしましたが、安土築城にあたって天台宗の高祖と宗祖の像を此処に祀っていたとすれば、決して無信仰な人ではなく、むしろ、戒を無視して妻子を蓄え、武装して殺生をしていた当時の僧の堕落に、憤りを感じていたのかもしれません。
 谷筋の山道を登ってゆくと、やがて稜線から朝日が差し、観音寺城跡に出ました。


佐々木六角氏の本城です。城跡から下って10時に観音正寺に参拝。


ご開山は聖徳太子。般若心経とご本尊・千手観音菩薩ご真言をお唱えしました。来た道を少し戻って繖(きぬがさ)山頂への山道へ登り、10時半前に登頂。北東への尾根を縦走してゆくと正面に伊吹山と霊仙山が拝め、西側には安土山(安土城)の後ろに西の湖・長命寺山、さらに奥に比叡山と比良山を遥拝。



北側には伊庭(いば)内湖の奥に琵琶湖。


北風が冷たかったです。尾根は北に下り、地獄越えの峠から登って11時、権現鳥居の上に鎮座する雨宮龍神社に参拝。


伊庭内湖に現われた八大龍王を聖徳太子が祀った処だそうです。処々に巨石のある尾根をさらに縦走、11時半に猪子山に着き、少し下ると北向岩屋観音がありました。


坂上田村麻呂が鈴鹿の賊を討伐する前、この岩窟内に十一面観音菩薩の石像を祀ったとのこと。観音経を読誦しました。
 北向岩屋観音から北麓へと下ってゆくと、西に伊庭の内湖と集落が見えてきました。


上山天満天神社で菅原道真公に参拝し、正午に麓へ。川沿いからJRの線路沿いにしばらく進むと、伊庭御殿跡がありました。徳川将軍が江戸と京都を往復する際に休憩していた処で、今は愛宕神社の御旅所になっています。


御殿から踏切を渡って西へ。12時半に大浜神社に参拝、境内には茅葺きの仁王堂がありました。


さらに進むと薬師堂があり、清流に沿って進むと「宗祇法師出自地」の碑がありました。


此処は伊庭城の跡で、宗祇法師は応永28年(1421)、伊庭氏の子として生まれたようです。「かげすずし山に重なる軒の松」の法師の句碑もありました。室町時代・応仁の乱前後の連歌師・宗祇法師は、各地で連歌の興行をするかたわら、パトロンである公家の荘園を横領した武将との交渉や年貢督促の交渉などにも当たっており、連歌を通じて、乱世の中に和の心を説いていたともいえましょう。応仁2年(1468)、東常縁(とうのつねより、宗祇法師の古今伝授の師)の兄の居城、美濃・郡上の篠脇城を斎藤妙椿が奪った際、関東出兵中であった常縁が妙椿に和歌を送って城を返還させ、後に城主となりましたが、この和平の仲介に当たっていたのも宗祇法師のようです。
 宗祇法師の母は飯尾(いのお)氏とされていますが、この飯尾氏の祖は、平安時代の比叡山の僧・浄蔵法師の子であるという伝承があります。浄蔵法師に二人の男児のあったことは「大法師浄蔵伝」等に書かれており、一人は出家し才芸に優れていたが、修行中に奥州で亡くなった、一人は幼名を市嫗といい、後に伯父の大江朝臣の養子となった、とあります。浄蔵法師は康保元年(964)11月、京都の雲居寺で亡くなる数日前、「悲しいかな、破戒の身をもって久しく信施を受け、罪の報いを念うごとに心神安らかならず…」と言い、21日に西面安坐し、正念念仏合掌して遷化された、と「大法師浄蔵伝」にありますが、「破戒の身」には、出家の身でありながら二人の子をなしたことも含まれているのでしょう。この伝承が、後に、法師の二人の子が布施氏と飯尾氏の祖である、という説話になったようで、室町時代の「修験名称原儀」には、浄蔵法師が女官と結婚して天慶5年(942)に布施丸、同7年(944)に伊能丸が生まれた、とあります(藤巻一保「性愛の仏教史」)。幼名にまで布施氏と飯尾氏を思わせる名がついているのは、いくらなんでもやりすぎですが、布施氏・飯尾氏共に、浄蔵法師と同じ三善氏の一族には違いないようです。浄蔵法師の父・三善清行(きよつら)は延喜14年(914)に醍醐天皇に「意見十二箇条」を奏上しています。その中で、僧侶は遍く菩薩の行を修し、身を忘れて他を利するべきであるのに、戒律に背いて妻子を蓄え、田を耕し商売をしている等々、非難していますが、わが子・浄蔵法師が妻子を蓄えることになろうとは、思っていなかったでありましょう。
 宗祇法師碑に掌を合わせ、清流沿いに進んでゆくと、川の向こうに神社と伊吹山が拝めました。


神社には「多武大明神」と書かれてあります。南側に、繖山から猪子山までの山並が一望できました。


能登川駅前を通って南東へ進み、五個荘日吉町に入ると、伊庭とは尾根の反対側となって正面に繖山の姿。


南東へ進んで14時前、野神社という社に参拝。背後には猪子山などの山並。


田園を歩いてゆくと景清道という小道があり、南西へ。大城神社にて菅原道真公に参拝し、近江商人の町並をしばし散策して南東へ進んでゆきました。新幹線の高架や近江鉄道の踏切を経て、15時前に五個荘奥町着。奥村神社にお参りした後、浄光寺に参拝しました。浄土宗のお寺ですが元は天台宗で、天徳3年(959)に浄蔵法師が開山されたそうです。浄蔵法師は天暦6年(952)春に八坂寺の傾いた塔を加持して直した後、比叡山横川で夏安居をしていますが、その後、康保元年(964)に東山の雲居寺で亡くなる前年(応和3年)、京の鴨川の河原で空也上人が奉修した大般若経供養会に招かれ、来集していた乞食比丘の中に文殊菩薩を拝むまでの足取りは、不明のようです。八坂寺にいた頃は妻子があったと思われますが、横川に戻ったのは「再出家」の意味もあったのかもしれません。「大法師浄蔵伝」には、このとき法師は毎日、横川の根本如法堂で香花を供えて千拝を行じ、慈覚大師(円仁上人)が書写し納めた法華経(如法経)を拝見したく思っていたそうですが、侍者(護法神か)に命じてお経を見ようとすると、小僧が現われ、慈覚大師は六道の衆生を憐愍し、数年加行してお経を書写し、安置された、よって、地主・山王権現や赤山明神等が交替で宿直しお守りしている。あなたが、ただ呪力をたのんでこれを開き見ようとするのは宜しくない、早くその思いを止めなさい、と言われ、返す言葉がなかった、とあります。浄蔵法師はこの体験によって道心に立ち帰り、妻子を捨てて諸国を行脚していたのでしょう。浄光寺開山の前年、天徳2年(958)には、門人の神興に白山開山説話である「泰澄和尚伝記」を語ったと伝えられています(「元亨釈書」)。また、浄蔵法師は康保元年11月21日に長州・須佐で亡くなった、という伝承もあるようです。浄光寺にて念仏をお唱えし、浄蔵法師、父の三善清行公、法師の二子と、その子孫と伝わる二氏、そして宗祇法師に回向しました。境内に子供を抱いて立つ観音さまを、西日が照らしていました。


 浄光寺から西へ、新幹線の線路の向こうに繖山を遥拝。


これからまた、繖山越えです。繖山を目指して歩いてゆき、15時半に国道沿いの大郡神社に参拝。


奈良・平安時代の神崎郡の役所があった処で、東山道に面していたとのこと。伝教大師や浄蔵法師も此処を通ったことでしょう。16時すぎ、五個荘清水鼻町から高台のお堂に参拝し、さらに上の日枝神社へ。神社から尾根の藪中に踏み跡を見出だし、登ってゆきました。すでに日は傾いており、樹間に夕日と三上山が見えました。


やがて東からの山道と合流、観音正寺への参道ではなく尾根伝いの急な山道を登ってゆくと、16時半に佐々木城址に出ました。


日暮れがせまってきましたが、ねずみ岩と、奥の院に参拝。



奥の院にて般若心経を読誦し、観音さまに感謝しました。
 17時前に繖山頂に出、西に夕暮れの比叡山を遥拝。


比叡山と伝教大師・浄蔵法師ご宝号をお唱えしました。比叡山と近江の夕景を拝みつつ駈け下り、17時10分、風土記の丘に降りました。


南無比叡山満山三寶
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝