FC2ブログ

記事一覧

相馬・松川浦

 東日本大震災から5年が経ちました。郡上白鳥・正法寺の西澤英達管主発願の慰霊の旅に、今年も参加させていただきました。(正法寺管主のテレホン法話 0575-82-4321 お聞きください)
 福島県相馬市・松川浦の宿に泊まって翌早朝、独りで散策に出かけました。



海辺の高台に建つ、川口稲荷神社に参拝。



大津波で鳥居や石碑が流され、寄付を募って昨年10月にようやく再建されたそうです。神社から下ると、松川浦大橋の向こうから朝日が昇ってきました。



あの日、9メートルの大津波が、この橋の向こうから押し寄せてきたのでした…。
 松川浦大橋を渡れば、鵜の尾岬に夕顔観音堂や灯台があるはずですが、護岸や堤防の復旧工事の為に橋は関係者以外立入禁止となっていました。



岬から南に伸びる砂州の松林は、壊滅してしまったそうです。
 橋から南西に歩を進め、船越観音堂へと向かいました。赤い鳥居をくぐって参道を上ると、高台に二つのお堂が並んでいました。



お堂の左手には鹿島神社があり、左奥には錨(いかり)堂というお堂。宮城県岩沼市の千年希望の丘の側でも鹿島神社にお参りしましたが、東北には鹿島神社が多いようです。常陸国一宮・鹿島神宮は天平勝宝元年(749)に万巻上人が神宮寺を建て(「筥根山縁起」)、鹿島大明神の本地仏は十一面観音菩薩とされています(「神道集」)。
 錨堂には、大きな錨が奉納されていました。南北朝時代の南朝の忠臣・肥後の菊池氏の一族が海路、当地に落ち延び、守り仏を本尊として祀ったのが船越聖観音堂だそうです。その末裔「備中四家」は、明治の初めまで船による交易を行っていたとのことです。
 境内中央に並ぶ左側のお堂が、船越聖観音堂。般若心経を読誦しました。右側のお堂には「夕顔観世音」と書かれてあり、鵜の尾岬の夕顔観音堂が遷座された処です。昔、夕顔に乗った観音さまが鵜の尾岬に流れ着き、岬にあった松川集落に祀られましたが、昭和18年(1943)に集落が岬から対岸に移転した際、当地に遷座されたそうです。観音経を読誦し、当地の方々の息災延命と復興成就を祈願しました。境内の外側に、「津波到達地点」と書かれた標識がありました。



大津波が此処まで押し寄せたのでしょう…。念仏をお唱えし、亡くなられた方々のご冥福をお祈りました。
 相馬市街では、「九曜紋」をあちこちで目にしました。相馬の領主・相馬氏の家紋のようですが、九曜紋は美濃・郡上の領主であった東(とう)氏と同じ家紋です。東氏は下総の千葉氏の一族、もしや、と思い調べてみると、相馬氏も千葉一族でありました。源義朝・頼朝に仕え下総国を支配した千葉常胤の次男が相馬師常、六男が東胤頼。次男師常は常胤より下総の相馬御厨(みくりや)(千葉県柏市、流山市、我孫子市、茨城県取手市、守谷市一帯)を相続、六男胤頼は常胤より下総の東庄(千葉県東庄町)などを相続しました。奥州相馬氏の祖と郡上東氏の祖は、兄弟なのでした。家紋の他にも、千葉一族が治めた相馬と郡上には共通点があります。下総の千葉一族は妙見菩薩を厚く信仰しており、郡上東氏も居城・篠脇城の麓に妙見宮(現・明建神社)を勧請しています(写真は先月(2016年2月)参拝時)。



相馬氏の居城・中村城にも妙見宮(現・相馬中村神社)が勧請されており、毎年7月に行われる「相馬野馬追」は、相馬三妙見宮(相馬中村神社・相馬太田神社(南相馬市)・相馬小高神社(南相馬市))の祭礼です。
 「夕顔観音」も、そのルーツは下総にあることが分かりました。千葉一族の祖・平良文は夕顔の花を好み、良文の遺言により夕顔の実を割ると、中から出現したのが夕顔観音さまであったそうです。その後、千葉常胤の父・常重が夢告を受け、夕顔観音菩薩を本尊として樹林寺(千葉県香取市)を建てました。慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の功績によって下総多胡藩から信濃高遠藩に移った保科正光(正室は真田昌幸の娘)は、樹林寺の夕顔観音さまを写したお像を本尊として高遠にも樹林寺を建てましたが、そのお像は、十一面千手観音菩薩です。相馬の鵜の尾岬に流れ着いたという夕顔観音さまも、下総の夕顔観音菩薩を勧請したものなのでしょう。郡上の東氏は戦国時代に滅んでしまいましたが、もしかしたら、郡上にも夕顔観音さまが勧請されていたのかもしれません。
 松川浦周辺のあちこちで、崖に窟が穿たれているのを目にしました。防空壕か?と思いましたが、そうではなく、製塩の為に塩水を貯蔵する岩穴だそうです。松川浦に製塩技術を伝えたのは、下総行徳出身の鈴木(あるいは堀内)玄蕃という老人で、元和元年(1615)に松川浦・和田村を訪れた際、この村が故郷・行徳に似ていることから、製塩の技術を伝えたということです。行徳では戦国時代から製塩が行われ、江戸時代には幕府の天領(行徳領)となり、塩田が広がっていました。松川浦に下総行徳出身の方が製塩を伝えた、と知り、私はますます、松川浦とのご縁を感じました。私は行徳出身であり、行徳は私の育った故郷だからです。
 玄蕃老人は松川浦が行徳に似ている、と感じたそうですが、確かに共通点はあります。私は子供の頃、行徳や浦安の遠浅の海で潮干狩りをしたものでした。かつて行徳領であった堀江・猫実・当代島は漁師の村で、明治22年(1889)に合併して浦安村と称しました。これが現在の浦安市の「元町」です。大正6年(1917)、台風による高潮で「大津波」が発生、行徳の塩田は壊滅し、浦安町は全域が浸水しました。塩田を失った行徳では、以後、海苔の養殖が行われました。昭和33年(1958)、工場排水による海の汚染で漁業が大打撃を受け、浦安の漁師たちは昭和46年(1971)に漁業権を全面放棄、遠浅の海は埋め立てられ、新たな街やディズニーランド(昭和58年(1983))が出現しました。浦安町は昭和56年(1981)に浦安市となりました。埋め立てで浦安市の面積はかつての四倍となりましたが、私が子供の頃から、埋め立て地では液状化で建物が傾くことがありました。5年前の大震災で浦安市の新市街地は液状化の被害を受けましたが、先月帰省した際、まだ復旧されていない道路が部分的にあるのを目にしました。
 東北を訪れて感じるのは、仏さまを祀ったお堂と神さまを祀った社が、同じ場所でごく自然に共存・共生していることです。あの大津波の前には、神仏の違いなど問題になりません。すべての仏・菩薩、八百万の神々は、一つものの無限の現われなのだと思います。尽きせぬ涙のどの滴にも、一つの光明が宿っているように…。
 宮城県名取市の閖上浜は、十一面観音菩薩のお像がゆり上げられた処だそうですが、松川浦を訪れて、観音さまの「普門示現」を改めて実感しました。あるいは鹿島明神の姿で、あるいは肥後菊池氏の守り仏として、あるいは下総千葉一族に由来する夕顔観世音菩薩の姿で、あるいは、僧侶の姿で。仏さまの慈悲は「無縁の慈悲」と申しまして、縁があろうとなかろうと分け隔てなく注がれるものですが、私たち凡夫には、縁というものがないと、他人の苦しみを自分のこととして受け取り難く、なかなか行動に移せないものです。観音さまが様々のお姿で示現されるのは、私たちの為に様々な縁を作り、他人の苦しみを理解し思いやり、助け合うように、との、思し召しなのでありましょう。
 松川浦では潮干狩り場も海水浴場も被災し、再開までまだ二年以上はかかるようです。宿の土産物屋も、賞味期限があるから…と休業中でした。しかし、この地の自然や、歴史、文化、人にご縁を感じた皆さん、ぜひ、相馬を訪れてください。私もまた、じっくりと訪れてみたいと思います。

相馬市観光協会HP
http://www.somacci.com/~kankou/

 尚、登山靴の修理をお考えの方には、南相馬市にある靴修理店をお勧めします。4年前に一度、修理をお願いしたことがありますが、送った靴が見事に甦って戻ってきました。

靴の修理の直行便HP
http://www.kutu-syuri.com/
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

白山順禮写真館

Haxanjunrei

松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝