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白山加賀禅定道登拝

 6月3日14時半、白山加賀馬場・笥笠中宮に参拝。


現在は拝殿と本殿があるのみですが、「白山之記」によれば、本地は如意輪観音菩薩、神殿・拝殿・彼岸所の他、講堂には大日如来、常行堂に阿弥陀如来、法花三昧堂には普賢菩薩が祀られていました。藤原敦光の「白山上人縁起」(「本朝続文粹」)に、笥笠神宮寺の西因上人が保安2年(1121)6月1日に大願を発し、白山の本地仏として阿弥陀如来を祀って「一万年の星霜を契り、十二口の夏臈を定め置き、昼夜不断に弥陀の宝号を念じ奉る」とあります。西因上人は肥前松浦の出身、14才で出家し郷里を離れ、比叡山で受戒後、諸国で難行苦行の末に白山に到り、43年の久修練行を経て大願を発したそうです。かつて笥笠中宮には常行堂があり、おそらく西因上人は常行堂で毎年、常行三昧を行じたのでありましょう。常行三昧は天台智者大師の「摩訶止観」に説かれる四種三昧の一つで、九十日間、身は常に歩き、口には常に阿弥陀仏の名号を唱え、心には常に阿弥陀仏を念じる修行です。笥笠中宮で般若心経、念仏と西因上人発願文をお唱えしました。
「若し白山の名を聞く善悪諸衆生、生死に流転する者あらば、我即ち成仏せず。若し此の善に結縁する遠近諸衆生、極楽に坐せざる者あらば、我即ち往生せず。…」
 加宝宮の虚空蔵菩薩に参拝した後、15時にハライ谷の登山口に駐車。歩調と呼吸と阿弥陀仏の名号を合わせ、加賀禅定道を一心に登ってゆきました。泰澄大師が白山に開いた三所権現の本地仏は、御前峰が十一面観音菩薩、別山が聖観音菩薩、大汝峰が阿弥陀如来でしたが、西因上人は「三所権現は阿弥陀・聖観音・十一面の垂迹也」(「続古事談」)と述べており、白山三所権現を阿弥陀三尊と拝んだのでした。十一面観音さまも聖観音さまも宝冠に阿弥陀さまの化仏を戴いており、白山の本地仏を阿弥陀如来と見ることは、当然の帰結といえましょう。
 ギンリョウソウを拝みつつ行道し、16時半に御仏供水着。「白山之記」にある「壺の水」とは、此処のことでしょうか。湧き出る清水をいただきました。谷の対岸の崖が崩れ、辺りは巨岩に覆われていました。


御仏供水から檜新宮への山道は、だいぶ藪化していました。檜新宮に参拝し、本地・地蔵菩薩ご真言をお唱えしました。北側に笈ヶ岳から中宮山までの山並を遥拝。


檜新宮から念仏行道を続け、南に四塚山・七倉山、そして大汝峰のお姿を拝みました。


しかり場より、長倉山の尾根を行道。ハクサンシャクナゲの花に掌を合わせて念仏をお唱えしました。


18時すぎに奥長倉避難小屋着。夕座勤行を修した後、日本海に沈む夕日を拝みました。


此処から望む加賀平野の夜景は、見事です。


夜になると上空には満天の星。無数の星に、無量のみ仏を拝みました。
 翌6月4日、3時半に朝座勤行を修し、4時すぎ出発。美女坂を登ってゆくと、朝日が立山から昇ってきました。立山権現に念仏をお唱えしました。


5時すぎ、百四丈滝を眼下に拝み、般若心経を読誦。


「白山之記」には、「高滝と号す」とあります。やがて山道には残雪が現われ、5時半に天池より四塚山を遥拝。


「白山之記」に「雨池と号す。傍に堂宇あり、室一宇、三所の御躰を宝社に安置す。」とあります。白山三所権現ご真言・ご宝号をお唱えしました。天池から先は処々、残雪の上を行道。ハクサンコザクラの花に掌を合わせ、油池へ。


四塚山へと登ってゆくと、北に歩いてきた尾根、その後ろに、笥笠中宮の背後から中宮山へと連なる山並が遠望できました。「白山之記」は笥笠中宮について、「崇山八方を周りて、形は蓮華の華に似たり」と描写していますが、笥笠中宮の背後の波打つ山並は、確かにそのように見えなくもありません。


 四塚山頂の雪融け水で喉を潤し、七倉山の右奥に大汝峰を遥拝。


七倉山の左奥には、奥三方岳。7時半すぎ、御手水鉢のすぐ下の遺構に参拝。


「白山之記」に「太男知の麓の盤石の上に泉水あり。…その石の下の泉の北に一つの宝社あり。不動明王を安置す。」とあります。般若心経と不動明王ご真言をお唱えしました。御手水鉢の不思議なお水で手を洗い口を漱ぎ、大汝峰へ。


8時15分に大汝峰の頂部に出ると、大汝峰と御前峰の間に別山のお姿。白山三所権現を拝みました。


剣ヶ峰の麓には、翠ヶ池。


西因上人の願文に、「十悪五逆は風前の塵、妄想顛倒は空中の花。弥陀の白毫一たび照らさば、煩悩の黒業悉く除かれん。然れば即ち誰か観音の金台に登らざらんや。なんぞ安養の宝池に詣でざらんや。」とありますが、大汝峰から望む白山頂部の光景は、まさに「観音の金台」、「安養の宝池」です。阿弥陀如来を本地とする大汝社にて、法要を修しました。
 大汝峰を下って万年雪に覆われた千蛇ヶ池へ。


「白山之記」によれば、長久3年(1042)の噴火の際に二つの火口が開き、一つは翠ヶ池、一つは「深谷を成す」とあります。「池の西に深谷あり。雪積りて未だ曾て消え滅びず。これを千歳谷と名づく。」とも書かれてあり、「深谷」とは、千才谷の源流に位置する千蛇ヶ池のことでしょう。翠ヶ池と千蛇ヶ池は、泰澄大師が生きていた八世紀にはまだ開いていなかったことになります。西因上人が白山で修行していた十一世紀後半には、火坑は変じて池と成っていたでしょう。六地蔵跡にお参りして9時に御前峰の白山奥宮に参拝しました。


 山頂から下ってアイゼンを付け、傾斜45°の雪渓を彼岸へと渡ってゆきました。三点確保で一歩一歩雪に足を蹴り込み足場を作り、あせらず、雪渓のかき氷をいただきつつ行道。三十分程で雪渓を渡り、転法輪の窟に辿り着きました。


窟の前にはまだ雪の衝立があり、正面に奥三方岳が見下ろせます。


窟内のお地蔵さまが雪上にうつ伏せに倒れていたので、平な処に安置しました。


昭和31年に奉納されたようです。窟内に坐し、観音経を読誦しました。「転法輪」とは、仏法を説くことです。ブッダガヤの菩提樹下でお釈迦さまが覚りを開いた後、五人の比丘に初めて妙法を説かれたのは、サールナートの鹿野苑でした。鹿野苑はお釈迦さまが前世に鹿の王であったとき、毎日鹿を食べていた人間の王に、妊娠中の雌鹿の身代わりとしてわが身を差し出そうとした処です。感銘を受けた人間の王は、その地に鹿を悉く解き放ったのでした(「大唐西域記」)。
 鹿野苑でお釈迦さまが最初に説かれたのは、四諦(苦・集(苦しみの原因)・滅(苦しみの滅)・道(滅に至る道)の四つの真実)の教えでした。この四諦の教えは、すべての大乗仏教徒の総願である「四弘誓願」の根本です。
衆生(苦)は無辺なり、誓って度さんことを願う。
煩悩(集)は無尽なり、誓って断たんことを願う。
法門(道)は無量なり、誓って学ばんことを願う。
仏道は無上なり、誓って成ぜんことを願う(滅)。
 一時間程して坐を立ち、釈尊と白山妙理大権現に投地礼をして雪渓を渡り、此岸へと戻ってきました。南に別山を拝みました。


御前峰山頂に戻り、白山最大の火口・翠ヶ池に下って観音経を読誦。



「彼の観音力を念ずれば 火坑変じて池と成らん」。池より大汝峰と御前峰・剣ヶ峰を拝みました。12時半に大汝峰に戻り、静かな加賀禅定道を笥笠中宮に向けて一心に行道。「白山之記」に、高滝(百四丈滝)を見て、坂(美女坂か)を下ると藁履の御峯があり、登拝者は上りに藁履(草鞋)を奉納する、多聞天が祀られている、とあります。奥長倉のことでしょうか。毘沙門天(多聞天)ご真言をお唱えしました。


 17時すぎに檜新宮に参拝し、山道を下ってゆくと、カケスの雛が地面にうつ伏せに倒れて死んでいました。念仏をお唱えしました。さらに下ってゆくと、樹林の中に猿がいました。こちらの音にもまったく逃げず、静かに私の顔を覗いていました。


私が猿に見えたのでしょうか。畜生の身であるとはいえ、彼(彼女?)もいつかは浄土に生まれ、仏となれる身であるはず。お猿さんに向かって合掌し、念仏をお唱えしました。お猿さんは動くことなく、私をじっと見つめていました。
 「今時の人、仏を見れども心に法門なきは、みな仏にあらざるなり。…如来の示現が自在無礙なるに、なんぞ必ずしも一向に丈光(後光)の形をなさん。丈光の形は端正の人に示同するのみ。…師僧・父母・鹿馬・猿猴、一切の色像が、見ることを得る時にしたがって法門とともに発し、またよく本の善根を増長するを、すなわち念仏三昧と名づく。」(「摩訶止観」)
たとえ仏さまの姿を「見た」「感得した」としても、其処に仏法、み仏の教えが現われていなければ、それはみ仏ではありません。一心に白山を念仏行道する中で、正しい教え、妙理・妙法の現われに掌を合わせ、生きとし生けるもの、即ち未来の諸仏を、拝み続けてまいりたいと思います。
「未来の諸の世尊 其の数、量りあることなし」(法華経方便品)
 笥笠中宮には今は神宮寺も常行堂もなく、西因上人を偲ばせるものは何もありません。しかし、末法一万年の衆生を救う為、約九百年前に当地に阿弥陀如来を奉請し、念仏三昧の行を勤修した上人の大菩提心は、私たちが万年の未来へと相続してゆかねばならない、白山の無限大の遺宝です
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝