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越中氣多神社・大伴神社参拝

 白山三所権現(御前峰・別山・大汝峰)のうち、最も北側に鎮座する大汝峰の本地は阿弥陀如来、垂迹は大己貴命(オオナムチノミコト)、即ち大国主神です。因幡の素兎(しろうさぎ)を助けた話や国譲りなどで知られる大己貴命は、出雲を始め日本海側に広く祀られている神さまです。大己貴命を祀る能登国一宮・氣多大社と越中国一宮・氣多神社を巡拝してきました。
 1月7日朝8時、越中・伏木駅で下車。高岡は雪がありませんでしたが、伏木は雪が舞っていました。駅前には、山伏姿の武蔵坊弁慶が源義経を打ち据える姿。


「義経記」によれば、山伏姿で京から奥州平泉へと下る源義経一行は愛発山(あらちやま)、越前の白山平泉寺、加賀の白山本宮等を経て倶梨伽羅山を越え、如意の渡を舟で渡ろうとしたところで渡守に義経の正体を怪しまれてしまいます。すると弁慶は

「あれは加賀の白山より連れたりし御坊なり。あの御坊故に所々にて、人々に怪しめらるるこそ詮なけれ」

と、扇をとって見るに忍びないほど散々に打ち据えたのでした。無事に如意の渡を渡り終え、弁慶は泣きながら主君・義経に許しを乞います。この「如意の渡」はこの辺りにあったようで、駅から小矢部川に出ると、伏木湊の由来を記した碑があります。


河口を望みつつ、義経一行に思いを馳せました。


 伏木は、かつての越中国府です。国分寺跡に参拝してさらに山手へ歩を進め、8時半に氣多神社に参拝。


天平宝字元年(757)に越中国から能登国が分立した際、能登の氣多大社を勧請したようです。能登国は養老2年(718)に越前国から分離して成立しましたが、天平13年(741)には越中国に併合されています。大伴家持が越中国守として当地に赴任していた天平18年(746)~天平勝宝3年(751)には、能登も越中国だったのでした。
 氣多神社の祭神は、大己貴命(大国主神)。「氣多」とは、因幡国の地名です。「古事記」によれば、須佐之男命の七代目の子孫・大穴牟遅神(大己貴命)は、出雲国で兄弟の神々の従者にされ、神々が因幡の国の八上比賣(ヤガミヒメ)に会いに行った際、皆の荷物を袋に入れて運ばされていました。氣多の前(けたのさき)に到った時、全身の毛を剥がれた兎が伏せっていたので、神々は「海水を浴び、風吹く山の尾根に伏すとよい」と伝え、兎がそうすると痛みはますます激しくなるばかり。最後尾の大己貴命が兎に泣いている理由を尋ね、河口の淡水で体を洗い、蒲(ガマ)の花粉を敷き散らしてその上に寝転ぶよう勧めると、兎の膚は元の通りに治ったのでした。
 氣多大明神(大己貴命)ご宝前で勤行。


氣多大明神は能登国と越中国の他、但馬国(豊岡)や越後国(居多神社)など出雲以東の日本海沿岸に広く祀られ、飛騨等にも祀られています。「古事記」によれば大己貴命の正妻は須佐之男命の娘・須勢理毘賣(スセリビメ)ですが、因幡の八上比賣、高志国(こしのくに)の沼河比賣(ヌナカワヒメ)、筑紫国・宗像の沖津宮に坐す多紀理毘賣(タキリビメ)等をも妻にしています。高志国とは、越前・越中・越後が分立する以前の国名です。出雲を中心とした大己貴命(大国主神)の勢力が、九州から越後までの広大な地域に及んでいたことが察せられます。越後の出雲崎にある石井神社(いわいじんじゃ)も大国主神を祀る社で、大国主神は此処から舟で佐渡を平定しに行ったとのこと。石井神社は、良寛和尚の生家・橘屋山本家が代々神職を勤めていたそうです。


(弥彦山の能登見平より出雲崎方面を望む、2017.10)
 海沿いばかりでなく、山にも大己貴命は祀られています。白山三所権現の大汝峰。


(2017.5登拝時)
立山の最高峰・大汝山。


(2016.7登拝時)
越後・能生の鉾ヶ岳の麓は、大己貴命の妻・沼河比賣の生地と伝わります。鉾ヶ岳の名は大己貴命の別名・八千矛神(ヤチホコノカミ)に由来するのでしょう。


(2018.11登拝時)
鉾ヶ岳の隣には白山権現を祀る権現岳が鎮座しています。兄弟の神々にこき使われていた大己貴命が、どうしてかくも偉大な神さまとなったのでしょうか。「古事記」によれば、大己貴命が因幡で兎を助けた後、因幡の八上比賣は大己貴命の兄弟神たちを拒み、大己貴命に嫁ぎます。怒った兄弟神たちによって大己貴命は二度も殺されますが、母が高天の原の神産巣日神(カミムスヒノカミ)に頼んで生き返らせています。心やさしい好青年ですが馬鹿正直でもある大己貴命は、このままではまた殺されることは目に見えています。そこで、偉大なる先祖で今は根の堅州国(黄泉の国)の大神となっている須佐之男命の元に預けられたのでした。かつて姉の天照大御神が治める高天の原で大暴れして天界から追放され、出雲で「高志の八俣の大蛇(こしのやまたのおろち)」を退治して須賀の宮を建て、初めて和歌を詠んだ須佐之男命。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

須佐之男命の娘・須勢理毘賣は大己貴命に一目惚れしますが、須佐之男命は大己貴命を「葦原色許男(アシハラノシコヲ、葦原の中つ国のブ男)」と呼び、蛇の室、呉公(むかで)蜂の室、焼け野など様々な試煉を与えました。須勢理毘賣やネズミの助言を受けつつ智略を身につけた大己貴命は、ついに須佐之男命が寝ている隙に大刀と弓矢と天の詔琴を盗み、須勢理毘賣を背負って黄泉国から地上へと脱出したのでした。黄泉比良坂で二人を見送った須佐之男命は、大己貴命に大国主神(オオクニノヌシノカミ)と宇都志国玉神(ウツシクニダマノカミ)という名を与え、須勢理毘賣を正妻として国の主となれ「この奴(やっこ)!」と、餞の言葉を贈ったのでした。
 雪は降ったりやんだりですが、傘をさすほどではなく、平地には積雪もありません。氣多神社の隣の大伴神社に参拝し、万葉歴史館へと向かいました。越中国守として五年間赴任した大伴家持(おおとものやかもち)は、養老2年(718)生まれ。越の大徳・泰澄大師が白山を開山されたのが養老元年(717)三十六歳の時とされているので、ほぼ同時代を生きたことになります。「古事記」によれば大伴家の祖は、大己貴命の国譲りの後に高天の原から日向の高千穂に降臨された邇邇芸命(ニニギノミコト)に、大刀と弓矢を持って仕えた天忍日命(アメノオシヒノミコト)。家持は越中で多くの歌を詠んでおり、立山も詠まれています。

立山(たちやま)に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神(かむ)からならし

家持は越中国守を勤めた後、天平宝字2年(758)から二年間は因幡国守を勤め、天平宝字3年(759)元旦に因幡の国庁で詠んだ歌は、「万葉集」最後の歌です。

新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)

屋上庭園からは今日は立山は見えませんでしたが、立山権現の本地・阿弥陀さまに掌を合わせました。


万葉歴史館から下って勝興寺(かつての越中国府跡)、大伴家持像と順拝。



伏木駅から電車に乗り、能登・羽咋へと向かいました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝