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大垣巡礼

 7月25日午前、岐阜県神戸(ごうど)町の日吉神社に参拝。


比叡山を開いた伝教大師最澄上人が弘仁8年(817)東国布教の旅の際に創建し、山王大権現を勧請した処です。伝教大師は比叡山から東山道を東へ向かい、近江・美濃国境に近い柏原に成菩提院、西濃・平野庄(神戸町)に山王権現(日吉神社)、東濃・御嵩に願興寺、美濃・信濃国境の神坂峠の麓に広済院と広拯院を開いています。神戸日吉神社参道の両側には坊院の跡がいくつも並び、「日吉新宮」の額が掛かる拝殿の後ろには、大宮を中心に向かって右側に客人宮(白山宮)・樹下宮・牛尾宮、左側に宇佐宮・二宮・三宮が立ち並んでいます。般若心経と円宗(天台宗)擁護・山王権現および伝教大師ご宝号をお唱えしました。当社には清楚な十一面観音菩薩の坐像が伝わっており、客人宮(白山宮)の本地仏であったのでしょう。三重塔にお参りしてふと見ると、樹に羽化したばかりのセミがいました。


その羽は、まるで天女の羽衣のよう。小さな命の営みに、掌を合わせました。
 神戸町から車で大垣市に入り、杭瀬川沿いの緑地にある日吉神社に参拝。此処からは歩いて北側へ進み、護国霊苑に参拝しました。先の大戦で戦死した方々が祀られている他、昭和20年(1945)7月29日の大垣空襲などの戦災死没者慰霊碑、明治24年(1891)の濃尾地震などで亡くなられた方々の供養塔等があります。法要を修し、戦災・震災で亡くなられた方々の菩提を弔いました。


 霊苑から緑地に戻り、山王用水路から市立図書館を経て水門川へと歩を進め、八幡神社に参拝。大垣は水の豊かな街で、あちこちに湧水があります。


水門川に沿って東へ進むと、龍の口橋を渡った処に「被爆地の跡」と書かれた石碑がありました。昭和20年7月24日、米軍の爆撃機B29が投下した一発の爆弾により20人が死亡、負傷者約100人、家屋全壊約20戸、一部損壊100戸以上。爆弾は、後に長崎に落とされたプルトニウム型原爆と同じ大きさ・重さの模擬爆弾でした(「岐阜も戦場だった~岐阜県各地の空襲~」)。この模擬爆弾「パンプキン」は、7月20日の富山・長岡・福島・東京を皮切りに、7月29日までに各地で計38回の投下訓練が行われ、24日は大垣の他、新居浜(四国)・神戸(こうべ)・四日市・大津にも落とされました。これらは、B29が原爆の爆風に巻き込まれないよう、投下後に急旋回して離れる訓練だったそうです。8月6日に広島にウラン型原爆が落とされ、8月8日には敦賀に模擬爆弾投下、9日に長崎にプルトニウム型原爆が投下されたのでした。その後も模擬爆弾「パンプキン」は投下され続け、8月14日までに計30都市に50発が投下されたそうです。


 前日がこの爆弾による犠牲者のご命日であったはずですが、碑には何もお供えされていませんでした。駅前の商店街で花を買い、お供えして読経念仏し、この爆弾で亡くなられた方々と、広島・長崎の原爆死没者、空襲で亡くなられた方々に回向しました。


私の曾祖父と祖父は、長崎の爆心地から約2キロ南にあった瀬崎町で鉄工所を経営していました。八千代町にあったガスタンクのすぐ東で、原爆が落とされる前に強制疎開地となり、親戚のある島原半島に疎開していた為、助かったようです。もし、当時まだ幼かった父が長崎市内にいたなら、私というものも存在しなかったかもしれません。また、当時の記録を読みますと、父と同年代の方々も多く亡くなっています。もしその方たちが生きておられれば、私と同年代の子孫、私の子供たちと同年代の子孫がおられたことでしょう…。人間一人の命とは、過去の無数の命と、また、未来の無量の命とつながっているのだ、ということを(遺伝的な意味だけではなく精神的にも)、けっして忘れてはならないと思います。昨今のニュースを見聞きしておりますと、外国でも日本でも、人間を単なる物質としてしか見ていないような浅ましい事件が、続々と起きています。生きているということは、けっして当たり前のことではないはずです。殺さない・殺させない・殺すことを見て喜ばない、という仏教の第一の戒律を戦争に当てはめるなら、戦争をしない、だけではなく、戦争をさせない、戦争を喜ばないという努力も、同様に大切であろうと思います。
 「被爆地」から水門川を下流へ、松尾芭蕉の奥の細道むすびの地まで歩いた後、大垣城へと向かいました。



国宝であった大垣城も、7月29日の空襲で焼け落ちました。また、大垣城は天正13年(1585)の白山周辺を震源とする巨大地震でも全壊焼失しています。この地震では、白川郷の帰雲城が山崩れで城下もろとも埋没し、長浜城や長島城も全壊しており、今年4月からの熊本地震と同様、複数の断層が連動して広範囲な被害をもたらしたようです。
 最上階からは大垣の街が見渡せます。西に聳える伊吹山は、今日は雲に隠れていました。


大垣城から水門川を上流へ歩き、東本願寺大垣別院に参拝。大垣別院も7月29日の空襲で焼失しました。また、明治24年(1891)10月28日、能郷白山麓の根尾谷を震源とするマグニチュード8.0の濃尾地震で崩壊・焼失し、説教を聞いていた参詣者約150名が亡くなられたとのことです。濃尾地震での大垣の死者は789名、負傷者は1270名にのぼり、全壊戸数は3356戸、市街の七割を焼失したとのことです(「岐阜県下震災景況~明治二十四年濃尾震災報告書~」)。
 水門川から来た道を戻って、14時に杭瀬川沿いの日吉神社に戻りました。


社殿は伊吹山方面を背に建っており、伊吹山・比叡山・伝教大師ご宝号と、伝教大師の「山家学生式」をお唱えしました。戦災や震災はけっして過去のものではなく、現在も戦災や震災に苦しんでいる方々がおられ、これからもいつどこで発生するか分かりません。過去の戦災・震災を風化させることなく、ご命日などには気づいたものがお供えをして、祈りを未来へとつないでゆくこと。それもまた、「一隅を照らす」「他を利する」菩薩の行の、実践の一つでありましょう。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝