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垂井・伊富岐神社より伊吹山登拝

 8月16日朝5時すぎ、岐阜県垂井町の明泉寺に参拝。門前には「戦争は罪悪である」と書かれた碑。


昭和12年(1937)9月、日中戦争の出征兵士を垂井駅まで見送りに行く途中、明泉寺の竹中彰元住職(当時71才)が語った言葉です。師は村人に、「戦争は罪悪である。国家は莫大な費用を空費し損じている。戦争はもうこの辺でやめた方が国家として賢明である」と述べ、翌月、特別高等警察に逮捕されたのでした。先の大戦で亡くなった軍人は230万人(うち、海外で亡くなった方々は210万人)、民間人は80万人(うち、海外で亡くなった方々は30万人)。アジア全域での死者数は二千万人。明泉寺にて念仏をお唱えし、先の大戦で命を失った方々の菩提を弔いました。
 明泉寺から南西へ歩を進め、伊富岐神社へ。


昔、神社の東に蛇池という池があり、日本武尊が尾張のミヤズヒメの許に草薙の剣を置いたまま伊吹山の荒神退治に来た際、この池の大蛇が池を抜け出して尊を害した、とのことです(「垂井町史」)。伊富岐神社に参拝後、北へ進んで菩提の集落に入り、不退寺に参拝。竹中彰元師は昭和12年10月、不退寺での僧侶の会合でも「自分は戦争はたくさんの彼我の人命を損し、悲惨のきわみであり罪悪であると思う。」「戦争はもうここらで止めた方がよい。これ以上の戦争は侵略だ。」と述べましたが、人々に受け容れられることはありませんでした。師は翌年、禁錮四月執行猶予三年の判決を受けています。
 不退寺からさらに北へ進み、菩提寺に参拝。


観音院にて般若心経を読誦し裏山の白山神社へ。


白山神社からは菩提山城への山道が続いています。日本武尊は岩手山(菩提山か)から尾根伝いに伊吹山に登った、と伝えられています(「垂井町史」)。曇って林内はうす暗く、蒸し暑さに小雨が気持ちよいです。6時半すぎに菩提山登頂。軍師・竹中半兵衛の父・重元の居城跡より、明泉寺方面が見下ろせました。


 菩提山から明神山へと縦走。南西へ進み、石の鳥居から北西へ。


7時半、さかさ杉に参拝しました。


日本武尊が此処まで登ってきた時、此処からは杖はいらぬ、と地面に挿した杖が根付いた、と伝えられています。さらに登って杖立明神に参拝。


祭神は日本武尊です。父・景行天皇の命により16才で西国に出征、休む間もなく東国へ出征し、30才の若さで伊吹山の荒神にたおされ、故郷・大和への途上で亡くなった日本武尊。東征前、「天皇は私に死ねと思っておいでなのか」と嘆いた尊。日本武尊と共に、先の大戦で異郷で亡くなった240万人の方々に掌を合わせました。
 霧の中、明神山から西側へ縦走。鉄塔は、上が雲に隠れて見えません。


尾根は一旦南へ下って上り、西へ。三角点を経て9時前に岐阜・滋賀県境尾根に出ました。伊吹山は雲隠れですが、上空は晴れてきました。川戸山へと縦走。


9時半すぎに川戸山を通過し、播隆上人屋敷跡に参拝しました。


江戸時代後期に笠ヶ岳を再興し、槍ヶ岳を開山した播隆上人は、文政3年(1820)頃に伊吹山で修行していたそうです(富山市大山歴史民俗資料館「播隆~信仰登山に生きた生涯と川内道場再興~」)。県境尾根を北西へ進み、ドライブウェイを横切ってさらに県境尾根の古道を登ってゆきました。


 上平寺越駐車場に近づくと、ようやく雲を被った伊吹山が拝めました。


上平寺越駐車場からも県境尾根の踏み跡を登ってゆき、石灰岩のゴロ石の山道より、川戸山など歩いてきた尾根を振り返りました。


爽やかなそよ風、林を駈け去る鹿。山頂部が近づくと、イヌワシが出迎えてくれました。


「徳彦霊神」と書かれた祠(昭和10年のもの)に掌を合わせ、姿を現わした伊吹山頂を遥拝。


イブキトリカブトが咲いていました。


 11時半すぎ、山頂部に出ました。


弥勒堂、日本武尊像と巡拝。


深田久弥の「日本百名山」には、伊吹山頂の日本武尊像は「尊にお気の毒なくらいにみっともない作り」とありますが、尊のお姿に、出征したまま帰らぬ人となった方々の思いをも感じさせるような像をこそ、拝みたいものであります。
 お昼前に山頂の伊吹山寺覚心堂に参拝。ちょうど、恩師がご子息と登っておられました。そうとは知らずに登ってきたのでしたが、これもみ仏の、山の、お導きなのでありましょう。山の霧は晴れ、西には琵琶湖の展望が開けてきました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝