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能登氣多大社・津幡白鳥神社参拝

 1月7日、越中・伏木で氣多神社と大伴神社に参拝した後、電車で能登へ。十二時半に羽咋駅で降車、大きなお寺が見えたのでお参りに行きました。


本念寺という浄土真宗の寺で、境内には立山権現も祀られています。立山権現の本地は阿弥陀如来。念仏をお称えして北へ歩を進め、少名彦名神社に参拝しました。


少名毘古名神(スクナビコナノカミ)は高天の原の神産巣日神(カミムスヒノカミ)の子で、出雲を平定した大国主神(大己貴命)が葦原の中つ国(日本)の国作りをするのを、補佐した神さまです。親の神産巣日神は、かつて大己貴命が出雲の兄弟神たちに殺された時、生き返らせた神さま。少名毘古名神の本地は薬師如来とされることから、当社にも薬師如来が祀られたとのことです。
 川沿いに足を進めて羽咋川を渡り、さらに北上。


右手に碁石ヶ峰から石動山(いするぎやま)へと続く山並を望みつつ歩いてゆきました。積雪はなく、空も晴れてきました。十三時半に能登一宮・氣多大社の一の鳥居着。


南に面して立つ鳥居の前は、海。


宝達山が望めます。雲でよく見えませんが、南方には白山が鎮座しているはず。因幡国の氣多の前(けたのさき)で兎を助け、後に出雲を拠点に日本の国作りをした大己貴命(大国主神)を祀る氣多大社は、同じく大己貴命を祀る白山・大汝峰の真北に鎮座しています。


(別山より北に拝む御前峰と大汝峰、2013.4登拝時)
一の鳥居をくぐり、大国主神を祀る瀧屋神社に参拝。


さらに参道を北上して氣多大社へ。


拝殿の後ろに氣多大明神、即ち大己貴命を祀る本殿。本殿の向かって右には白山妙理大権現(本地・十一面観音菩薩)を祀る白山神社。


向かって左は若宮神社(本地・聖観音菩薩)。氣多大明神の本地は、勝軍地蔵菩薩。出雲を中心に、九州から越後や佐渡まで日本海側の広大な地域を平定した、大己貴命。養老元年(717)に泰澄大師は貴女の姿の伊弉諾尊(イザナギノミコト)に導かれて白山天嶺に登り、白山妙理大権現の本地として十一面観音菩薩を感得した後、南の別山に別山大行事権現(本地・聖観音菩薩)、北の大汝峰に大己貴権現(本地・阿弥陀如来)を感得して白山三所権現を開かれたわけですが、白山の大汝峰は、あるいは氣多大明神が勧請された処なのかもしれません。氣多大明神と白山権現ご宝号をお唱えしました。
 本殿の裏山は「入らずの森」といわれる社叢林で、奥宮には大己貴命の祖先であり義父であり、師でもある須佐之男命と、妻の櫛名田比賣(クシナダヒメ)が祀られているそうです。


姉の天照大御神が治める高天の原で大暴れをして天界を追放された須佐之男命は、出雲の国で「高志の八俣の大蛇(コシノヤマタノオロチ)」の生けにえにされる直前の櫛名田比賣を救って八俣の大蛇を退治し、須賀の宮を建てました。すると雲が立ち昇ってきたので、須佐之男命は歌を詠んだのでした。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

日本で最も古い和歌です。本殿から東へ進むと太玉神社。


布刀玉命(太玉命、フトダマノミコト)は、須佐之男命が高天の原で大暴れして天照大御神が天の岩屋戸に籠ってしまった時、天照大御神に鏡を見せたり、天照大御神が天手力男神(アメノタヂカラヲノカミ)に引き出された時に岩屋戸に注連縄を張って戻れなくした神さま。後に大国主神が国譲りをして天照大御神の孫・邇邇芸命(ニニギノミコト)が日向・高千穂に降臨した際には、随従して共に降っています。この布刀玉命は、白山においては白山六所王子の加宝王子(かほうのおうじ、本地・虚空蔵菩薩)の垂迹の姿とされています。


(白山加賀禅定道・尾添の加宝宮、2018.5)


(かつて加宝社があった白山美濃禅定道・別山平、2015.6)
氣多大社の東側に聳える石動山は泰澄大師のご開山、石動権現の本地は虚空蔵菩薩。太玉神社にて虚空蔵菩薩ご真言をお唱えしました。
 氣多大社の西側には、神宮寺の正覚院。養老2年(718)、越の大徳・泰澄大師の創建と伝わるそうです。


阿弥陀堂には、かつて氣多大社の大講堂にご本尊として祀られていた阿弥陀さま。白山・大汝峰の大己貴権現の本地も阿弥陀如来。念仏と大己貴権現ご宝号をお唱えしました。神宮寺から北へ歩を進め、入らずの森の裏手のぬかるむ小道へ。履いてきた長靴が、やっと役に立ちました。登ってゆくと折口信夫(釈迢空)の句碑。



くゎっこうの 鳴く村すぎて 山の池

句碑の下には、寂かな池。


入らずの森の周りをぐるりと行道し、随神門を出ました。


氣多大社の東にも大穴牟遅神(大己貴命)を祀る大穴牟遅像石神社が鎮座しており、参拝。


この地でいかに大己貴命が厚く敬われてきたか、実感させられます。大穴牟遅神像石神社から南へ歩みつつ、東に碁石ヶ峰から石動山へと続く山並を遥拝しました。


雨が少しパラつきましたが、すぐに止みました。歩いて羽咋駅へ戻る途中、南方に雪を被った山並がうっすらと見えました。
 十五時すぎに羽咋駅に着き、電車で中津幡へ。清水八幡神社の隣にある為広塚に参拝。室町時代後期の公家で歌人の冷泉為広のお墓です。冷泉為広は京の戦乱を避けて能登・七尾城主の畠山氏を頼り下向、大永6年(1526)に七十七歳で亡くなったとのこと。

コレヤ此神ノ力ノ□□□(ユスル?)キヤ四方ニ名高キ山風ノ声
(「冷泉為広能州下向日記」)

為広が永正14年(1517)に石動山に参詣した後、詠んだ歌です。塚にて西日に掌を合わせ、念仏をお称えしました。


南下して津幡川を渡り、白鳥神社(しらとりじんじゃ)へ。


日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祀る古社で、井上庄の総社でもあったとのこと。白山の開山伝承を伝える「泰澄和尚伝記(たいちょうかしょうでんき)」や「白山大鏡」を元に書かれた「白山禅頂御本地垂迹由来」は、越前・加賀・美濃の白山三馬場に伝わっていたようで、各馬場に都合のよいように書き替えられた部分もありますが、三馬場共通の伝承・信仰を伝える資料として貴重です。その内の一つ・白山比メ神社(白山加賀馬場・白山本宮)に伝わる「白山禅頂御本地垂迹由来私傳」(永正5年(1508))によれば、養老4年(720)より毎年6月18日の白山禅頂の「朝戸開」のため、河北郡(加賀郡)井家庄より道者が白山に登拝して調物を納めていたことが記されています。6月18日の白山御前峰頂・大御前社の戸開け式のため、6月15日に当地・井家庄(井上庄)を出発して下白山(白山本宮)・中宮(笥笠中宮、けがさのちゅうぐう)・火ノ新宮(檜新宮)・天池と、加賀禅定道を登拝していたのでした。
 白鳥神社に祀られる日本武尊は、西征の後、伊勢神宮の倭比賣命(ヤマトヒメノミコト)から授かった草薙剣(くさなぎのたち)を持って東伐を無事に終え、尾張の美夜受比賣(ミヤズヒメ)と一夜をすごして草薙剣を置いたまま、伊吹山の荒神退治に出かけました。白いイノシシの姿で現われた伊吹の神を遣いッパシリと勘違いした日本武尊は、そのまま山に入って山中で大氷雨に遭い、致命的なダメージを受けたのでした。尾張に戻らず、故郷・大和を目指して歩み続ける日本武尊。鈴鹿の能褒野(のぼの)に到った時、尊は

倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる 倭しうるはし

と詠みます。しかし、もはやこれ以上進むことはできず、

嬢子(をとめ)の 床の邊(とこのべ)に 我が置きし つるぎの大刀(たち) その大刀はや

と詠って亡くなったのでした。


(能褒野・加佐登神社の日本武尊像、2016.8)
しかし、日本武尊の魂は大きな白鳥となって、故郷を目指して飛んでいったのでした。この草薙剣は日本武尊の死後、熱田神宮に祀られましたが、元々は須佐之男命が出雲で「高志の八俣の大蛇」を退治した際、大蛇の尾から出てきた大刀です。須佐之男命はこの大刀を姉の天照大御神に献上したのでした。
 天照大御神は、日本の父である伊弉諾尊(イザナギノミコト)が日本の母である伊弉冊尊(イザナミノミコト、黄泉津大神ヨモツオオカミ)と黄泉比良坂で決別した後、筑紫で禊をして左目を洗った時に生まれた神さま。右目を洗った時に月読命が生まれ、最後に鼻を洗った時、須佐之男命が生まれたのでした。須佐之男命は父から海原を治めるよう命じられたものの、根の堅巣国(黄泉の国)の伊弉冊尊の処に行きたいと泣き続け、父から勘当されます。高天の原での大暴れの後に天界から追放され、出雲で八俣の大蛇を退治して須賀の宮を建て、子孫を残した須佐之男命は、やがて黄泉の国の伊弉冊尊の処で大神となり、ついに夢をはたしたのでした。白山三所権現の中尊・白山妙理大権現(本地・十一面観音菩薩)は伊弉諾尊と伊弉冊尊、向かって右(南)の別山大行事権現(本地・聖観音菩薩)は天照大御神の息子の天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)、向かって左(北)の大己貴権現(本地・阿弥陀如来)は、須佐之男命の子孫で婿の大己貴命。白山三所権現・六所王子の祭神を表す「白山曼荼羅」に、私はこれらの神々を拝みます。

(白山曼荼羅の一例)
https://ishikawa-rekihaku.jp/collection/detail.php?cd=GI00225

中央・御前峰の前に鎮座する女神は、伊弉冊尊。向かって右(南)、別山の下には天忍穂耳尊。向かって左(北)・大汝峰の下には大己貴命。では、伊弉諾尊はどこに?伊弉諾尊の左目からは天照大御神、右目からは月読命、鼻からは須佐之男命が生まれたのでした。御前峰と別山の後ろに描かれている太陽、御前峰と大汝峰の後ろに描かれている月。これは天照大御神と月読命であり、伊弉諾尊の左目と右目と見ることができます。とすると、中央の御前峰は伊弉諾尊の鼻。山谷から湧き出づる八重の雲こそ、須佐之男命の象徴に他なりません。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 今回の越中氣多神社・能登氣多大社の順拝は、白山曼荼羅に照らせば向かって左の大汝峰(大己貴権現)とその麓の世界、白山曼荼羅の向かって左半分の世界に当てはまるといえましょう。白山の頂は、二つの世界・陰と陽の境い目なのではなく、両者が交わる処・両者が対立し葛藤し、融和する霊地です。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝