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茶臼山~大桑城山~大桑城下巡拝

 10月1日、関市池尻の弥勒寺に参拝しました。古代、大碓命を祖とする美濃の豪族・ムゲツ氏が建て、江戸時代に円空上人が再興して晩年をすごした寺院です。弥勒寺遺跡と円空上人のお墓を巡拝し、長良川河畔の入定塚に参拝。元禄2年(1689)に弥勒寺を再興して住持した円空上人は、元禄8年(1695)、この下で結跏趺坐し、生身往生されたのでした。


塚の前を、白山連峰を源流とする長良川が滔々と流れていました。


 入定塚から、弥勒寺西の高台にある白山神社へと向かいました。神社参道右手にあるムゲツ氏の古墳(池尻大塚古墳)に掌を合わせ、石段を上へ。


この社は、山県の大桑(おおが)城主・土岐美濃守の家臣であった平田宗善という人が、土岐氏滅亡後、永禄年中(1558~1570)に当地に来住して田を広く開墾し、白山神社を勧請して田を寄附した、と伝えられています(「関市社寺一覧」)。


拝殿、さらに上の本殿に参拝し、円空上人より約一世紀前に当地に来、白山権現を祀ったという平田宗善と、美濃国を斎藤道三に奪われた土岐氏に想いを馳せました。平田宗善は、天正5年(1577)には白山神社の西に西光寺(曹洞宗)を建立しています。西光寺に参拝し、一面の稲穂の彼方に白山神社を遥拝しました。


 翌2日、平田宗善が仕えていた美濃国守護・土岐氏の大桑城(山県市)へと向かいました。鳥羽川沿いの公園に駐車し、霧雨の中、9時に出発。大桑城があった古城山(城山(しろやま))の前衛の山ともいえる茶臼山は、頂が雲に隠れていました。


茶臼山から北へ連なる尾根の西側の谷筋に、かつての城下町が広がっていました。その地形は、越前朝倉氏の一乗谷と似ています。鳥羽川は、一乗谷でいえば足羽川に相当するでしょう。
 茶臼山登り口の稲荷神社に参拝。


周りには薬師如来・波切不動明王・観音さま・大日如来名号碑・阿弥陀如来・役行者などが立ち並び、巡拝しました。役行者が祀られていることから、おそらく、この辺りもかつては山伏が修行していたのでしょう。谷から鉄塔巡視路を登り、9時半に茶臼山登頂。


すぐ南にある鉄塔からは、南の鳥羽川方面は曇って見えませんでしたが、北東の岩佐・武儀川方面が見下ろせました。
 茶臼山頂から北側に踏み跡が続いており、しばらく下りましたが、尾根は岩佐側に下る一方でした。山頂へ引き返し、北北西の尾根を降下。以前、この近くの障害者施設の方たちと茶臼山に登った時、一人の方が間違ってこの尾根を走り下ってしまったことがありました。必死で追いかけたものでしたが、あの時、尾根がやがてアップダウンしつつ続いていたことを思い出しました。道を教えてくれた彼に感謝しつつ、尾根上の薄い踏み跡を縦走してゆきました。


 10時に峠を横切りました。


栢野・惣賀から岩佐に抜ける峠道です。峠には弘法大師の坐像。昭和3年のものです。大桑城下から長良川沿いの池尻に移ったという平田宗善も、この峠を越えたのでしょうか。弘法大師に掌を合わせ、さらに尾根を北へと進んでゆきました。10時半前、崖の下に小さな池がある処に出ました。池の奥に小さな窟があり、中には水が滴り、たまっていました。


周囲は藪ですが、かつては不動明王でも祀られていたのでは、と感じさせる不思議な処です。般若心経と不動明王ご真言をお唱えしました。
 池から登ってゆくと、日が差してきました。栢野から「みやまの森」へ抜ける林道を横切り、さらに尾根を縦走。北西の樹間に、古城山の頂が拝めました。尾根は一旦、西へと続き、11時に「みやまの森展望台」に出ました。


北に古城山。


南側には、城下町の向こうに鳥羽川、岸見山・如来ヶ岳・眉山、さらに、うっすらと金華山(稲葉山)。茶臼山の鉄塔も見えます。


平田宗善が仕えていた「大桑城主土岐美濃守」とは、土岐頼芸か、兄の土岐頼純(別名頼武・政頼)かどちらか分かりませんが、二人は兄弟で土岐家の家督を争っていました。土岐氏は美濃守護所を天文元年(1532)に福光館から枝広館に移しましたが、天文4年(1535)の長良川洪水で枝広館が廃絶し、大桑城に移したようです(「大桑城下町遺跡」)。頼純(頼武)の妻は越前守護・朝倉貞景の娘であり、頼純は大桑城から一乗谷に亡命していた時期もあるようです。頼純は天文16年(1547)に大桑で没しています。土岐頼芸は、油売り商人から重臣となり美濃守護代・斎藤家の名跡を継いだ斎藤道三を重用し(利用され)、やがて道三と対立、天文12年(1543)頃に大桑で戦があり、天文21年(1552)頃に頼芸は美濃を追放されました(「大桑城下町遺跡」)。美濃国を乗っ取った斎藤道三は稲葉山城(後の岐阜城)を拠点としましたが、やがて息子の義龍と対立して弘治元年(1555)に大桑城に逃げ、翌弘治2年(1556)、大桑から鳥羽川を下って鶴山に布陣、稲葉山城の義龍と長良川で戦い、戦死しました。


(写真は鶴山と稲葉山(金華山)。その間の大きなホテルの手前辺りが、枝広館跡。眉山より撮影。)
土岐氏の旧臣・平田宗善が池尻に来た永禄年間は、その後になります。展望台から東側に、汾陽寺山・権現山・天王山を遥拝。


権現山頂には白山権現が祀られ、天王山は泰澄大師が天王山禅定寺を開いて牛頭天王を祀った処です。そして、その右手の方が、平田宗善が田を開き白山権現を祀った池尻。白山権現と泰澄大師ご宝号をお唱えしました。
 展望台から先は、まともな道です。11時半に古城山登頂、歩いてきた尾根や城下町を見下ろしました。


かつて天守台があった辺りに祠があり、お参りしました。登山道を南西から南へ下り、「田地羅」から山道を離れて南の尾根へと登りました。土は滑りやすく足元はシダが茂って見えず、少々歩きづらい処もありました。やがて「崇福寺洞」に下りました。


長良の崇福寺が元々あった処、と伝えられているそうです。藪中の六十六部供養塔、尾根上の厚見稲荷大明神と巡拝し、尾根から里(かつての城下町)に出ました。


 大桑城下町は現在は栗畑が多く、大桑発祥の大きな「利平栗」が成っています。


栢野川より茶臼山を遥拝。


普段は水のない椿川を渡った辺りに「四国堀」があり、堀の内側の辺りは「本堂」と呼ばれ、薬師如来が祀られていたそうです。さらに道を下ると、栗畑に石碑が建っています。


昭和18年に建立されたもので、「平田家発祥地」と書かれてあります。この辺りは「ヒラタジ」と呼ばれ、おそらく池尻に白山権現を勧請した土岐家旧臣・平田宗善も、この辺りに住んでいたのでしょう。すぐ奥の山麓には、斎藤道三が大桑城を攻めた時の戦死者を祀った「六万墓」。


念仏をお称えし、戦国乱世の騒乱の中で命を落とした方々・滅亡した家々の菩提を弔うと共に、当地の方々・福祉施設の方々の現当二世安楽をお祈りしました。
 斎藤道三により追放された旧美濃国守・土岐頼芸は、諸国流浪の末に甲斐の武田氏を頼りました。天正10年(1582)3月、織田信長・信忠が武田勝頼を滅ぼし、病で盲目となっていた頼芸は、美濃国守時代の旧臣・稲葉一鉄によって30年ぶりに美濃に帰国、谷汲岐礼の東春庵ですごし、その年の12月に亡くなったそうです。同年4月、かつて大桑の南泉寺に住持していた快川国師も、甲斐の恵林寺で焼き殺されました。国師は土岐氏の出身と伝えられています。稲葉一鉄は幼少期に崇福寺で小僧をしており、当時、崇福寺で修行していた快川和尚とも面識があったようです。さらに同年6月、天下統一目前の織田信長・信忠父子が明智光秀に殺されました。明智光秀も土岐氏の一族です。その光秀も、同じ月に秀吉に敗れて亡くなったのでした。
 「ヒラタジ」は、仕事柄、毎日のように通っている処なのですが、此処出身の方が池尻の白山神社を建てたとは、今まで知りませんでした。これも、白山権現のお導きでありましょう。平田宗善の祈りを、平和への祈りと行動を、受け継いでゆきたいものです。

南無白山妙理大権現


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝