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京都東山~伏見~宇治放浪

 先日、江戸時代前期に桃水和尚が修行した熊本の流長院に参拝したためか、久々に桃水和尚のお墓参りもしたくなりました。三年前に岩間山から醍醐山を経て伏見の仏国寺に参拝した際は、墓地の工事中でお墓に掌を合わせることができなかったのでした。今回は、桃水和尚が寺を出てから活動しておられた東山から仏国寺を目指して歩くことにしました。
 10月27日、朝8時に京都駅着。東本願寺、市比賣神社と巡拝して鴨川へ。


五条から四条の河原の彼方には比叡山。肥前島原・禅林寺(現・本光寺)を突如出奔した桃水和尚を探していた島原の尼弟子は、京都五条の橋の下(あるいは四条河原)で、乞食と同じ姿となって病んだ仲間を介抱している師と再会したのでありました(「前総持桃水和尚伝賛」「近世畸人伝」「積翠閑話」)。師の為に用意してきたという布団と寝間着を桃水和尚が断ると、いらなければお捨てになっても構いません、と島原の尼僧。桃水和尚は、それはよい布施じゃ、と、介抱していた乞食に早速与えたそうです。
 この辺りは、平安時代・応和3年(963)に空也上人が大般若経供養会を行った処でもあります。


空也上人は、京中で流行した疫病の終息と犠牲者の供養を願って天暦5年(951)に十一面観音菩薩像を造り、また、金字大般若経六百巻の書写を発願して応和3年に完成、鴨川の西岸に六百人の高僧を招き、法会を厳修されたのでした(「空也上人誄」)。
 松原橋を渡り、9時に六波羅蜜寺に参拝。


空也上人の彫った十一面観音さまの御前で般若心経と十一面観音菩薩ご真言をお唱えしました。宝物館に入ると、教科書で見たことがある空也上人と平清盛の像。念仏を称えながら京の市中を歩く空也上人のお姿からは、身を捨てて衆生を救わんとする、ひたむきな求道者の心が伝わってきます。四条河原で千観内供から後生助かる道を問われた上人は、「いかにも身を捨ててこそ」と言ったきり、足早に立ち去ったといいます(「発心集」)。千観内供はその場できらびやかな法衣を脱ぎ、供の者をみな帰し、以降、身を捨て名利を捨てて仏道を行じたのでありました。
 六波羅蜜寺から東へ坂を登ってゆき、法観寺(八坂寺)の五重塔に参拝。


天暦6年(952)、法観寺に寄住していた浄蔵法師は、傾いていたこの塔を加持して呪力で直したと伝えられています(「大法師浄蔵伝」)。比叡山の浄蔵法師は諸国の山々で修行しており、天慶2年(939)には白山で夏安居をし、御厨池(みくりやいけ)の水を京に持ち帰って病人に施しています。御厨池については「古事談」や石徹白に伝わる白山絵図にも書かれてあり、翠ヶ池とは別に現存する池であると思われます。(詳細は当ブログの今年6月および昨年10月末の白山登拝記をご覧ください。)
 「大法師浄蔵伝」によれば、浄蔵法師は法観寺の塔を直した後、比叡山横川で結夏し、如法堂に納められている慈覚大師書写の如法経(法華経)を密かに見ようとしましたが、小僧から「慈覚大師が六道の衆生を救う為に数年加行して書写したこのお経を、あなたが呪力をたのんで開き見ようとするのは間違っている」とたしなめられています。浄蔵法師は空也上人が鴨川で開いた大般若経供養会にも招かれ、乞食比丘の一人を文殊菩薩と拝んでいます(「空也上人誄」)。法師は翌康保元年(964)に亡くなっていますが、横川結夏後の約十年間の足取りは不明です。法観寺にいた頃は妻子もあったようですが、各地の伝承によれば、その後妻子を捨てて諸国を行脚し、出雲大社や伯耆の大山を経て長州の須佐に庵を結んだとも、天徳2年(958)に白山開山・泰澄和尚の伝記を門人の神興に語ったとも伝えられています。
 法観寺から八坂神社に参拝し、10時に建仁寺へ。栄西禅師が建仁2年(1202)に建てた、京都最古の禅寺です。比叡山で修行した栄西禅師は密教葉上流の祖でもあります。叡山で学んだ後、仁安2年(1167)に伯耆の大山寺で密教の修行をし、翌年、阿蘇山に詣でて入宋渡海を祈願しています。そして二度の入宋修行を経て、臨済宗の禅を日本に伝えたのでありました。栄西禅師の遺徳に掌を合わせると同時に、熊本・鳥取の震災復興を祈願しました。


道元禅師は興聖寺での示衆で、栄西禅師が建仁寺にいた時、餓えに苦しむ貧者を救わんと仏像の光背用の銅を与えた慈悲の心を、「先達の心中のたけ今の学人も思うべし。忘るること莫れ。」と教えています(「正法眼蔵随聞記」)。
 東山から三十三間堂と智積院の間を歩き、泉涌寺塔頭・悲田院に参拝。


京都一周トレイルの道を歩いて涼しい山道に入り、白瀧大神を経て鳥居が立ち並ぶ道を登ってゆきました。


やがて荒神峰に着くと、京都の街が西から南西に見渡せました。


荒神峰から四ツ辻に下ると、大勢の観光客が伏見稲荷大社から登ってきていました。混み合う、鳥居のトンネルの山道。そのほとんどが外国人なのには驚きました。西洋人もいれば、東洋人もいます。朱塗りの鳥居がこれでもかと立ち並ぶ派手さが物珍しいのでしょうか。こんなにたくさんの外国人が参拝する神社を見たのは、初めてでした。
 三ツ辻から熊鷹社を経て神宝宮へ。神宝宮から先は竹林の間の静かな道となり、トレッキング姿の外国人が数人いました。時間があれば、トレイルコースを進んで大岩山から仏国寺に下ることもできますが、時間も押しているので南へ南へと下ってゆきました。高速道路をくぐると、右手にJRの線路。12時半頃、JR藤森駅前を通過しました。仏国寺を目指して住宅地の袋小路を徘徊。ようやく団地を抜けると、目の前に伏見桃山城。


東へ進んで13時前に仏国寺に到着しました。
 三年前は工事中だった墓地は整備され、桃水和尚と弟子のチン洲和尚・智伝和尚のお墓を見つけることができました(「チン」は王偏に深の右側)。墓前にて般若心経と念仏をお唱えし、桃水和尚の遺徳を偲ぶと共に、熊本地震の復旧・復興、桃水和尚が修行された流長院の復興をお祈りしました。


桃水和尚が島原・禅林寺を去った後、この二人の弟子は先の尼弟子と同様、師を探し回り、京で乞食の群集の中に師を見つけたのでした。しかし和尚は随伴を許さず、法友の高泉和尚に就いて修行するよう指示したのでした。高泉禅師は明の僧で、隠元禅師の弟子です。隠元禅師が承応3年(1654)長崎・興福寺に来日後、寛文元年(1661)に宇治に黄檗山万福寺を開いたのに合わせ、長崎・崇福寺に来日して万福寺に入っています。
 桃水和尚はその頃は島原・禅林寺に住持していたと思われ、曹洞宗の桃水和尚と黄檗宗の高泉和尚の親交がいつからであったかは分かりませんが、桃水和尚は諸国行脚中に長崎に隠元禅師を訪ねており、また、熊本・流長院では黄檗宗の鉄眼禅師の法華経講義も聞いています。伏見の仏国寺は高泉禅師が延宝6年(1678)に開山、天和3年(1683)に桃水和尚が亡くなると、高泉禅師に師事していた二弟子が遺骸を迎え、高泉禅師の導師で葬送したのでありました。
 桃水和尚は一所にとどまることなく、大津で馬用のわらじを作っていたことがありますが、その頃、馬子や駕籠かきが「じいさんの所には仏が祀られてない、キリシタンと間違われるぞ」と大津絵の阿弥陀如来像を与えたことがありました。和尚は、その絵にこう書いたそうです。「せまけれど宿を貸すぞやあみだ殿後生たのむとおぼしめすなよ」。身を捨て、名利を捨て、寺も捨てて、社会の底辺で悩み苦しむ人々と共に生きた桃水和尚は、今も極楽でのんびりすごすことなく、六道の衆生を救うために法界を遊化していることでしょう。
 仏国寺から坂を南東へ下り、大善寺のお地蔵さまに参拝。川を渡って宇治市に入り、許波多神社にお参りして府道を只管南へと歩いてゆきました。途中、百円のパン屋さんがあったので、トイレがてら昼食。巡礼や登拝の際、便には気を遣います。街中ではトイレもありましょうが、山中では大便小便を撒き散らすわけにもまいりません。便を出さない為にも、行者は飲み食いせずに只一心に歩くのが自然の成り行きといえましょう。
 黄檗山に着いたのは14時頃。宝蔵院にて鉄眼禅師が作った一切経の版木を拝みました。鉄眼禅師は肥後・益城郡守山(現・宇城市)の出身、明から来日した長崎興福寺・隠元禅師、福済寺・木庵禅師に参じ、日本に一切経の版木がなかったため一切経開版を発願、隠元禅師より明朝版の大蔵経を授かり、此処宝蔵院で開版事業を始めたのでした。途中、集めた浄財を大阪地方の大洪水や近畿地方の大飢饉救済の為に回し、17年かかって延宝6年(1678)に六万枚の版木を完成、現在も経本の印刷・出版が行われており、実際に版木を刷っている方がいました。宝蔵院の裏山に開山堂があり、鉄眼禅師の遺徳に掌を合わせ、熊本地震の復興成就を祈願しました。


 続いて、黄檗山万福寺に参拝。明るく静かな境内に、心が鎮まります。


曹洞宗の寺の住職であった桃水和尚が島原禅林寺を出奔し、社会の底辺の人々と共に生きる道を選んだことには、桃水和尚を招いた島原藩主・高力隆長の苛政に対する失望もあったことでしょう。寛永14年(1637)に始まった島原の乱後、藩主・松倉勝家は斬首刑となり、新たに藩主となった高力忠房は島原の復興に尽力しました。しかし、子の隆長(母は真田信之の娘)は領民の訴えにより寛文8年(1668)に改易となっています。桃水和尚は同時に、当時、明から来日した隠元禅師らによる禅の新しい流れや、鉄眼禅師らの社会事業に刺激を受け、己れの進むべき道を見出だしたのでしょう。万福寺の売店に「鉄眼茶」というお茶があり、熊本産でもあったので購入しました。


 黄檗山からさらに南へ進み、宇治川に出ました。


宇治神社を経て16時前に興聖寺に参拝。


道元禅師が嘉禎2年(1236)深草に開いた、日本曹洞宗最初の寺です。延暦寺による迫害もあり、道元禅師は越前に移って寛元2年(1244)に永平寺を開くこととなります。現在の興聖寺は、慶安元年(1648)に場所を変えて再興されたそうです。
 興聖寺から宇治神社に戻り、浮島十三重塔を経て宇治川左岸へ。


白川へと登ってゆくと、惣門が現われました。


手前の灯籠には「白山宮」の文字。門の奥へ進むと、白川金色院の跡。康和4年(1102)、藤原頼通の娘・四条宮寛子が建立、文殊菩薩が祀られていたようです。さらに進むと、16時半、目的地である白山神社が現われました。


石段を登ると、桧皮葺きの拝殿が夕日に照らされていました。


この白山宮は金色院の鎮守として久安2年(1146)に建てられ、本地・十一面観音菩薩が祀られていたそうです。白山権現のご宝前で般若心経と十一面観音菩薩ご真言をお唱えし、今後も一心に白山巡拝を行じることを誓って投地礼しました。白山の巡礼とは、十一面観音さまに導かれての巡礼に他なりません。
 拝殿の横から脇道を下ると、沢を渡った処に九重石塔がありました。


四条宮寛子の供養塔だそうです。念仏をお唱えし、此処に金色院を建て、白山宮を残してくださったことを感謝しました。白山宮・金色院跡から下り、地蔵院に参拝。此処には十一面観音菩薩等の仏像、白山大権現に奉納された大般若経など、白川金色院の遺宝が伝わっているそうです。奇しくも、鴨川西岸の空也上人大般若経供養会の会場と、六波羅蜜寺の十一面観音菩薩参拝から始まった今回の巡礼は、白川金色院の大般若経と十一面観音さまの御前で終わることとなったのでした。願わくは、白山妙理大権現に順って、己れの進むべき道を一心に歩まんことを。白川から宇治川に戻り、夕暮の平等院門前を通って宇治駅へと向かいました。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝