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長岡観音堂・白山神社~浄蔵法師忌

 11月21日早朝、御嵩町長岡の白山神社に参拝し、東の谷から奥の長岡観音堂(極楽寺)へ。


伝教大師(最澄上人)五世の法孫・浄蔵法師が東国布教の旅の途次、御嵩の願興寺に泊まり、「東方長岡の地に桂の霊木あり、常に天人之に拠る」との夢告を受けて造った十一面観音菩薩さまが祀られています。開眼供養は延喜20年(920)。浄蔵法師は三善清行(きよつら)公の八男、12歳の時に宇多法皇の弟子となり得度受戒、その後、玄昭律師に付いて受法しており、「伝教大師五世の法孫」とは伝教大師~慈覚大師(円仁上人)~長意僧正~玄昭律師~浄蔵法師という法脈を指すのでしょう。浄蔵法師は康保元年(964)11月21日に京都東山の雲居寺で遷化されました。法師の遺徳を偲び、観音さまの御前で観音経と念仏をお唱えしました。


 観音堂から谷を北東へ遡上。


尾根に出ると作業道があり、西に進んで白山権現の祠に参拝しました。


麓の白山神社からも、藪化した参道が続いています。麓の白山神社(御旅所)は元々は長岡観音堂の境内にあったそうですが、明治の神仏分離の際に現在地に遷座したとのこと。白山権現は、十一面観音さまの垂迹身。神仏分離・廃仏毀釈の混乱の中で、観音さまも白山神社も守ろうとした当地の方々の厚い信仰心に思いを致し、般若心経と白山権現ご真言・ご宝号をお唱えしました。
 白山権現祠から少し西にも祠があり、傍らには三角点。


参拝して北側の藪の尾根を下ってゆくと、斜面に岩がありました。下から谷の響きが聞こえ、林道が見下ろせます。向かいの山には、色づいた樹々。岩上に正身端坐しました。


浄蔵法師は、亡くなる数日前から「悲しいかな、破戒の身をもって久しく信施を受く、罪の報いを念う毎に心神安らかならず、命終の期至り遁るる處なし」と弟子たちに語っています。そして11月21日酉の刻(17~19時頃)、西を向いて安坐合掌し、正念に念仏を称えつつ遷化されたのでした(「大法師浄蔵伝」)。比叡山横川をはじめ、熊野・大峰・葛木山・那智山、さらに白山など諸山で修行し、父・三善清行公の蘇生や平将門調伏などの様々な霊験で知られる浄蔵法師でありますが、死の苦しみに直面しての謙虚で正直な姿には、心を打たれます。
 「破戒の身をもって」の語は、浄蔵法師に二人の子があったことを指すのでしょう。法師の父・三善清行公は延喜14年(914)、参議として醍醐天皇に「意見十二箇条」を提出していますが、その中で僧侶の堕落を指摘し、本来、戒律を固く守り身を忘れて他を利すべき僧侶の多くが、戒律を守らず、妻子を蓄え室家を営み、田を耕し商売を行っている有り様では、み仏との感応道交など望むべくもないこと、さらに、課役や租税を逃れる為に自ら髪を落として法衣を着ける者が増えており、彼らは家に妻子を蓄え口に魚や肉を食らい、姿は沙門のようでも心は屠児のようだ、と厳しく非難しています。「およそ顕密・悉曇・管絃・天文・易道・卜筮・教化・医道・修験・陀羅尼・音曲・文章・芸能、悉くにもて抜萃たり」(「拾遺往生伝」)という多才なエリート僧であった浄蔵法師が、後年、妻子を蓄えることになろうとは、父・善相公も思っていなかったことでしょう。そして、死に直面した法師は、自分の罪の報いを念う毎に心は不安で一杯である、と述べているのです。法師でさえそうなのですから、私の如き煩悩深く業の重い者の受ける報いは、言うまでもありません。法師は阿弥陀仏にすべてを委ね、「正念乱れず西に向かって遷化」されたのでした(「拾遺往生伝」)。
 法師の子供たちは、一人は出家し、才芸・修験に秀でていたようですが、奥州で若死にしたそうです。もう一人は幼少期から宮中に仕え、成人して大江朝臣の養子となったそうです。私は、浄蔵法師の加持祈祷の超人的な霊験などよりも、法師がしばしば人間的な苦しみや恥を受け、悩んだり悲しんだりしていることにこそ魅力と親しみを感じます。法師の父・三善清行公は延喜18年12月(919年1月)に亡くなっていますが、熊野参詣中に父の訃報を聞いた法師は、急ぎ帰京し、一条戻橋で葬列に会ったのでした。嘆き悲しみつつ法師が加持すると、父は蘇生してわが子を拝み、遺言をして数日の後、西を向き念仏しながら亡くなったそうです(「日本高僧伝要文」他)。清行公は、心肺停止状態だったのかもしれません。法師が長岡で十一面観音菩薩を彫ったのは延喜20年(920)ですから、父の一周忌の後に東山道布教の旅に出たのでしょう。
 岩から山腹の藪を下って谷に降り、林道を横切って向かいの山に登ると、さらに巨大な岩場がありました。



岩場を登り、尾根を北東へ。ジュラシックなシダ藪などを進んでゆくと、左下に池が見下ろせました。池畔に降りると、水面に色づいた樹々が映えていました。


尾根の藪をさらに進んでゆくと林道に出、北東に進んだ後、南側へ尾根の藪や作業道を放浪徘徊。山上の白山権現祠に戻るつもりでおりましたが、曲がりくねった作業道はいくつも分岐しており、迷路のよう。意を決して、観音堂に下るべく西側の谷へ下ってみると、谷沿いに踏み跡が現われました。配水池を経て無事に長岡観音堂到着。


さんざん迷わせて我を砕いてから道を示す、観音さま。ちっぽけな我は砕け散り、そこにあったのは、広大無辺なみ心だけでありました。


十一面観音さまの御前で般若心経と念仏をお唱えし、浄蔵法師に倣い、観音力に、妙理に、名づけようのない広大無辺なみ心に、順って生きる決意を新たにしました。

きいたならいちやはこもれながをかに
ゆめのおつげにおもいしらせん
(長岡観音堂の御詠歌)

 帰路、願興寺に参拝し、東国布教の旅の途次、此処に布施屋を開いた伝教大師と、その一世紀後、大師の跡を辿って東山道を下り、長岡に十一面観音さまを残してくださった浄蔵法師に掌を合わせました。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝