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宇多院~権現山~武芸八幡放浪

 11月21日は浄蔵法師の命日でありましたが、法師は12才の時(延喜2年(902))、京の松尾社から出た際に宇多法皇の御幸に遭遇し、法皇の弟子となって得度受戒、その後、比叡山清涼坊・玄昭(玄照)律師に師事して16才の時に受法しています。宇多天皇は仁和3年(887)21才で即位し、菅原道真公を登用された方ですが、寛平9年(897)には13才の醍醐天皇に譲位して上皇となり、昌泰2年(899)に東寺・益信僧正より受戒して歴代初の法皇となられたのでした。
 美濃には、宇多法皇が御幸されたという伝承が各地にあります。そのルートは、養老の滝から池田町片山を経て岐阜市犬塚~御望~安食~彦坂~粟野~山県市高富天王~深瀬~十王~御鉾~椎倉~宇多坂~関市武芸川町宇多院~武芸八幡~美濃市大矢田の喪山~御嵩町恵観寺(廃寺)であったようです(「宇多天皇と武芸川町」)。時期は、椎倉の牛臥神社には延喜年間とあり、また、法皇と供奉の人々を祀ったという池田町の十八社神社は、延喜10年(910)創建と伝えられています。
 11月26日朝、宇多法皇の跡を辿って椎倉の牛臥神社に参拝。


祭神は宇多天皇。法皇が御幸の際、宇多坂の登りで牛車の牛がくたばって臥してしまったそうです。この辺りの坂は勾配はさほどキツくはありませんが、牛さんも長旅で疲れてしまったのでしょう。牛臥神社から宇多坂へ、山あいの田園を歩いてゆきました。


 山県市と岐阜市境の少し手前で、山中を北側に上る古道へ。宇多坂です。


道には処々藪や倒木があるものの、しっかりと残っており、やがて峠に出ました。峠にはお地蔵さまや行者の行法の碑(心経二萬遍、西国三十三ヶ所、四国八十八ヶ所、光明真言二萬遍、念佛十萬遍!)、日本秘密大日尊の碑が建っています。いずれも江戸時代のもののようです。


此処を、宇多法皇もお通りになったのでした。心経と光明真言、念仏をお唱えしました。
 峠からさらに古道を進んで、宇多院に下りました。三十三観音の石像を経て白山神社に参拝。


三十三観音を戻り、峠を越えて東へ。


この辺りは木入戸と呼ばれ、宇多院村(当時は野村)の村人が法皇を出迎えた処だそうです。その先の辺りは、御幸と呼ばれています(「宇多天皇と武芸川町」)。やがて日吉神社に到着。


当時、神社境内には別当寺である真言宗・阿弥陀寺があり、法皇も参拝されたそうです。「武芸川町史」によれば、法皇は御幸中に当村で崩御され、法皇御神像を阿弥陀寺に祀ったそうですが、中世、阿弥陀寺は焼失してしまい、ご本尊(阿弥陀さま)とご神像は日吉神社に安置されました。明治の神仏分離で阿弥陀寺は廃寺となり、ご本尊は美山の三光寺に移されたそうです。
 続いて、清瀬神社に参拝。祭神は大碓命。日本武尊の兄です。宇多法皇は、村人から贈られた小麦粉の蒸し物をお喜びになり、まず清瀬明神に捧げられたとのこと。神社と隣の寺の裏には池があり、紅葉が見事でした。


清瀬神社から南東に歩を進め、盥(たらい)社へ。地元では「おたしろさま」と呼ばれているそうです。此処は宇多法皇の御廟所と伝わり、「定省命の御陵」「定見塚」と呼ばれてきました。定省(さだみ)とは宇多法皇の諱で、即位前、臣籍に下っていた法皇は源定省と称していました。法皇の崩御は承平元年(931)なので、延喜年間の美濃御幸中は生きておられたと思われますが、当地に法皇が祀られてきたことは事実です。盥社から北に、白山権現を祀った権現山を遥拝しました。


 宇多法皇は、宇多院村から武芸八幡へと向かわれたようです。川沿いに進み、川を渡ったものと思われますが、私はちょいと寄り道させていただき、山伝いに武芸八幡へと向かうことにしました。武儀川を渡って小知野の白山神社御旅所に参拝し、権現山へ。途中、落洞古墳に掌を合わせ、登山道を一心に駈け登ってゆきました。北に権現山、東に天王山を遥拝。


一時間弱で登頂し、山上の白山権現ご宝前で般若心経と白山権現ご真言・ご宝号をお唱えしました。東の鉄塔からは、北に雪に輝く白山三所権現が拝めました。


御前峰と別山の奥に、大汝峰。別山もようやく真っ白になりました。白山と対面して鉄塔下に正身端坐。白山の向かって右脇には箭筈山(タカネ)と高賀山、左脇には蕪山と滝波山。


さらに左側には大洞、三尾山、北山、相戸岳。


相戸岳と北山の間の谷の奥にある戸立岩は、大碓命が東国征伐を拒否して隠れた、と伝わる処です。先程参拝した清瀬神社の祭神は、大碓命でした。これから向かうはずの武芸八幡宮も、白山を開いた泰澄大師が大碓命を祀って創建した社です。弟の日本武尊に比べて小心者と見なされがちな大碓命ですが、本来皇位継承者でありながら、東征を拒否して地方に下り、当地域(武儀郡、武芸川)の地名の由来となったムゲツ氏等の祖となり、美濃の発展の礎を築いた命を、泰澄大師は正しく評価していたようです。そして、武芸八幡に御幸された宇多法皇も、大碓命と泰澄大師の伝承に感銘を受けて別当神宮寺(大聖寺)に随従の臣を留め置かれたのでした。31才の若さで譲位した法皇は、大碓命の生き方に共感する部分があったのでしょうか。此処から見渡せる辺り一帯は、大碓命が治めた地です。そして、その奥に白く輝く、白山。白山の光明を、余分なモノを一切捨て、ただ素直に反映してまいりたいものです。
 正午すぎに下山し、登山道から南の尾根へ、薄い藪を直進。岩の上から南に宇多院が見下ろせました。


峠を横切りましたが、お地蔵さまが倒木に倒されていました。起こして土を払い、お参りしました。


さらに尾根を縦走し、武芸八幡へと下る尾根に曲がる予定でした。数年前に歩いた尾根なのですが・・・道を忘れてしまい、藪や沢を徘徊。アレコレ考えず、何があろうと迷わず尾根を南下することに意を決して下ってゆくと、下に武芸八幡宮の長い参道が見えてきました。


15時に八幡宮に参拝。


大碓命・泰澄大師・宇多法皇を拝みました。広大な境内には「八幡山神宮寺別当大聖寺遺蹟」の碑もあり、八幡神本地・阿弥陀如来の名号をお称えして宇多法皇と当地の方々に回向しました。


法皇は東寺の益信僧正より受戒し受法した後、延暦寺に度々御幸して増命僧正からも受戒・受法しています。法皇が開いた仁和寺の初代別当は延暦寺の幽仙律師であり、法皇は一宗一派に偏らない仏法の興隆を望んでおられたのかもしれません。
 武芸八幡から武儀川を渡り、宝見(たからみ)神社に参拝。美濃国神名帳記載の古社のようです(「武芸川町史」)。社の後ろには岩山が聳え立っており、宇多法皇もこの岩と社を拝んだことでしょう。


16時前に盥社に戻り、権現山を背後に、宇多法皇御廟に掌を合わせました。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝