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蒲生野~赤神山~押立神社放浪1

 先週は、白山三所権現(御前峰・別山・大汝峰)のうち最も北に鎮座する大汝峰の垂迹神・大己貴命を祀る能登・氣多大社と越中・氣多神社を巡拝しました。今回は、南に鎮座する別山の垂迹神・天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)を祀る霊峰詣でに、東近江に行ってきました。
 1月15日朝8時半、東近江・布施山南麓より綿向山や雨乞岳を遥拝。


玉緒神社に参拝しました。


かつては玉尾神社と称し、主祭神は素戔嗚尊(スサノヲノミコト)。大宝年間(701~704)の勧請と伝わるそうです。西に面した社殿の向かいには雪野山、その手前には古墳、背後に比良の山並。


神社の北に鎮座する願成寺は聖徳太子が開かれ、江戸時代前期に三栄本秀禅師が中興されました。


三栄本秀和尚は三河・香嵐渓の香積寺の住職として紅葉を植えたことで知られていますが、後に東近江・川合の願成寺や、佐久良川を隔てて南にある大塚の妙厳寺に住しています。法友(禅友)・鈴木正三和尚の言行録「驢鞍橋」や正三和尚の弟子たちの記録には、本秀和尚のことが度々記されています。鈴木正三和尚の遷化後、弟子の雲歩和尚が寛文元年(1661)に師の遺稿を刊行した「因果物語」に、本秀和尚より聞いたという次のような話があります。

 近江の大塚に、白山の山伏が還俗して善左衛門と称し、兄の子を養子にして寛永9年(1632)頃に亡くなった。江戸に奉公していた兄も帰郷して程なく亡くなった。養子は家を継ぎながら善左衛門を弔うこともなく、無道心であったが、やがてやせ衰え病者となってしまった。正保2年(1645)、善左衛門の兄の嫁が突然口走って言うには、
「わしが譲った家財農具を全部返しなさい。お前がやせ衰えたのも、わしを弔わぬ故に餓鬼の業を授けたのじゃ。鋤鍬小桶、衣類紙子、・・・等々、返せ返せ!」
養子はぶったまげて、本秀和尚に頼んで善左衛門を弔うことにした。和尚が寺で読経している時分、善左衛門の兄嫁が口走るには、
「茶菓子を用意して寺へ行きなさい。わしも跡からついていこう。」
以来、養子の病はよくなり、全快した。

 玉緒神社・願成寺から、西に見える大きな古墳へ。この周辺には古墳がいくつもあり、木村古墳群と呼ばれています。現存するのは二基。天乞山古墳。


古墳上からは東に玉緒神社、背後に鈴鹿の山並。


西に久保田山古墳。


埴輪などの特徴からどちらも五世紀前半に築造されたようです。背後の雪野山の頂にも古墳があり、四世紀前半のものだそうです。古墳から西に歩を進め、柳宮神社に参拝。明治の神仏分離までは大梵天王社と称し、古墳群の東の玉緒神社と同じく素戔嗚尊を祀り、大宝年間(701~704)の創祀。聖徳太子が仏像を彫られた際、この地にあった池でノミを研がれたと伝わるそうです。境内には宝篋印塔もあり、牛頭天王および聖徳太子ご宝号と、宝篋印陀羅尼をお唱えしました。


 高速道路をくぐり、北へ。


この辺り一帯はかつて蒲生野(がもうの)と呼ばれていました。「日本書紀」によれば、天智天皇の6年(667)に都を大津に遷された天智天皇は、翌7年(668)5月5日、蒲生野で狩猟をしています。

「時に、大皇弟(ひつぎのみこ)・諸王(おほきみたち)・内臣(うちつまへつきみ)及び群臣(まへつきみたち)、皆悉くに従(おほみとも)なり。」

大皇弟とは、天皇の弟で皇太子の大海人皇子(おおあまのみこ)、後の天武天皇。蒲生野は今は広大な田園地帯となっていますが、この地を歩いていると、自ずと蒲生野での額田王(ぬかたのおおきみ)の歌が心に浮かびます。

あかねさす 紫野ゆき標野(しめの)ゆき
野守は見ずや 君が袖ふる

 布施山の裾から北へ出ると、小脇山~箕作山(みつくりやま)~赤神山(あかがみやま)と続く山並と、雪に一際白い霊仙山が見えてきました。


10時、羽田の徳昌寺に掌を合わせました。鈴木正三和尚の弟子・恵中和尚の「庵主問答」に、愚谷という和尚が六十歳頃になって道心を発し、寺を捨てて行脚の身となり、三河で正三和尚・本秀和尚と共に仏道を行じたことが記されています。そして、本秀和尚が近江・川井村(川合)の願成寺に移ると、愚谷和尚も隣村のハ子ダ村(羽田)の徳昌寺に居し、互いに仏道を行じられたとのこと。
 徳昌寺の少し西には羽田神社があり、祭神はまたしても素戔嗚尊、および大国主神(大己貴命)。


今朝から順拝してきた三社は、いずれも須佐之男命と出雲系の神々を主に祀る社です。神社の裏山は華岳山(はなおかやま)と称し、山上から赤神山と霊仙山を遥拝。


山腹には役行者を祀るお堂もありました。羽田から東へ行道。白銀の霊仙山。


赤神山(太郎坊山)は天照大御神の太子・天忍穂耳尊を祀る山。霊仙山は、泰澄大師が山頂に盧遮那仏を祀って霊山寺を開かれた山。11時に市辺の若宮神社(祭神・天照大御神)、薬師堂、法徳寺と順拝、法徳寺門前の見覚えのある書体の名号碑に、思わず掌を合わせお念仏。


徳本上人の名号碑です。日本各地に独特の書体の名号碑を建てた徳本上人。昨年(2018)9月に摂津の箕面で、11月には越後の能生で思いがけず上人の名号碑を拝みました。壮麗な宝篋印塔を九州および東海各地に起てた豪潮律師と同時代の念仏行者・徳本上人は、文政元年(1818)に遷化されましたが、上人の名号碑は今なお、到る処で浄土への道を示し続けているのでした。
 若宮神社の東には、市辺忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の墓所。


天智天皇や聖徳太子よりもずっと昔、大長谷王(おおはつせのみこ、後の雄略天皇)がいとこの市辺忍歯王を連れてこの地で馬に乗っていた時、市辺忍歯王を射殺して切り、土に埋めたのでした。雄略天皇は長谷(泊瀬)の朝倉宮を都とし、万葉集巻頭の歌を詠まれた方であります。


(泊瀬朝倉宮跡と伝わる、桜井市黒崎の白山神社、2014.7)

籠(こ)もよ み籠もち ふくしもよ みぶくしもち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾こそをれ しきなべて 吾こそませ 我こそは 告らめ 家をも名をも

光あれば、必ず影もあるものです。
(続く)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝