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若狭国富巡礼~羽賀寺・天ヶ城山他

 12月5日朝、若狭小浜の道の駅から霧の中を30分程歩いて若狭国分寺に参拝。


天平13年(741)、聖武天皇の発願によって各国に建てられた国営寺院の一つです。境内には、かつて建っていた塔の跡がありました。


七重塔が建っていたことでしょう。延喜14年(914)、参議・三善清行が醍醐天皇に出した「意見十二箇条」の第一、「水害・干害をなくし豊穣を求むべきこと」の中に、「国分寺の僧は破戒無慚の徒で、妻子を蓄え家庭を営み、耕田に努め商売を行っている。にもかかわらず、国司は先例に従って彼らに祈念をさせ、み仏の感応を望んでいる。譬えるならば、木の上に魚を求め、かまどの中に花を採ろうとするようなものだ」とあり、まず国分寺の僧を指導する師僧がしっかりと戒律を守り、身を忘れて他を利すべきことを提言しています。この提言は、現代の僧侶にも当てはまるでしょう。
 国分寺から遠敷川を渡り、若狭姫神社へと向かいました。


和銅7年(714)に泰澄大師の弟子・沙門滑元が開いた神願寺(神宮寺)の鎮守二社の下社で、養老5年(721)の創建、本地仏は千手観音菩薩。上社(若狭彦神社)と共に若狭国一の宮です。


若狭姫神社から旧丹後街道の町並を進んでゆき、検見坂へ。天暦元年(947)8月下旬、羽賀寺の谷から青龍が出て海に入り、豪雨で山が崩れて寺が埋没してしまいました。翌天暦2年、京都東山・雲居寺の浄蔵法師(三善清行の八男)が夢告を受けて遠敷へとやって来ました。法師がこの坂から北に瑞気の昇る山を望見したので、気見坂(検見坂)と名づけられたそうです(「本浄山羽賀寺縁起」)。「大法師浄蔵伝」によれば浄蔵法師は天暦4年(950)に東山の八坂寺(法観寺)に住しており、康保元年(964)、亡くなる一月前に東山雲居寺に入って遷化されています。法師は雲居寺を「我が終焉の地」と弟子たちに述べており、おそらく天暦元年頃には、八坂東院と呼ばれていた雲居寺に住していたのでしょう。
 今朝は霧で何も見えません。高台の秋葉神社に登り、朝日を拝みました。


秋葉神社から神通寺に下り、天龍神社を経て検見坂に戻りました。検見坂を下って北へ。JRの踏切を渡り、北川の手前に至ると、ようやく霧が晴れて北の山並が姿を現わしました。


橋を渡って高塚、栗田と山裾を北上。浄蔵法師も、この辺りを歩いたのでしょうか。お猿さんがいました。南には多田ヶ岳を遥拝。


やがて、高速道路国富トンネル出口の高架下をくぐりました。元正天皇の霊亀2年(716)、羽賀寺開山の際、天皇の「国を富まさんと願う」との勅によってこの地は国富(くにとみ)庄と名づけられたそうです(「本浄山羽賀寺縁起」)。9時半に次吉の一言神社に参拝。


祭神の一言主神は葛城の神さまですが、役行者が吉野金峯山と葛城山の間に石橋を架けようとした時に夜中しか協力しなかった為、行者からひどいパワハラを受けました。根に持った一言主神は天皇に讒言をし、役行者は伊豆に流されました。後に赦された役行者は一言主神を呪縛し、葛城山(吉野山)の谷底に転がしたのでした。泰澄大師が一言主神の縛を加持して解き放ったものの、たちまち行者の怒声が響き渡り、一言主神は再び呪縛されてしまったそうです(「本朝神仙伝」)。次吉一言神社の本地仏は聖観音菩薩。観音さまと一言主神、泰澄大師を拝みました。
 次吉から、天ヶ城山麓の羽賀へと向かいました。


羽賀寺参道入口にある羽賀宮神社に参拝。神仏分離までは羽賀姫明神と称し、本地は十一面観音菩薩。天暦3年(949)に羽賀寺の鎮守として勧請されたそうです。10時前に羽賀寺に到着。霧で湿った桧皮葺の屋根から、湯気が昇っていました。


霊亀2年(716)、背後の山の頂に鳳凰が飛来し、羽毛二枚を残して去りました。国司がこの羽を元正天皇に献上すると、天皇は行基菩薩に勅して寺を建てさせ、山号を鳳聚山、寺号を羽賀寺と名づけました。行基菩薩が彫ったご本尊・十一面観音菩薩は、元正天皇の御影と伝えられています。また、寺の鎮守として熊野五所王子を勧請しました。その後、天暦元年(947)の豪雨で山が崩れて寺が埋没し、翌年、浄蔵法師が京から遠敷へと向かったことは先に述べました。法師は検見坂から羽賀寺に至り、泥の中からご本尊を掘り出すことに成功しました。そして寺の復興に尽力し、天暦3年(949)、羽賀寺は再興されたのでした(「本浄山羽賀寺縁起」)。鎮守の羽賀姫明神も、この時に再興されたのでしょう。熊野五所王子の筆頭・若一王子(にゃくいちおうじ)権現(若女一王子)の本地は十一面観音さまです。羽賀姫明神とは若一王子(若女一王子)であり、十一面観音菩薩に他なりません。
 観音経と十一面観音菩薩ご真言を誦した後、ご本尊を拝観させていただきました。優しく麗しい、十一面観音さまです。元正天皇は養老6年(722)に病となりましたが、越の大徳(泰澄大師)の加持により回復され、大徳に神融禅師の号を授けています(「泰澄和尚伝記」)。堂内には、観音経に説かれる観音さまの三十三の変化身も祀られていました。男の姿もあれば女の姿もあり、老人もいれば若者もおり、商人、官人、僧、異教徒、武神、鳥神、仏・・・実に様々な姿の像です。これらは皆、観音さまが相手に応じて現われたお姿で、どれも観音さまに他なりません。天台智者大師の「摩訶止観」に、「今時の人、仏を見れども心に法門なきは、みな仏にあらざるなり。...如来の示現が自在無礙なるに、なんぞ必ずしも一向に丈光の形をなさん。丈光の形は端正の人に示同するのみ。...師僧・父母・鹿馬・猿猴、一切の色像が、見ることを得る時にしたがって法門とともに発し、またよく本の善根を増長するを、すなわち念仏三昧と名づく。」とあります。仏さまとは、後光の射したお姿で立っておられるばかりではありません。生きとし生けるものを救うために、ありとあらゆる姿で示現して私たちを導いてくださるのが、仏さまでありましょう。麗しい十一面観音さまのお姿に、三十三の化身、無量無数の化身のお姿を同時に拝みました。
 羽賀寺から、天ヶ城山へと急峻な山道を登ってゆきました。11時前登頂。山頂には天ヶ城の城跡があり、南西に小浜湾が見下ろせました。


東側へ尾根が続いており、紅葉の残る山道を、左手の樹間に久須夜ヶ岳や若狭湾を拝みつつ縦走。282m三角点を経てさらに進むと、下に林道が現われ、崖から北に阿納の港と若狭湾が見渡せました。


藪を下って正午前に林道に着地。林道を下ってゆくと久須夜ヶ岳が遥拝でき、忠魂碑を経て阿納尻の白山神社に参拝。


近くには二宮金次郎の像が立つ古い建物。昔の校舎のようです。


阿納尻の海岸から、小浜湾の向こうに久須夜ヶ岳を拝みました。


 阿納尻から海沿いに甲ヶ崎を経て西津福谷まで進むと、「天ヶ城登り口」と書かれた消えかかった標識がありました。山裾から尾根に取りつくと、鹿がいました。やがて公園からの山道と合流、右手に国富庄を見下ろし、南には多田ヶ岳を遥拝。


14時に天ヶ城再登頂、羽賀寺へと駈け下って般若心経を読誦。観音さまは、無相であればこそ無量の相をとることができます。すべてのものに、観音さまの現われを拝みました。


 羽賀寺から山裾を歩き、奈胡の阿奈志神社へ。神仏分離までは山王権現と称し、天暦元年の羽賀寺埋没の後、羽賀寺再興の際に此処に遷座されて国富荘四ヶ村の惣社となったそうです。羽賀寺を再興した浄蔵法師は比叡山の僧であり、比叡山の鎮守・日吉山王権現を国富荘最奥の此処に祀って、国富の守り神としたのでしょう。神社参道の入口辺りに姫宮神社があり、羽賀の羽賀姫明神とは姉妹神だそうです。羽賀姫明神の本地は十一面観音菩薩、おそらく熊野若一王子権現と思われますが、山王七社のうちの客人宮も本地は十一面観音菩薩です。客人宮は、十一面観音菩薩を本地とする白山権現が山王信仰に取り入れられたものに他なりません。山王権現の入口に鎮座する奈胡の姫明神は、客人権現、即ち白山権現であるのかもしれません。阿奈志神社に参拝し、境内の清掃をしておられたおばあさんにご挨拶しました。


 天暦元年(947)に羽賀寺が豪雨による山崩れで埋まった時、谷から青龍が出て海に入った、と「本浄山羽賀寺縁起」にあります。羽賀寺を再興した浄蔵法師も、かつて青龍を見たことがあるのでした。延喜9年(909)、左大臣・藤原時平が病に倒れましたが、時平と長年の付き合いがあった比叡山の相応和尚は、加持を丁寧にやりませんでした。理由は、時平は右大臣・菅原道真を讒言して大宰府に左遷させた張本人であり、相応和尚は道真公の怨霊を恐れていたのでした。他の僧の加持も益なく、19才の浄蔵法師に白羽の矢が立てられました(相応和尚らの尻ぬぐいをさせられたのでしょう)。法師の父は、かつて道真公に右大臣辞職を勧めた三善清行です。法師が加持を始めると、時平の両耳から菅公の霊が青龍となって出現し、清行公に向かって、浄蔵の加持をやめさせよ、と告げました。法師が加持をやめると、時平公は39才にしてなくなったのでした。加持を途中でやめたことで、法師は得度の師である宇多法皇から勘当され、その後三年間、比叡山横川に蟄居しています。翌延喜10年、宇多法皇の更衣(こうい)であった藤原時平の娘も病に臥し、法皇の召喚を受けた法師は蟄居中であるので固辞しましたが、やむをえず参上することとなりました。すると、法師が到着する前に護法善神が来て怨霊を呪縛し、更衣の病は平癒してしまいました。法師が到着すると、法皇は法師を礼拝したとのことです(「大法師浄蔵伝」)。それから約40年後、若狭の羽賀寺に青龍が出て豪雨で寺が土砂に埋まったと聞き、法師は寺と被災地復興を発願したのでしょう。泥の中から見つかった麗しい十一面観音さまは、当地復興のシンボルとなったはずです。
 奈胡から、江古川上流の熊野へ。江古川は熊野川と名を変え、15時頃、谷の奥へと歩を進めると、ビオトープがありました。ビオトープとは、有機的に結びついた生物群集(植物、動物、微生物など)の生息空間のことです。国富地区は、昭和32年(1957)にコウノトリの成鳥3羽と雛3羽が発見され、昭和41年(1966)まで生息していた、国内最後の野生コウノトリの生誕地だそうです。10年程前からコウノトリが再び生息できる環境・生態系の保全・復元に取り組んでおり、人工巣で生まれたコウノトリが時々飛来しているそうです(12月3日には、岐阜市にも豊岡の人工巣で生まれたコウノトリが飛来しました)。
 ビオトープからさらに奥へ進むと、涼しい谷奥に社殿が現われました。


熊野神社です。熊野若一王子権現が祀られ、本地は十一面観音菩薩。柏手を打って般若心経と十一面観音菩薩ご真言をお唱えし、豊富な生物群が共生できる国土の復興を祈願しました。国富は、十一面観音さまの里でもあるようです。十一面観音さまは、熊野・若一王子権現としても、山王・客人権現としても現われ、あるいは白山妙理権現としても阿蘇山権現としても現われ、あるいは鳳凰となりコウノトリとなり、私たちを導いて下さっているのでした。コウノトリは、当地の生態系復興のシンボルです。
 熊野神社からビオトープに戻ると、鷺がいました。


かつて、国富の山上に飛来したという鳳凰。コウノトリも再び営巣し、豊かな生態系、豊かな景観がよみがえるかもしれません。16時、熊野から南へ、小浜の道の駅方面へと田園の中を歩いてゆき、振り返って国富の里と十一面観音さまの山々を拝みました。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝