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武芸八幡~天王山~権現山放浪

 先月、宇多法皇の美濃御幸の跡を辿って宇多坂から武芸八幡宮まで巡礼しましたが、法皇は武芸八幡宮から大矢田の喪山へ御幸されています。引き続き、法皇の足跡を辿ることにしました。
 18日朝7時前、武芸八幡宮に参拝。織田信長建立の下馬標から随神門をくぐり、神宮寺であった大聖寺跡にお参りして長い参道を北へ。武芸八幡宮は養老元年(717)、泰澄大師が大碓命を祀って創建。延喜年中(901~923)に美濃御幸をされたと伝わる宇多法皇は、武芸八幡宮別当・大聖寺(真言宗)に随従の臣を留め置かれたそうです。拝殿にて八幡大菩薩(本地阿弥陀如来)と泰澄大師・宇多法皇に参拝。明治の神仏分離で廃寺とされた大聖寺の唯一の名残の鐘楼を経て、さらに奥へと続く林道を登ってゆきました。
 八幡宮から東へ進んでゆけば、喪山に着くはずです。林道は尾根を挟んで分岐しており、右へ進んでみました。藪化した林道を進んでゆきましたが、やがて林道は尾根の手前で行き止まりに。方位磁石で方角を確かめようとしましたが、気泡が入ってうまく動きません。尾根は左手が上、右手が下。試しに右手に下ってみると、眼下に随神門が見えました。東ではなく、南に進んできたことになります。方角が分かったので尾根を北上、右下に寄り道をして御嵩神社に参拝。8時前に229mピークの鉄塔着。北西の雲海上に、権現山方面への尾根が見渡せました。


鉄塔から尾根を北へ下ると、ようやく八幡宮から大矢田への峠道に出ました。


宇多法皇は、おそらくこの道を通ったことでしょう。東へ緩やかに下ってゆくと、山あいの田園に出ました。


宇多坂手前の長閑な田園風景に似ています。東へ進んでゆき、下ってきた鉄塔や峠を振り返りました。


 8時半すぎに喪山着。


古事記によれば、高天原の天照大御神は、息子の天忍穂耳命を豊葦原の水穂国を治めさせるべく降しましたが、天忍穂耳命は戻ってきて水穂国は荒振る神が多いことを報告しました。天照大御神は荒振る神を平定する為、天菩比神を遣わしましたが、水穂国の大国主神(大穴牟遅(おおなむち)神)に従ってしまい、戻ってきませんでした。次いで天若日子を遣わしましたが、同様でした。そこで鳴女(なきめ)という名の雉を遣わすと、天若日子に射殺されてしまいました。その矢は高天原に至り、高木神が矢を衝き返すと、天若日子は胸を貫かれて死んでしまいました。彼の両親や兄弟姉妹は泣き悲しみ、降って喪屋を作り、彼を弔いました。天若日子の友で、容姿の似ていた阿遅志貴高日子根神が弔問に来ると、天若日子の両親は我が子がよみがえったと勘違いしてしまいました。阿遅志貴高日子根神は怒り、喪屋を切り伏せ蹴飛ばしました。飛んできた喪屋が、この喪山だと伝えられているのです。喪山天神社に参拝し、神々と宇多法皇を拝みました。
 喪山から北へ進み、御嶽神社に参拝。小高い丘の上には沢山の石碑があり、様々な神名が記されてあります。富士浅間大神、駒嶽大神、日本武命等々。不動明王も祀られていました。


様々な神名、特に修験の山々の神名に、円空上人が再興した弥勒寺に残る「諸神唱礼文」を思い起こしました。円空上人が唱えていたというその唱礼文には、十方の天神、記紀の神々に続いて、八幡大菩薩、春日大明神、富士浅間大菩薩、筑波権現、日光権現、・・・立山権現、駒嶽権現、御嶽権現、乗鞍権現、白山権現、伊福権現、愛宕権現、・・・阿蘇山権現等、神仏習合の神々の名が記されています。御嶽神社社殿にて般若心経と蔵王権現ご真言をお唱えしました。
 御嶽神社からさらに北上し、9時すぎに大矢田神社御旅所に参拝。背後に天王山を遥拝しました。


大矢田神社は明治の神仏分離までは牛頭天王社と称し、養老2年(718)、泰澄大師が牛頭天王を祀って天王山禅定寺を開きました。牛頭天王は京都の感神院祇園社(現・八坂神社)の祭神として知られ、疫病神であると同時に疫病除けの神として拝まれてきました。本地仏は薬師如来。祇園祭や茅の輪くぐりは牛頭天王に由来しています。祇園社や熊野・白山等の神仏習合の寺社で配られていた牛王宝印のお札も、牛頭天王に由来するようです。白山美濃馬場の拠点・白山中宮長瀧寺も、中世は諸国を廻って檀那場を作り、そこで牛王札を配る独占的権益を持っていました。しかし、寛永年間(1624~44)末頃から遠州浜松の二諦坊と牛王札配札の権利をめぐって争論となり、承応年間(1652~54)まで訴訟が続いて全面敗訴、檀那場を失い経済基盤を失った長瀧寺は衰退し、一山組織は崩壊してしまったようです(山本義孝「白山長滝神鳩入峰と宿遺跡」(山岳信仰と考古学II))。ちょうどこの頃から美濃で活動を始めている円空上人は、白山を深く信仰し、白山本地・十一面観音菩薩の像には力作が多いのですが、白山や白山麓には上人の伝承も仏像もほとんどありません。長瀧寺の衰退と関係があるのでしょうか。少なくとも言えることは、円空上人は白山の「権益」などとは何の縁もなかった、ということです。
 天王神社、天王山祖霊社と巡拝し、大矢田神社へ。祖霊社は、元々あった天王山禅定寺(真言宗)の常泉坊と極楽坊が明治の神仏分離で廃寺とされ、檀徒は全戸、神道に改宗したとのことです。大矢田神社(牛頭天王社)に登る途中、天王山禅定寺・弘法大師堂の跡に参拝。


武芸八幡宮の別当・大聖寺は真言宗でしたが、牛頭天王社の別当・禅定寺も真言宗でありました。高賀山修験も真言宗であり、この地域は真言宗の修験者が多かったのでしょう。長瀧寺は治安元年(1021)に天台別院となったと伝わりますが、長瀧寺一山の阿名院は中世まで真言系であり、鳩居峰行者も真言系であったそうです(「白山長滝神鳩入峰と宿遺跡」)。中世には、寺院内部で宗派の違いがあるのは普通だったようです(伊藤正敏「寺社勢力の中世」)。堂跡にて般若心経と泰澄大師・弘法大師ご宝号をお唱えしました。
 大矢田神社の牛頭天王に参拝し、谷沿いの登山道を登ってゆきました。紅葉がまだ少し残っていました。


10時すぎに山頂部に出、北に高賀の山並を遥拝。天王山頂から南側に、百々ヶ峰の向こうに頭を覗かせる金華山(岐阜城)や、泰澄大師が蔵王権現を祀った芥見の権現山などを遥拝。


山頂から西へ下ってゆくと、正面にこれから縦走してゆく武芸川の権現山(白山権現)。


岩の上から北に高賀三山を拝み、虚空蔵菩薩ご真言をお唱えしました。


 落葉に覆われた山道を半道(はみち)方面へ下ってゆくと、11時前に半道の白山神社に降りました。


心経と白山三所権現ご真言・ご宝号、泰澄大師ご宝号をお唱えし、車道を少し北に歩いて西側の谷を登ってゆきました。


谷から右手の尾根に取りつき、縦走。東の樹間に、天王山から下ってきた尾根が一望できました。


牛頭天王を拝みました。尾根上は踏み跡はありますが、灌木が茂って倒木もあります。西に権現山と汾陽寺山を遥拝。正午前に権現山東の鉄塔に到着しました。
 先月は此処から白山を遥拝しましたが、今日は白山は雲隠れ。蕪山の左奥に、滝波山の山肌が雪に覆われているのが見えました。


鉄塔下に坐して観音経を読誦。泰澄大師は、白山頂御前峰に十一面観音菩薩を本地とし伊弉冊尊を垂迹身とする白山妙理権現、別山に聖観音菩薩・天忍穂耳尊である別山大行事、大汝峰に阿弥陀如来・大己貴(おおなむち)尊(大国主命)である大汝(越南知)権現を祀り、白山を神仏習合の山として開きました。また、近江の岩間山には千手観音菩薩、霊仙山頂の霊山寺には盧遮那仏を祀っています。そして美濃では天王山禅定寺に牛頭天王、武芸八幡宮に大碓命を祀るなど、白山のみならず各地に様々の神仏を祀り、神仏習合の寺社を開いています。神仏習合とは、ただ単に神さまと仏さまが融合したというだけでなく、もっと深い意味があると私は思います。多種多様な神さまは、時に喧嘩も殺し合いもします(古事記や日本書紀を見れば明らかなように)。仏さまとは覚った者のことですから、本来、仏さま同士で喧嘩をすることは考えられません(坊さん同士の喧嘩や殺し合いは、中世には沢山ありましたが)。神仏習合とは、神仏が融和するだけでなく、神々が、そして人間同士が融和する道でもあります。
 「白山妙理大権現」のご宝号をお唱えする時、私はそこに仏教の三諦の理を観ます。「白山」、真っ白に輝く山、それは「空」であり「無」です。「権現」とは仮の姿、相手に応じて現われた無量の姿・色相です。そして「妙理」とは、中道実相、色即是空・空即是色の理です。無相であればこそ、無量の相をとることができます。多様な神仏は一つです。無にして無量、無量にして無です。これは白山を師として順礼登拝を続けている狂僧の見地にすぎませんが、加賀の白山本宮の「大永神書」にも似たようなことは書いてあり、あながち間違いではないでしょう。来年は白山開山千三百年の年とされていますが、それは、泰澄大師が白山を神仏習合の霊地として開いて千三百年目であることをお忘れなく。日本の神仏習合信仰は世界に誇れるものであり、世界の神々・宗教間の対立の融和にも何らかの貢献ができるものと思います。
 権現山頂の白山神社に参拝。


神仏習合信仰の復権と興隆を祈願しました。明治維新は確かに日本の近代化に必要でしたが、明治時代にできた制度や慣習を、平成以降の世にも固守する必要はないでしょう。私は、元正天皇のような女性天皇がいて(いた方が)よいと思いますし、宇多天皇などのように天皇が譲位して上皇、あるいは法皇になったとしてもよいと思います。クリスチャンの法皇がいたってよいでしょう。伝統に倣いつつ、現代(近未来?)に合わせて制度を改良してゆけばよいのではないでしょうか。政治家先生方は、この件では穏便に済ませたがっているようですが、国民一人一人がもっと声を挙げた方がよいと思います。それが陛下のお気持ちではないでしょうか。国民投票ぐらいやってもいいのでは?
 権現山から、先月と同じく武芸八幡宮を目指して尾根を縦走。先月は、八幡宮参道の西の尾根から着陸しましたが、一つ東の尾根を下ってみました。権現山から一時間半程で八幡宮本殿の真後ろに降下。


時間があるので、宇多法皇御幸の迹を確かめるべく、再び林道を登ってゆきました。朝は右へ進んだ分岐を、左へ。しかし、進んでゆくと林道は終点、急峻な谷を上へ・・・。こんな処を法皇が通るはずはありません。大矢田への峠道とは、明らかに違います。尾根に出て南へ下ってゆくと、ようやく朝に通った峠に出ました。


一体、武芸八幡側のどこに通じているのだろう・・・その答えは、すぐに出ました。分岐している林道の真ん中の尾根に、道はあったのでした。まさに、中道の妙理。八幡宮へ下ってゆくと、谷の流れに西日が映えて煌めいていました。


八幡大菩薩、牛頭天王、白山権現、蔵王権現、熊野権現、阿蘇山権現、山王権現、春日明神、七福神、馬頭観音、マリア観音、十一面観音・・・すべての神仏は、一つのものの多様な現われ、波に応じた無量無数の反映です。15時に八幡宮にお参りし、八幡大菩薩本地・阿弥陀如来の名号をお称えしました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝