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蒲生野~赤神山~押立神社放浪2

 1月15日11時すぎ、東近江・市辺の市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)陵墓から舟岡山麓の阿賀神社へと行道。北には岩戸山~小脇山~箕作山(みつくりやま)~赤神山(あかがみやま)と連なる山並。


11時半に阿賀神社に参拝。


赤神山の太郎坊阿賀神社と同じく、阿賀神、即ち天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)を祀る社です。天忍穂耳尊の正式な名は、「古事記」によれば正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)。「太郎坊阿賀神社神拝祝詞」(大正15年発行)によれば、「阿賀」とは「吾勝」のことだそうです。天忍穂耳尊は、天照大御神の長男。天照大御神の弟・須佐之男命が父・伊弉諾尊(イザナギノミコト)に勘当され、高天の原の天照大御神の処に別れの挨拶に来たとき、武装して出迎えた天照大御神が左の角髪(みづら)に巻いていた数珠つなぎの勾玉を、須佐之男命がかみ砕いて吹き出した息(気吹、いぶき)から生まれた神さまです。
 阿賀神(あかがみ)さまにお参りして西側に出ると、北西に比良の山並。


天智天皇の7年(668)5月5日、この蒲生野で天智天皇が遊猟をした時、天皇の寵愛を受けていた額田王(ぬかたのおおきみ)と、天皇の弟で皇太子であった大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が詠んだという、万葉集の有名な歌。

あかねさす 紫野ゆき標野(しめの)ゆき
野守は見ずや 君が袖ふる (額田王)

紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば
人妻ゆえに われ恋ひめやも (皇太子)

大海人皇子と額田王はかつては愛し合い、一女をもうけた間柄なのでした。


 阿賀神社から舟岡山を登って下り、岩戸山へ。振り返って拝んだ舟岡山。


正午に岩戸山(十三仏)の登り口着。聖徳太子が箕作山に瓦屋寺を開いた際、岩戸山に金色の光を発する岩が見えたので、その岩まで登り、爪で十三体のみ仏を刻んだとのことです。大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来、観音さま、お地蔵さま、虚空蔵菩薩、不動明王・・・無数の仏菩薩を拝みつつ、上へ上へと登ってゆきました。


二十分ほどで巨岩の直下のお堂に参拝、上に祀られているのは役行者。


聖徳太子もおられます。


岩上からは南西に雪野山や蒲生野、彼方には比叡山を遥拝。


天智天皇一行は、前年(667)に遷都した新たな都・大津京から蒲生野に遊猟に来たのでした。


 岩戸山から小脇山へと縦走。「太郎坊阿賀神社神拝祝詞」(大正15年発行)によれば、天照大御神は吾勝命(あかちのみこと)即ち天忍穂耳尊をとても慈しまれ、日頃から脇の下に抱いていたそうで、「小脇」もそのことに由来するそうです。小脇山の頂からはすぐ東に天忍穂耳尊を祀る赤神山、彼方には雪を被った雨乞岳、綿向山、鈴鹿峠。


その先には、伊勢神宮が鎮座しているはず。さらに縦走し、13時前に箕作山登頂。雨が降ってきました。北に琵琶湖が望め、北東に白銀の霊仙山、その左奥には雲を被った伊吹山。


泰澄大師が山頂に盧遮那仏を祀ったという霊仙山の手前には、日本の父である伊弉諾尊を祀る多賀大社が鎮座しています。伊弉諾尊は日本の母・伊弉冊尊(イザナミノミコト)と共に日本の国土や様々な神さまを生みましたが、火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ、火の神)を生んだ時に伊弉冊尊は火傷をし、亡くなってしまったのでした。嘆き悲しんだ伊弉諾尊は火之迦具土神を斬り、黄泉の国まで亡き妻を追ってゆきましたが、見ないでと言われたにもかかわらず蛆にたかられた伊弉冊尊の姿を見てしまい、伊弉冊尊に追われつつ地上に逃げ戻り、黄泉比良坂(よもつひらさか)で妻と離別したのでした。伊弉冊尊は黄泉の国で黄泉津大神(ヨモツオオカミ)となり、一方の伊弉諾尊は筑紫の国で禊をした後、左目を洗った時に天照大御神、右目を洗った時に月読命、鼻を洗った時に建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)が生まれます。「古事記」によれば、伊弉冊尊がいる根の堅州国(黄泉の国)に行きたいと泣き続ける須佐之男命を勘当した伊弉諾尊は、その後
「淡海(あふみ)の多賀に坐(ま)すなり」
とあります。山上にて、伊弉諾尊~天照大御神~天忍穂耳尊と続く天孫の系譜と共に、白山から霊仙山まで続く泰澄大師の伝承に想いを馳せました。
 雨の中、赤神山目指して行道。


山頂に登って南に布施山や雪野山を見下ろし、今朝から歩いてきた蒲生野を一望。


北東には霊仙山。


岩上で勤行し、下山しました。山腹には、わずかに雪も見られました。太郎坊阿賀神社に下り、参拝。


「太郎坊阿賀神社神拝祝詞」によれば、当山に聖徳太子が山籠した際に阿賀霊神太郎坊大権現と奉称し、伝教大師(最澄上人)が山籠した際に廟社を建立し社坊・成願寺を開き、赤神山と号したとのこと。祭神・天忍穂耳尊については
「不屈不撓勝利福寿光栄の神様」
と記されています。赤神山の太郎坊大権現は、後に京都・愛宕山の大天狗・太郎坊と同一視されたようですが、元は天照大御神が慈しんだ長男・天忍穂耳尊を敬愛して「太郎坊」とお呼びしたのでしょう。
 天忍穂耳尊は、天照大御神より葦原の中つ国、即ち日本を治めるべき御子とされて高天の原から降ったものの、出雲を拠点に葦原の中つ国の国作りを進めていた大国主神(大己貴命)の勢力を見て、天の浮橋から高天の原に引き返します。大己貴命は須佐之男命の子孫であり、婿であり、根の堅州国(黄泉の国)で鍛えられた弟子でもありました。天忍穂耳尊の後に葦原の中つ国に遣わされた天菩比神(アメノホヒノカミ、天忍穂耳尊の弟)や天若日子(アメノワカヒコ)が大己貴命に従って戻ってこなかったように、社会の底辺から大国の主となった大己貴命には人を引き付ける人徳があったのでしょう。一方の天忍穂耳尊は、高貴な生まれの太子。記紀の記述からするとあまり表立った言動はされなかったようですが、名前に「忍」の字がある如く、「不屈不撓」のねばり強さをもった神さまです。後に大己貴命が天つ神への「国譲り」を受け入れ、母・天照大御神から葦原の中つ国に降臨するよう命じられた天忍穂耳尊は、自らは高天の原に留まり、息子の邇邇芸命(ニニギノミコト)を降臨させたのでした。
 太郎坊宮の石段を下り、麓の成願寺に参拝。山麓から見上げた赤神山と、小脇山。


低山ではありますが、その山容は越後・能生の霊峰・権現岳を思わせます。山裾を東へ歩き、14時に松尾神社に参拝しました。


宝暦5年(1755)に山城の松尾大社より大山咋神(オオヤマクイノカミ)を勧請したとのこと。「古事記」によれば、大山咋神は須佐之男命の子である大年神の子で、

「近つ淡海国の日枝の山(比叡山)に坐(ま)し、また葛野の松尾(まつのお)に坐して、鳴鏑を用(も)つ神」

と記されています。
 松尾神社から踏切を渡り、北東へと行道。雨は降ったり止んだり。神社から三十分ほどで愛知川(えちがわ)に架かる八千代橋に出ました。東に押立山など湖東三山背後の山並を遥拝。


西には赤神山と箕作山、さらに繖山(きぬがさやま)。


霊仙山を前方に見つつ歩を進め、押立神社を目指しました。目立った参道もなく道に迷いましたが、やがて学校の奥に大きな鳥居が遠望できました。15時半、押立神社に到着。


鳥居の奥の神さびた境内の光景に、心が洗われます。由緒によれば、押立山三瀬岳には上古より火産霊神(ホムスヒノカミ、火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ))が祀られ、また神護景雲元年(767)には白山権現(伊弉冊尊)が勧請され祀られていましたが、天元元年(978)に神異があり、当地に遷座されたとのこと。山上には本宮の跡があるそうです。神護景雲元年は、泰澄大師が越前の越知山(おちさん)で遷化された年です。「古事記」によれば、日本の母・伊弉冊尊は火之迦具土神を産んだ時の火傷が元で亡くなられ、黄泉の国で黄泉津大神となったのでした。伊弉諾尊と伊弉冊尊の間にできた最後の子である迦具土神は、妻の死を嘆き悲しむ伊弉諾尊によって首を斬られます。この母子を祀る押立神社は、亡き子と亡き妻を静かに偲ぶことのできる社です。



若ければ 道行き知らじ 賄(まひ)はせむ
黄泉(したべ)の使ひ 負ひて通らせ (山上億良)

 白山妙理大権現(本地・十一面観音菩薩)の垂迹神は伊弉諾尊と伊弉冊尊でありますが、神社によってはどちらか一方を祀り、両神の離婚調停に関わった巫女・菊理媛神(ククリヒメノカミ)が祀られていることもあります。白山妙理大権現を補佐するのが、小白山別山大行事権現(本地・聖観音菩薩)と大己貴権現(越南知権現、本地・阿弥陀如来)であり、別山大行事の垂迹は天忍穂耳尊、大己貴権現はその名の通り大己貴命(オオナムチノミコト)です。白山の開山伝承を伝える「泰澄和尚伝記(たいちょうかしょうでんき)」や「白山大鏡」を元に書かれ、白山三馬場(越前・加賀・美濃)に伝わっていた「白山禅頂御本地垂迹由来」によれば、別山大行事は

「我ハコレ伊弉冊尊ノ神武補佐ノ行事也」

と述べ、大己貴権現は

「我ハコレ伊弉諾尊ノ補弼」

と述べています。伊弉諾尊の孫で天照大御神の長男である天忍穂耳尊が伊弉冊尊を補佐し、伊弉冊尊(黄泉津大神)のおられる国に行きたいと泣き続けて伊弉諾尊から勘当された須佐之男命の子孫であり、婿でもある大己貴命が、伊弉諾尊を補佐する。葦原の中つ国の統治をめぐる最大のライバルであった天忍穂耳尊と大己貴命が共に日本の父と母を支えるという構図こそ、泰澄大師(神融禅師)による白山三所権現ご垂迹の深意でありましょう。


(三ノ峰より拝む白山三所権現、手前より別山(本地聖観音菩薩、垂迹天忍穂耳尊)・御前峰(本地十一面観音菩薩、垂迹伊弉諾尊伊弉冊尊)・大汝峰(本地阿弥陀如来、垂迹大己貴命)、2018.3)
拝殿にて勤行を修し、白山三所権現と迦具土神を供養しました。
 押立神社から押立山や霊仙山を遥拝しつつ、北西へ。


押立神社から歩いて四十分ほどで豊満神社(とよみつじんじゃ)に参拝。


此処も壮麗な社で、祭神は大国主神(大己貴命)を始めとする四柱。太郎坊阿賀神社の天忍穂耳尊も、豊満神社の大己貴命も、勝運の神として拝まれてきたようです。この両神に支えられた伊弉冊尊と伊弉諾尊の、対立と融和。わが国で初めて結婚し、初めて離婚した伊弉諾尊と伊弉冊尊は、日本人の元型として、私たちの意識下に生き続けておられるのです。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝