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涅槃会~釈尊の遺言

 2月15日の白山鳩居十宿中五宿の巡拝行は、二ノ宿から先、新雪にかんじきでも一歩ごとに足が取られ、四宿目の多和ノ宿までしか巡拝できませんでした。無雪期は厳しい藪、この時期は深い雪のこの尾根は、苦しいと思って一心に行道していると、思っていたほどの苦もなく案外無事に巡拝でき、逆に、今日は行けそうだ、と思って意気揚々と行道していると、思っていたほどはかどらず難渋することになります。白山権現の思し召しは、量りしれません。
 西山と毘沙門岳の鞍部の多和ノ宿跡は、1m以上の雪に埋もれていました。此処から美濃側へ、蓮原川へ下る雪の谷は、以前、無雪期に歩いたことがあります。1月17日、大雪後の鳩居宿巡拝行でも、雪降る中、かんじきで一歩ごとに膝まで沈むラッセルに苦しみ、二ノ宿までなんとか参拝して谷の雪を長滝側へと下ってゆきました。この厳しい藪と雪の行者尾根は、各宿(行場)の辺りにたいてい交差している古の峠道がエスケープルートとして使え、食料もケータイもリュックもカイロも持たぬ行者にとって、助かります。(無論、この山域を何度も歩き、迷い、谷や尾根が何処に通じているかを体で覚えている必要があります。)
 2月15日は、お釈迦さまが涅槃に入られた日。お釈迦さまを本地とする二ノ宿にて、御坊主洞を見下ろしつつ法要を修しました。お釈迦さまが亡くなられたのは旧暦2月15日の中夜、クシナーラーの娑羅双樹の間に於いてでありました。中天には満月が輝いていたことでしょう。


(写真は別山頂にて、2012.9.2)
お釈迦さまの最後の説法である「遺教経」に、「八大人覚」という教えが説かれています。少欲覚・知足覚・遠離覚・精進覚・正念覚・正定覚・正慧覚・無戯論覚の、八つの教えです。15日の行以降、この「遺言」を繰り返し思念していたのですが、お釈迦さまの最後の教えである「八大人覚」は、お釈迦さまが成道後にバーラーナシーの鹿野苑で最初に説かれた「八正道」(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の教えと同じものであることに気づかされました。
 「少欲を行じる者は、心即ち坦然として、憂畏する所なく、事に触れて余り有り。」(「遺教経」)
「少欲」とは、「正業」、正しい行いです。色欲・食欲・睡眠欲・名誉欲・利益欲・・・欲望のままにアレもコレも求める処に争いがあり、苦しみがあります。「少欲」とは、「布施」でもありましょう。
 「知足の人は、地上に臥すといえども猶お安楽と為す。不知足の者は、天堂に処すといえども亦意にかなわず。」(「遺教経」)
「足るを知る」とは、「正命」、正しい生活です。足ることを知らず幻影を追い求めて無謀な戦争を起こした国の、悲しい結末・・・。
 「大樹の、衆鳥之に集まれば、則ち枯折の患い有るが如し。」(「遺教経」)
世間・大衆に巻き込まれ、名利の眷属に纏われるならば、他を救うどころか自分も共に破滅してしまいます。世間・大衆を遠離し、自分自身を見つめ直す時間をもつこと、これも「正命」、正しい生活といえるのではないでしょうか。
「譲れ、隠せ、去れ。」(「摩訶止観」)
 「少水の常に流るれば、則ち能く石を穿つが如し。」(「遺教経」)
「精進」「正念」「正定」は、「八大人覚」も「八正道」も全く同じです。「正念」とはマインドフルネス、自分が今やっていること・やろうとしていること、起こっていることに、気付いていることです。「正定」、正しい禅定とは三昧、則ち暴心を調え、曲がった心を直くし、散乱した心が定まることです。これらは、危険な山中での行に不可欠なものであると同時に、食事や買い物、車の運転、掃除、仕事等、日常の生活の中で応用実践できなければ本物とはいえないでしょう。私の大きな課題であります。
 「実智慧は、則ち是れ老病死の海を度る堅牢の船なり。また是れ無明黒闇の大明燈なり、一切の病者の良薬なり、煩悩の樹を伐るの利斧なり。」(「遺教経」)
「正慧」とは「正見」「正思」、即ち、お釈迦さまの覚られた法です。生老病死等の苦しみ、苦しみの原因である煩悩・業。苦しみの原因を滅すれば苦しみも滅すること、苦しみを滅する為の道、即ち八正道。お釈迦さまが最初に説かれた「四諦」「八正道」の教えは、最後の「八大人覚」の説法の中でも繰り返し説かれていたのでした。
 「若し種々に戯論せば、其の心則ち乱る。」(「遺教経」)
「無戯論」とは、「正語」です。妄語・綺語・悪口・両舌しないことです。「八大人覚」は「少欲」即ち「正業」から説き、「八正道」は「正見」即ち「正慧」から説かれていますが、その内容は等しく、私たちの苦しみを滅する為の八つの道です。そして、最後の最後にお釈迦さまはこう遺言されました。
「汝等比丘、常に応に一心に、勤めて出道を求むべし。一切世間の動不動の法は、皆是れ敗壊不安の相なり。汝等且く止みね。復た語を得ることなかれ。時将に過ぎなんと欲す。我れ滅度せんと欲す。是れ我が最後の教誨する所なり。」(「遺教経」)
この世のすべてのものはもろくはかなく、うつろいゆくものである。この苦しみの三界を出離する道、即ち仏道を、一心に勤求せよ、と。
「精進経行、一心求仏」(「法華経」薬王菩薩本地品)


(別山頂、2012.9.2)

 私が高校生の頃から敬愛し続けているミュージシャン、ブライアン・イーノの昨年の作品、"The Ship"について、イーノ氏は1912年のタイタニック号沈没と1914年に始まった第一次世界大戦に思いを馳せ、「それら人類の味わったあらゆる希望や失望がほとんど変化をもたらさなかったという点についても考えていた。平野や海は存続し続けるが、我々人間は他愛ないおしゃべりの雲に包まれたままこの世から消えていくのだ、と。」と述べています。そして、最後の曲でイーノ氏はルー・リードの"I'm Set Free"を歌っています。「私は自由になる、新たなイリュージョン(幻影)を見つけるために。」
 実際、人類は第一次大戦後も新たな幻影を求め続け、大東亜共栄圏という幻影を求めてわが国が起こした侵略戦争の結末は、広島そして長崎に投下された原子爆弾でした。


(長崎爆心地、2015.7.14)
戦後は先勝国間のさらなる大量破壊兵器開発競争。一方、アメリカの核の傘下で復興を果たしたわが国は、原子力の平和利用による明るい未来を幻想し、原子炉に文殊菩薩や普賢菩薩の尊名をさえ付けています。しかし、そのような幻影は六年前の東日本大震災によってもろくも崩れ去りました。「皆是れ敗壊不安の相なり。」(「遺教経」)
それでも尚、私たち人類は科学技術の力をたのみ、さらなる幻影を追い求め続けてゆくのでしょう。
 お釈迦さまが二千五百年近く前の中夜、満月の下、娑羅双樹の中間で最後に説かれた「八大人覚」(「八正道」)の教えは、夢まぼろしを追い求めて止まない私たちへの、苦しみを滅する為の永遠の、絶えず立ち戻るべき遺言です。
少欲(正業、正しい行い)・知足・遠離(正命、正しい生活)・精進(正精進)・正念(正念、マインドフルネス)・正定(正定、正しい三昧)・正慧(正見・正思)・無戯論(正語)。
「当に勤めて精進し、早く解脱を求め、智慧の明を以て諸の癡闇を滅すべし。」(「遺教経」)


(長瀧寺、2012.8.4)
 「今時の人、仏を見れども心に法門なきは、みな仏にあらざるなり。」(「摩訶止観」)
白山に仏菩薩や神の幻影を拝むのではなく、仏法を、み仏の教えを拝み、仏道を行じてまいりたく思います。

衆生は無辺なり、誓って度さんことを願う。(苦諦)
煩悩は無尽なり、誓って断たんことを願う。(集諦)
法門は無量なり、誓って学ばんことを願う。(道諦)
仏道は無上なり、誓って成ぜんことを願う。(滅諦)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝