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横蔵寺~白山権現堂巡拝

 2月23日午前、揖斐川町の両界山横蔵寺に参拝。


前夜からの雨は上がり、雲間に時折、日が差していました。本堂、観音堂と巡拝し、かつての本堂があった山上へと登ってゆきました。仁王門跡までの山道には、ほとんど雪はありません。


40分程で稚児ヶ岩着。


嘉禎3年(1237)、この岩上から稚児が末世の人々を救う為に捨身供養を行じました(「谷汲村史」)。稚児は地蔵菩薩の化身であった、と伝えられています。西面した岩上に登り、念仏をお称えしました。


 岩から北へ下り、熊谷直実公の墓に参拝。


寿永3年(1184)2月7日の一ノ谷の戦いで先陣を切った熊谷直実は、浜で「花のようなる若君」(幸若舞「敦盛」)を組み伏せ、首を取ろうとしましたが、彼が平経盛の三男・敦盛で、我が子・直家と同じく16才であることを知り、その日の朝の戦闘中、手を負傷した直家に「痛手か薄手か」と心配しつつも、「其の手が大事ならばそこにて腹を切り候へ。また薄手にて有るならば、仇と合うて討死をせよ。」(同)と声をかけたまま別れたことを思い出し、「此の君の御首を賜はり、直実が恩賞に預りてあればとて、千年を保ち、扨万年の齢かや。末代の物語に助け申さばや」(同)と慈悲の心を起こしました。しかし、源氏方の諸将が敦盛を討ち取ろうと追って来た為、やむを得ず自ら敦盛の首を取り、大将の義経に報告したのでした。敦盛の遺骸に書状を添えて平家方へ送り届けた直実に、敦盛の父・経盛から2月14日付の返信が届きます。2月7日の合戦から我が子の姿が見えず、安否も不明で、「天に仰ぎ地に伏し是を祈る。神明の納受、仏陀の感応を待つ処によって七日が内に是を見る。・・・」(同)と、我が子の遺骸に会えたことの喜びと悲しみを綴った文面。時あたかも2月15日、釈尊が涅槃に入られた日であります。直実は菩提心、即ち、仏道を求める心を発し、「思へば此の世は常の住みかにあらず。草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。・・・人間五十年化天の内をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり。一度(ひとたび)生を受け滅せぬ者の有るべきか。是を菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりし次第ぞと思ひ定め」(同)、弓を三つに切り折り、黒谷の法然上人のもとで出家して蓮生坊となったのでありました。
 「化天」とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の迷いの六道のうち、天道にある「化楽天」のことです。天道には、まず地獄から私たちの人道までと同じ「欲界」に属する六つの世界があり、その上に「色界」「無色界」があります。人道のすぐ上、欲界に属する天道とは、下から四天王天(毘沙門天(多聞天)はその一つ)・刀利天(「とう」はりっしんべんに刀、須弥山頂にあり帝釈天がいます)・夜摩天・兜率天(此処からかつて釈尊がこの世に下生し、未来に弥勒菩薩が下生される、とされています)・そして化楽天・他化自在天の六天。「人間五十年・・・」とは、天の世界に比べれば私たち人間の世界は「夢まぼろし」の如くはかないもの、今、菩提心(道心)を発し、欲界・色界・無色界の苦しみの三界を出離して仏の道に到る種としなければ、後で悔やんでも悔やみきれぬぞ・・・との、熊谷蓮生坊の発心の決意を表わした語です。
 横蔵寺の寺伝によれば、熊谷蓮生坊は元久元年(1204)、67才の時に横蔵寺を訪れ、阿弥陀如来の像を彫り、承元2年(1208)に亡くなったとのこと(「谷汲村史」)。直実公の墓所は各地にあるようですが、白洲正子さんの「十一面観音巡礼」に、「大自然の懐に抱かれた横蔵寺のたたずまいは、一代の英雄の終焉の地には、まことにふさわしい場所のように思われる。」とあります。墓前にて法要を修し、蓮生坊と平敦盛公の菩提を弔いました。
 直実公の墓から先、山道は雪に覆われていました。かつての本堂跡に参拝。


横蔵寺は延暦20年(801)、伝教大師最澄上人が自作の薬師如来像を祀って開山、元亀2年(1571)に織田信長に焼かれるまで、山上に堂宇が建ち並んでいました。同年、延暦寺も焼き討ちされましたが、後に延暦寺再建の際、横蔵寺の伝教大師作薬師如来像が比叡山根本中堂に移された、とのことです。本堂跡にて薬師如来と伝教大師を拝みました。


 雪の山道を、長靴で上へ。山道を外れて562mピークに登り、正午すぎに白山権現堂に参拝しました。


白山の方角を背に建つお堂の御前で、観音経と西因上人発願文、念仏をお唱えしました。加賀・笥笠神宮寺の西因上人が「末法万年の間、弥陀の一教を遺すべ」く(藤原敦光「白山上人縁記」)念仏三昧行の発願をされたのは、保安2年(1121)。
「若し白山の名を聞く善悪諸衆生、生死に流転せば、我れ即ち成仏せじ。」「十悪五逆は風前の塵、妄想顛倒は空中の花。弥陀の白毫一たび照らさば、煩悩の黒業悉く除かれん。」(「白山上人縁記」)
私は、西因上人の行願(即ち普賢の行願)は、白山信仰の白眉だと思っております。ただ、この寺や延暦寺はじめ、「天下布武」の幻影の為なら寺も仏像も経典も僧俗も、情け容赦なく焼き滅ぼした織田信長、白山権現の名を尊び、元亀2年(1571)6月、比叡山焼き討ちの三ヶ月前には白山三所権現の一つ・別山大権現に鰐口を奉納しながら、非道を行じた織田信長の「黒業」が、「悉く除かれ」るのかは、私には分かりません。信長は幸若舞「敦盛」の「人間五十年・・・」の節を好んで舞っていたようですが、その心は、熊谷直実公のような道心を発すことはありませんでした。直実公も、我が子を心配しつつも世間体を気にして厳しい言葉をかけ、また、敦盛公を助けたくても、助けられませんでした。信長公も、「敦盛」の中に慈悲の心を感じていたのかもしれません。しかし、「天下布武」の幻影は、それが表に出ることを許さなかったことでしょう。戦時中のわが国も、似たような状況であったのではないでしょうか。
 山上で一時間程坐し、下山。本堂跡から南側へ進み、「岩の氷河」へ。


山の南腹は、雪が少ないです。岩の氷河を下り、坂本谷沿いの林道を下って一時間程で横蔵寺に戻りました。


舎利堂に参拝し、妙心上人の舎利仏と相見。妙心上人は天明元年(1781)に横蔵で生まれ、諸国遍歴の後に善光寺で受戒、富士山で先達を勤め、甲斐の御正体山の洞窟で文化14年(1817)37才の時、白木の棺に安坐して断食・入定されたそうです。そのお姿に、法華経の多宝仏を拝みました。その後、明治の神仏分離で下山させられ、明治23年(1890)に故郷の横蔵に帰って来られました。妙心上人のようにそのお姿が残っていることは稀ですが、「入定」して遷化された僧は古来、けして少なくありません。この山で捨身供養を行じた稚児、長良川畔で入定された円空上人、白山美濃馬場中宮長瀧寺の御坊主洞で焼身供養を行じた敬愚比丘、長良川畔で焼身供養を行じた真海和尚。白山を開いた泰澄大師も、1250年前の神護景雲元年(767)3月18日、越知山大谷寺(おおたんじ)にて入定遷化されています。これらの行は、身をもってみ仏とその教えを供養し、その功徳を末代まで生きとし生けるものに回向しようとする慈悲・利他の心から行われているのであり、自分本位の自殺や、他人を殺すための自爆とは根本的に異なります。その行願は尊く、気高く、理想的です。ただ、それが幻影にすぎないのかどうかは、私には分かりません。信長の「天下布武」や大日本帝国の「大東亜共栄圏」が「夢まぼろし」であったように、入定された僧たちの行願が「夢まぼろし」であったのかは、私には分かりません。ただ一つ言えることは、お釈迦さまは極端な快楽も極端な苦行も捨てて覚りを開き、中道を説かれたこと、その実践として、最初の説法(初転法輪)で四諦(苦集滅道)・八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)を説かれ、50年伝道行脚して、最後に八大人覚(小欲・知足・遠離・精進・正念・正定・正慧・無戯論)即ち八正道を説かれて涅槃に入られた、ということです。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝