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長瀧寺~毘沙門様~御坊主ヶ洞巡拝

 3月22日早朝、白山美濃馬場中宮長瀧寺に参拝。


大講堂前の宝篋印塔は、天台宗の僧・豪潮律師が天保4年(1833)に建立したものです。豪潮律師は肥後の出身で、八万四千の宝篋印塔建立を発願されました。昨年10月、阿蘇の西巌殿寺に参拝した折にも、律師が文化2年(1805)に建立した宝篋印塔があり掌を合わせました。


長瀧寺宝篋印塔の御前で宝篋印陀羅尼と念仏をお唱えし、昨年4月の熊本大地震で亡くなられた方々のご冥福と、被災地の復興をお祈りしました。
 大講堂に参拝後、開山堂跡へ。


白山中宮長瀧寺は、今から千三百年前の養老元年(717)、白山を神仏習合の霊地として開いた「越の大徳」泰澄大師が美濃側に下って開山し、養老6年(722)に寺号を長瀧寺と命名されました。「白山禅頂本地垂迹由来」には、お釈迦さまがインドに生まれて出家・成道後、華厳・鹿苑・方等・般若・法華涅槃の五時に教えを説いて入滅されたこと、中国・周の穆王がインドへ行き、霊鷲山で法華経を説いているお釈迦さまに会い、法華経観世音菩薩普門品(観音経)の「具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼」の二句の偈を授けられたこと、伊弉諾尊と伊弉冊尊が天の浮橋より逆鉾で海中を探った時、鉾の先に胎蔵界大日如来の種字が当たり、滴と種字が和合して島ができたこと等が説かれ、「越ノ大徳泰澄大師ト申スハ、昔伊弉諾・伊弉冊尊ノ二神海中ヨリ国ヲ探リ出シ給ヒ、仏法ヲ弘宣シ、衆生ヲ利益セントノ御誓ノコト深ク御坐ス、其誓ノ意ニ答ヘテ、時節ヲ於テ誕生シ給フ智行広徳ノ薩タ(土偏に垂)ナリ」とあります。泰澄大師とは、わが国に仏法を弘めるために現われ、白山を開かれた方であると申せましょう。「長瀧寺真鑑正編」によれば、泰澄大師は天平勝宝2年(750)、長瀧寺に79才当時の肖像を残して越前に帰られたとのことです。そして神護景雲元年(767)3月18日、越知山麓の仙窟にて入定遷化されました。開山堂跡にて観音経と念仏をお唱えし、泰澄大師の遺徳を偲び、白山仏法興隆を祈願しました。
 三重塔跡から常行堂跡・法華堂跡を巡拝。常行堂は「摩訶止観」に説かれる四種三昧行の常行三昧、法華堂は法華三昧(半行半坐三昧)のお堂。阿弥陀如来と普賢菩薩に掌を合わせました。拝殿後ろの白山三所権現(大御前・別山・越南智)本地十一面観音菩薩・聖観音菩薩・阿弥陀如来に参拝し、長良川畔の泰澄大師碑へ。


西には、半月ごとに三昧行道している白山鳩居峯、北には、さらに大日ヶ岳へと続く鳩居峯を遥拝しました。


 長滝から干田野へ登り、如意輪観音さまに参拝。


蓮原川沿いの林道に入ると、深い処で1m程の雪。


雪は緩んでおり、かんじきを履いて進みました。春木ヶ洞沿いに登ってゆき、毘沙門岳と西山を遥拝。


右下に沢を見下ろし雪の尾根を登ってゆきましたが、尾根上は雪が融けて藪が出ている処と、まだ雪の深い処があり、藪ではかんじきは歩きづらく、雪上ではかんじき無しでは脚がはまり、思うように登れません。かんじきでもズボッと脚の付け根まで沈む処もあります。春木ヶ洞沿いに登り始めてから約一時間後、840m程のピーク着。毘沙門岳の中腹です。北の樹間に大日ヶ岳、西側には毘沙門岳頂部を拝みました。



 室町時代、この辺りに祀られていた「毘沙門様」が大雨による山抜けで流され、70km以上下流、長良川畔の私の住み処の近くに漂着したと伝えられており、祀られています。流された「毘沙門様」跡には、石碑があるとのこと。昨年9月、「毘沙門様」跡を探して干田野から山に入りましたが、いつまでも見つからず、結局、藪を漕いで毘沙門岳山頂まで登ってしまいました。このピークはその時も通ったはず。雪上を気をつけて見回しましたが、やはり何もありません。一旦、来た尾根を引き返して下ってゆき、春木ヶ洞を渡って対岸の尾根を登ってみました。登ってゆけば、やがて先程のピークに出ます。腐れた雪に苦しみつつ、この上にも見つからなければ今日は諦めよう・・・などと思いながら急斜面を登ってゆくと、ありました!


石碑には毘沙門天のご真言はなく、水天や聖観音菩薩のご真言。干田野では天気の神さまとして信仰されているそうです。「毘沙門様」からは東に干田野、南東には長滝方面や長良川が見下ろせました。


観音経を読誦し、東日本大震災及び熊本大地震被災地の復興をお祈りしました。
 「毘沙門様」から少し登った処が、一時間半程前にいたピークでした。一分半もあれば着ける処に、山を下って谷を渡り、登り直して一時間半かけて発見させる、白山妙理大権現のお導きの妙。
「我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ」(「法華経」如来寿量品)
毘沙門様が下っていったという春木ヶ洞に沿い、雪上を下ってゆきました。


 干田野から長良川沿いの国道に降り、北へ。悲願寺に参拝して橋を渡りました。流れゆく川の彼方には鳩居峯。


千城ヶ滝は、雪融け水が豊富でした。


かんじきを履いて千畳敷(なめら)沿いに進み、雪上を登って鉄塔へ。日差しは温かいものの、西風が冷たいです。北に仏岩と大日ヶ岳を拝み、鉄塔下にしばし正身端坐しました。


 「白山禅頂本地垂迹由来」に、お釈迦さまが50年の説法を経て80才の2月15日夜半、「涅槃経及遺教経一巻ヲ説テ滅度ヲ唱ヘ給ヒ、其経中ノ文云、汝等比丘吾ガ滅後ニ於テ、将ニ波羅提木叉ヲ尊重珍敬スベシト云々、波羅提木叉ハ戒躰ノ梵語ナリ、悲ヒ哉我等形ハ僧ニシテ、仏経ヲ翫ビ、檀徒ノ信施ヲ受ケ世ヲ渡ルト雖モ、心ハ無懺無愧ニシテ在俗ニ同ジク、上ニ衣ヲ着シナガラ、胸中ニハ三毒ノ劔ヲ磨キ、只利養名聞ノ思ヒノミ深シテ・・・」「右遺教経ヲ心ニ恥ヂ、心中ノ我慢ヲ捨テ、柔和忍辱ヲ常トシテ、五戒ヲ能ク守リ持ツベキ出家ハ、其身仏法モ増長シ繁昌シテ、世間ノ災横モ除クベシ」とあります。「白山禅頂本地垂迹由来」は白山美濃馬場の他、石徹白や加賀馬場にも伝わっており、石徹白本には「波羅提木叉とは戒体梵語なり。大師の言わく、戒行の器かけぬれば、観法の水もれやすし。邪見の地かわきぬれば佛性の種生じ難し。破器に水をもるにあたはず。乾地に種を下すにたえぬと云々」とあります(加賀本にもほぼ同文あり)。この「大師」の言葉の出典は浅学な私には分かりませんが、泰澄大師ではなく天台智者大師、あるいは伝教大師の語でありましょう。天台智者大師の「摩訶止観」に、「不欠戒とは、すなわちこれ性戒、乃至、四重(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語)を持し、清浄に守護すること明珠を愛するがごとし。もし毀犯するものは、器のすでに欠けたるは用に堪うるところなきがごとし。仏法の辺人にして沙門釈子にあらず。」とあります。「持戒」の器が欠ければ「禅定」「智慧」の水が漏れてしまう、というこの教えに、3月14日の鳩居峯五宿巡拝時のことを思い出しました。
 昨年10月に一ノ宿に湯呑を奉納し、以降、半月ごとの巡拝時に長瀧寺の千蛇ヶ清水をお供えしているのですが、冬期は湯呑の中の水は凍っていました。14日、湯呑の水はようやく融けていましたが、湯呑が欠けており、水を注いでも漏れるのみでした・・・。「持戒」のない「禅定」「智慧」とは、まさに欠けた器に漏れる水。これは他人事ではなく、私のことに他なりません。「遺教経」には「此の戒によって諸の禅定及び滅苦の智慧を生ずることを得」とあります。日々の勤行において「梵網菩薩戒経」の偈文は読誦していても、戒の内容は読誦していません。
「我今半月半月に自ら諸仏の法戒を誦す。」「若し菩薩戒を受け、此の戒を誦せざる者は、菩薩に非ず、佛の種子に非ず。」(「梵網菩薩戒経」)
仏岩と対面して坐し、み仏に、半月半月に行じている白山鳩居峯五宿巡拝行の前日、梵網菩薩戒経偈と十重禁戒を読誦して「布薩」を行じることをお誓いしました。「戒」はサンスクリット語・パーリ語では「シーラ(尸羅)」。白山に入峯して三昧を行じるには、先ず持戒清浄であらねばなりません。
 鉄塔巡視路を進み、西に三ノ宿・西山・毘沙門岳を遥拝。


「毘沙門様」もよく見えます。急峻な御坊主ヶ洞に下り、五百年程前に此処で焼身供養を行じた敬愚比丘を偲んで法要を修しました。


法華経薬王菩薩本事品に、一切衆生喜見菩薩が日月浄明徳仏の説かれた法華経に順って修行をし、現一切色身三昧を得、師と法華経を供養する為に焼身供養を行じたことが説かれています。現一切色身三昧とは、相手に応じた姿を自在に現わして法を説くことで、妙音菩薩や観音菩薩が得た三昧と同じです。
「本当の自由を得た人だけが、本源的次元を深く観ることができた人だけが、このような行動をすることができる。」(ティク・ナット・ハン「法華経の省察」藤田一照訳)
敬愚比丘は大永・享禄の頃(1521~28)に焼身供養をされたようです(「長瀧寺真鑑正編」)。当時の長瀧寺は、美濃・飛騨に乱立する戦国武将の争乱の中、飛騨にあった荘園・河上庄の警護の為に出兵し、また、寺内には美濃・飛騨の特定の武家の保護を受けていた坊もあれば、それらの戦国武将の兄弟や子である僧侶も少なくなく、同族の僧に坊を譲ったり、他の武家の娘が坊に嫁いでいる例もあります。
 中世寺院の内部には学侶(衆徒)・行人(夏衆)・聖(山伏)の三身分があり、「学侶」は貴族・武士・富裕民の出身であり、「行人」は半僧半俗の下級僧侶で武士より下の身分に出自を持ち、「聖」は定住しない遊行者でありました(伊藤正敏「寺社勢力の中世」)。戦国乱世にあっては、寺社も世俗の権力闘争に巻き込まれ、利用されるおそれは多分にあったことでしょう。「華厳経」入法界品に、普賢菩薩が前世に王であった時、み仏に順って正法を守護し、み仏の滅度の後に出家学道しましたが、悪世となって人々は怒り争い、僧侶は放逸にして王論・賊論・女論・国論・海論等、世間の論ばかりを好むようになった為、正法の毀滅を憂えた王比丘は、虚空に昇って大光明雲を放ち、無量の色光で一切の世界と人々の煩悩を照らして人々に道心を発させ、正法を再び興隆させた、とあります。敬愚比丘が斯様な高い処で焼身供養を行じたのも、乱世の人々を照らす灯火となるためであったのではないでしょうか。
 法華経安楽行品に、悪世においてこの経を説くには、初心の菩薩はまず忍辱の地に住し、柔和善順にして卒暴ならず、何事にも驚かず、ことさらな行動をせず、物事をありのままに見、無分別なことをしない、とあります。「白山禅頂本地垂迹由来」にあるように、釈尊の遺教に順って慢心を捨て、柔和忍辱を常とし、戒律を持って己れを絶えず省み、仏法を増長して世間の災厄を少しでも減らせるようでありたいものです。
 御坊主ヶ洞を降り、毘沙門岳と長瀧寺に合掌。


泰澄大師も、毘沙門天王も、敬愚比丘も、白山妙理大権現即ち十一面観音菩薩の、普門示現のお姿です。長良川に沿って帰路につき、帰宅後、70km以上上流から流れてきた「毘沙門様」に参拝して、仏法大棟梁白山妙理権現のお導きを感謝しました。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝