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蓮華峯寺~高山石~白谷観音堂巡礼

 高賀神社の十一面観音さまに久々にお参りしたくなり、3月30日、高賀川へ。途中、蓮華峯寺に参拝しました。


蓮華峯寺は、昔は高賀神社と合わせて「西高賀山蓮華峯寺」と称し、今の高賀神社拝殿の石段下に大日堂と護摩堂がありました。また、現在の蓮華峯寺の場所には観音堂があったそうです。明治の神仏分離で大日堂や仏像が破壊され、一部の僧侶たちが観音堂に仏像を避難させてお守りしたとのこと(「高賀癒しの郷」HP)。元々、観音堂には行基菩薩作と伝わる、白谷観音と同じ伝承を持つ金銅の十一面観音菩薩さまが祀られていたそうです(「洞戸村史」)。
 蓮華峯寺には今まで何度もお参りしていますが、裏山に道が続いていることに初めて気付きました。辿ってみると、谷沿いに薄い踏み跡が続いています。この日は山に登るつもりはなく、手ブラに運動靴で手袋もありませんでしたが、着のみ着のまま谷筋を登ってゆきました。藪は少ないものの、手袋なしでは手指があちこち傷つきます。40分程で稜線に出、小ピークの岩壁の上から高賀山と箭筈山(タカネ)を遥拝。昨年1月と今年1月に白谷から箭筈山・高賀山へ縦走しましたが、此処は、白谷からの尾根の南側のようです。地形図を持ってきていないので詳しい位置は分からず、後日また来ることにして下山しました。
 蓮華峯寺から高賀川沿いに歩き、高賀神社へ。


円空記念館で十一面観音さま・善財童子・善女龍王の三尊に参拝。まるで、天に昇るかのようにひょろ長いこの三尊は、私が特に敬愛している十一面観音菩薩像の一つです。以前から、何故に脇侍が善財童子と善女龍王なのか不思議に思っていました。円空上人について書かれた本を見ても、どれも、円空さん独自の信仰などと書かれてあったり、善財童子は円空さんで、観音さまあるいは龍女は母親を思わせる、などと書かれてあります。円空上人が自分と母親の像を彫って人に拝ませるなどとは、私には考えられません。
 観音菩薩の脇侍に善財童子と龍女を祀る三尊形式は、中国の方ならご存知ではないでしょうか。白磁製の慈母観音像が16世紀頃から福建省を中心に作られ、日本に輸入されてキリシタンに拝まれたのが「マリア観音」ですが、その脇侍は、善財童子と龍女です(彌永信美「観音変容譚」)。杭州の上天竺寺の観音さまは「霊感観音」として宋代から信仰されてきましたが、明の万暦年間(1573~1615)の記録によれば、その脇侍は善財童子と龍女だったそうです(「観音変容譚」)。明代の「善財龍女宝巻」によれば、善財童子は9世紀の陳宰相が舟山群島・普陀山の南海観音に祈って得られた子で、黄龍真人の下で修行したとのこと。また、龍女は元々は大蛇で、南海観音が普陀山の潮音洞で教化した、と説かれています(于君方著・釋自カン(行がまえの中に干)訳「現身南海度化善財、龍女 南海観音」)。経典によれば、善財童子は文殊菩薩の教えに順い南方に五十三人の善知識を尋ねて求道し、その途次、光明山(普陀落山)で観音さまの教えも受け、最後に普賢菩薩の教えを受けて得道された方です(「華厳経」入法界品)。また、龍女は八歳にして、文殊菩薩が龍宮で説かれた法華経を修して菩提を得、南方無垢世界で仏と成って法を説かれるお方です(「法華経」提婆達多品)。観音さま・善財童子・龍女の三尊は皆、南方に縁のあるお方です。中国の善財・龍女の故事は仏教と道教が習合してできた信仰と思われますが、日本で仏教と神道が習合したのと同様、これもまた、相手に応じた姿を自在に示現して法を説かれる観音さまの「現一切色身三昧」といえましょう。
「婦女の身を以て得度すべき者には、即ち婦女の身を現じて為に法を説き、童男童女の身を以て得度すべき者には、即ち童男童女の身を現じて為に法を説く。」(「法華経」観世音菩薩普門品)
 「善財龍女宝巻」には、観音さまが鰲(ごう、伝説上の大亀)の上に立ち、善財童子は脚に蓮華を踏んで、次第に紫竹林に近づいてゆき、白い鸚鵡が念珠をくわえて飛来する光景が説かれています(「南海観音」)。この記述を読んで私の脳裏に浮かんだのは、長崎・福済寺の観音さまでした。


(写真は2015年7月参拝時)
原爆で焼失した後、戦没者と原爆殉難者の慰霊の為に建立された「長崎観音」は、霊亀の上に立つ慈母観音さま。足元には三人の童。もしや・・・と思い調べてみると、戦前の福済寺の青蓮堂(観音堂)には、観世音菩薩と善財童子・龍女が祀られていたのでした。福済寺は寛永5年(1628)、明の僧・覚悔禅師が創建、大雄宝殿の本尊・釈迦如来は、明暦2年(1656)に南海普陀山より寄贈されたものでした。青蓮堂の建立は慶安3年(1650)です。また、宇治の黄檗山萬福寺の禅堂にも、白衣観音・善財童子・八歳龍女の三尊が祀られています。萬福寺は明から渡来された隱元禅師が寛文元年(1661)に開創。


(写真は萬福寺大雄宝殿、2016年10月参拝時)
隱元禅師は若い頃、普陀山の潮音洞で茶頭を勤めていたそうです。鎖国・キリシタン禁制下の日本に明の文化を広めたこれら黄檗寺院の建立は、円空上人(寛永9年(1632)~元禄8年(1695))と同時代のことであり、円空上人の観音菩薩・善財童子・善女龍王の三尊形式は、当時、明から伝わってきた「南海観音」や「慈母観音」の三尊形式に倣ったもの、と考えられるのではないでしょうか。ことに、この高賀の十一面観音さまは頭から白衣を被っておられ、「慈母観音」や「南海観音」と同じお姿なのであります。
 4月3日朝、再び蓮華峯寺へ。谷沿いに30分程登って稜線に出ると、お地蔵さまがおられました。


3月30日に稜線に出た処よりも北側です。お地蔵さまがおられるということは、此処は昔の峠だったのでしょう。踏み跡は、山腹を白谷側に下っているようです。一旦、尾根を南へ登り、30日に坐した岩壁の小ピークへ。


付近からは北西の樹間に白谷の集落が見下ろせ、彼方には雪を被った美濃平家岳と平家岳。


岩壁上からは北に高賀山と箭筈山(タカネ)が拝め、その左奥には滝波山の白い稜線。



峠に戻り、峠道ではなく尾根を北へと登ってゆきました。
 程なく594m三角点(江原坂)着。昨年と今年の1月に白谷から箭筈山へと登った尾根です。尾根を東へ進み、樹間に平家岳や滝波山の白い山並を遥拝。


巨大な岩の上に登り、北面して正身端坐しました。


「濃陽志略」に、「高山石、白谷山中に
在り、竪一丈四尺横一丈三尺許・・・里老云わく、高山上人は養老年中の人也、此に於いて坐禅す」とあります(原漢文)。滝波山麓の新宮社の由来書にも、「光山上人」が白谷山中の石上に坐して修行していたと書かれています(「板取村史」)。白谷観音堂の縁起では「高山上人」が「泰澄大師」となっており、大師が山中の大盤石の上で坐禅していると行基菩薩作の十一面観音菩薩像が現われたので、麓の白谷にお堂を建ててお祀りした、とのことです。この岩を「神の岩」といい、この地を「高差」というとのこと(「板取村史」)。観音経を読誦し、十一面観音さまのご真言をお唱えしました。
 高山上人、あるいは白山を開いた泰澄大師が此処で十一面観音さま(白山権現の本地仏)のお像を得た、という伝承は、白山信仰が南方へと広まっていったことを表わしています。そして、この岩から北西の谷を下った処に白谷観音堂、南東の谷を下った処には蓮華峯寺観音堂があり、共に行基菩薩作と伝わる十一面観音菩薩が祀られていたのでした。後に円空上人が彫った十一面観音さま・善財童子・龍女の三尊も、白山から南方へと示現し遊化される観音さまなのでありましょう。微笑みつつ虚空に昇るかのような三尊。高賀や両白の峰々、長良川などの諸川を介して、北方・白山の天嶺と南海・普陀落山の間を遊化し、私たち一切衆生の苦しみを救ってくださる、観音さまと童男童女。唐代に玄奘三蔵法師が書かれた「大唐西域記」には、観音さまの普陀落山は南インド・マラヤ山の東にあり、山頂の池から流れる水は大河となって山を二十周廻り、南海に入る、とあります。また、「白山禅頂本地垂迹由来」には、お釈迦さまが尼連禅河畔の菩提樹下で成道された後、最初に華厳経を説かれた時、「善哉童子旬求智識龍女三人許(リ)悟ヲ開ク」とあります(最初に華厳経を説かれた、というのは、隋代の天台智者大師の五時教判によるものです)。如何なる苦しみのさ中にあっても、「念彼観音力」すれば立ち所に現われてくださる、観音さまと童男童女のお姿・・・南無南海普陀落山観世音菩薩、南無仏法大棟梁白山妙理権現。
 高山石から北西へ、道なき急峻な谷を降下。


20分程下ってゆくと、巨大な窟が現われました。


窟の下を渓水がかすかに流れ、最奥には龕と思しき窪み。十一面観音さまを念じました。高山上人も、此処で修行をされたことでしょう。谷をさらに下り、林道を横切って観音洞に沿って下ってゆくと、苔むした石段がありました。


今は獣しか歩かないような処ですが、昔は此処に祠でもあったのでしょうか。


 観音洞から林道に出、窟から40分程で白谷観音堂に参拝。


享和元年(1801)の「美濃西国三十三所観音御詠歌」の額があり、
「一番 白谷円教寺 ふだらくやよそにはあらじしらたにのむすぶこころはたに川の水」
とあります。そして、
「二番 高賀蓮華峰寺 ふるさとをはるばるここに高賀てらはすのうてなもちかくなるらむ」
現在の美濃西国三十三所観音には両寺は含まれていませんが、江戸時代後期には、先ず白谷の十一面観音さまを拝んでから高賀・蓮華峯寺観音堂の十一面観音さまにお参りし、さらに南方へと巡礼していたのでありました。だとすれば、蓮華峯寺から尾根に出た処の峠道は、当時の巡礼路であったことになります。古の巡礼路を歩いて蓮華峯寺に戻ることにしました。
 根道神社に参拝し、神社裏の尾根を上へ。昨年1月に此処から箭筈山・高賀山へ登った際は雪が少なく、古の道と思しき窪んだ踏み跡が続いているのを不思議に思いましたが、かつての巡礼路だとすれば納得がいきます。


尾根を登ってゆき、高賀山や箭筈山(タカネ)を遥拝。


594m三角点(江原坂)への急な登りの途中で、山腹の踏み跡をトラバース。「洞戸村史」に、円教寺で御詠歌を捧げ、胸突八丁のイバラ坂を登り、峻険を越えて蓮華峯寺にたどりつく、とあります。白谷から一時間程で峠に着きました。


小ピークの岩壁上で一休みし、峠から谷を南東へ降下。沢の水で喉を潤し、無事に蓮華峯寺に参拝。普門示現される十一面観音さまと童男童女に、新たなるお導きを感謝したのでした。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝