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鳥居松~大山廃寺~尾張白山放浪

 4月9日朝、雨の中、春日井市の朝宮神社に参拝。


延喜式神名帳(延喜5年(927))記載の式内社・和爾良神社と伝えられ、建保6年(1218)に白山権現が勧請されて朝宮白山宮と称したそうです。朝宮から南方へ歩を進め、慈眼寺に参拝。


黄檗宗の寺院で、門の形が宇治の黄檗山萬福寺総門にそっくりです。


(萬福寺総門、2016年10月参拝時)
さらに南へ進み、庚申寺へ。


此処から北東へ、下街道(したかいどう)が続いています。
 下街道とは、名古屋城下から中山道大井宿の槙ヶ根追分までの脇街道で、庚申寺の辺りはかつての勝川村の北、柏井庄下条村です(「尾張徇行記」)。白山美濃馬場中宮長瀧寺に伝わる「長瀧寺真鑑正編」に、「鳥居松 白山一ノ鳥居ト云フ、昔ハ鳥居ヲ建立セシニ現今ハ松ノミニテ、尾張国春日井郡勝河附近ニ在リ」とあり、「尾張徇行記」下原新田の項に「此新田ハ、西島東野島池合島六軒島取居松島ト五ヶ所ニ散在セリ、此鳥居松島ハ下街道通リニアリテ町並アリ、ココハ下原新田八田新田関田村上条新田入合ノ所ナリ、通称鳥居松島トイヘリ」とあります。同書の八田新田の項には、「村東下街道通リニアル民戸ヲ鳥居松ト云、此中一町余カカレリ、昔時此地ニ大山村児権現社鳥居アリシ跡ナルユエ、鳥居松ト唱フト也」とあります。庚申寺から下街道を北東へ歩いてゆくと、やがて鳥居松本通り商店街に入り、鳥居松の由来が書かれてありました。神社の鳥居説は、大山児権現(ちごごんげん)、尾張白山神社、内々神社、長滝白山神社(長瀧寺)等の鳥居があったことに由来する、とのこと。馬頭観音さまや三十三観音の石碑が祀られたお堂にお参りし、般若心経を読誦しました。


 下街道は、鳥居松から篠木町に入ってさらに北東へ。「尾張徇行記」篠木庄野口村の項に、「野口村白山ハ篠木三十三ヶ村ノ氏神ト云」とあり、かつては、この辺りから北方の尾張白山までが「篠木庄」であったのでした。鳥居松にあったという鳥居は、篠木庄の氏神であった尾張白山神社の鳥居と考えるのが妥当でありましょう。無論、尾張白山のさらに北方には白山が鎮座しています。白山から美濃禅定道を経て南方へと広まっていった、白山妙理大権現即ち十一面観音菩薩への信仰。断続的な雨の中、尾張白山へと下街道を歩んでゆきました。
 街道はゆるやかな登りとなり、八幡神社と御嶽神社に参拝。桜が綺麗です。


さらに登ると、「尻冷やし地蔵尊」が祀られていました。


昔、敵に追われた手負いの武士が此処の湧き水で喉を潤していたところ、追手に討たれてしまったそうです。念仏をお称えし、喉を潤しました。雨はやんで、日が差してきました。国道沿いに坂を下り、坂下へ。坂下神社は満開の桜。


モスクの前を通って大山方面へ進み、高台から尾張白山と本堂ヶ峰を遥拝しました。


 四季の森を通って大山廃寺へ。「尾張徇行記」によれば、昔、此処にあった天台宗・正福寺は五千坊の大寺院でしたが、比叡山と対立して焼き討ちされ、住職と二人の稚児が殺されたとのこと。不動堂、児権現と巡拝し、坊さんの権力闘争の巻き添えになった子供たちの菩提を弔いました。



児神社の裏山には塔の跡があり、さらに登って本堂ヶ峰登頂。尾張白山方面へ縦走し、途中、北に尾張富士と入鹿池を望みました。


白山に向かって観音経読誦。下街道を歩き始めてから、四時間が経っていました。
 尾張白山に登頂し、般若心経読誦。


元々、小口天神が祀られていましたが、中世に白山権現が勧請されたようです。白山から南方へと遊化される本地・十一面観音さまに掌を合わせ、南側に振り向くと、鳥居松方面が彼方に見下ろせました。


煙棚引く春日井の製紙工場の煙突。かつて、其処には名古屋陸軍造兵廠鳥居松製造所があり、銃などの携帯兵器が造られていました。終戦前日の昭和20年8月14日、この工場に長崎に投下された原爆の模擬爆弾が三発落とされ、工場は壊滅しました。さらに南方に広がる、海。念仏をお称えし、先の大戦の無数の戦没者に祈りを捧げました。南無南海普陀落山観世音菩薩・・・
 戦争となれば、軍事施設が標的とされるのは当たりまえのことと申せます。アメリカが某国と戦争を始めれば、日本にある米軍基地も標的となるでしょう。当然、誤爆も起こることでしょう。自分は戦争はしない、という条文だけでは、戦争は防げません。仏教の戒律の第一は、殺さない・殺させない・見て喜ばないことであり、二番目は盗まない、盗ませないことであります。戦争をしない・させない・喜ばない、侵略をしない・させない・喜ばないという実践こそ、かつての悲劇を繰り返さない為の仏教徒の勤めではないでしょうか。持戒・禅定・智慧を三学といいますが、いくら坐禅したところで持戒の実践がなければ、「なりきって人を殺しました」「なりきって泥棒しました」なんてことになりかねません。
 尾張白山から南へ駈け下り、野口から大草へと歩いてゆきました。振り返ると、尾張白山の頂がずっと見えていました。


山頂から一時間半程南下した八田川沿いの土手からも、山頂がよく見えます。


大池を経て下原に着き、「ギャラリーカフェわっつ」で一休み。森哲荘さんの木彫り展が4月26日まで開催されています(木曜休)。森先生には、昔、米原で仏像彫刻を教えていただき、お世話になりました。今回の展示は、ピカソの人物画をモチーフにしたレリーフです。作品を見ていて、学生時代にピカソの故郷・スペイン南部の港町マラガに半年滞在していた頃のことを思い出しました。青い空、地中海、闘牛場、カトリックの聖堂、イスラムの建築、フラメンコ、海の彼方のアフリカ・・・。アンダルシア地方には711年から約八百年近く、イスラム王朝が存在していました。アンダルシアのイスラム王朝は、キリスト教徒やユダヤ教徒に寛容であったといいます。
 私は駒澤大学で仏教学や坐禅を学んでいたのですが、マラガで「DOJO ZEN」(禅道場)なるものを見つけ、アパートの一室のその道場へ行ってみました。皆さんスペイン人でカトリック教徒でしたが、真剣に坐禅し、日本人と同じく玄奘三蔵法師訳の般若心経を呉音で読んでいました。それもそのはず、此処は澤木興道老師の弟子の弟子丸泰仙師がヨーロッパで広めた禅の道場の一つなのでした。当時の私は澤木老師ゆかりの駒大坐禅堂で坐していながら、弟子丸老師のことは初めて知ったのでした。以来、四半世紀近く使っている私の坐蒲は、マラガの道場で買ったものです。
 玄奘三蔵法師の「大唐西域記」に、観音さまは南インド海岸・普陀落山頂の天宮に往来されるが、山頂に行き着くことのできる人は少ない、しかし、山下の人々が祈願すれば自在天や塗灰外道の姿で示現される、と説かれています。観音さまは相手に応じ風土に応じて、あるいは自在天とも塗灰外道(身体に灰を塗った異教の行者)ともなり、あるいは慈母とも聖母ともなり、また白山権現とも阿蘇山権現ともなって、あらゆる人々を導いておられるのでした。
 下原から八田川沿いに桜並木をずっとくだってゆき、17時に朝宮に戻りました。


鳥居松にあったという鳥居、それは、篠木庄の氏神であった尾張白山社の鳥居であると同時に、北方・白山と南海普陀落山の間を遊化される観音さまの、無量無数の門の一つであるのかもしれません。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝