FC2ブログ

記事一覧

御坊主ヶ洞~仁王経塔~向山~仏岩巡拝

 「泰極まれば還た否を生じ、楽処また悲に逢う。」
半月毎に行じている白山鳩居峯五宿巡拝行は、5月は雪地獄も藪地獄もなく快適でありましたが、その分、心に緩みが生じてしまっているようです。初心に立ち返り、暴心を調え、曲心を直し、散心を定め、一心に三昧を行じてまいりたく思います。
 4月半ばより、鳩居峯巡拝時に千城ヶ滝や御坊主ヶ洞も巡拝しておりますが、以前から、御坊主ヶ洞にお供えしてある湯呑が割れてしまっているのが気にかかっていました。6月1日は、大永・享禄の頃(1528~1531)に此処で焼身供養を行じられた敬愚比丘のご命日(「長瀧寺真鑑正編」)。障害者の施設で作っている湯呑を奉納することにしました。
 5月22日朝7時、御坊主ヶ洞を登って敬愚比丘火定跡へ。湯呑を奉納して茶をお供えし、「法華経」薬王菩薩本事品と念仏をお唱えして比丘を供養しました。


「薬王菩薩本事品」には、薬王菩薩が前世に一切衆生喜見菩薩であった時、日月浄明徳仏の説かれた法華経を聞いて苦行し、現一切色身三昧を得、み仏と法華経を供養する為に焼身供養を行じたことが説かれています。
「是れを第一の施と名く。諸の施の中に於て最尊最上なり、法を以て諸の如来を供養するが故に」(「薬王菩薩本事品」)
敬愚比丘の当時は戦国乱世。栄枯盛衰する戦国大名や一向宗との関わりの中で衰運にあった白山中宮長瀧寺に於いて、敬愚比丘は仏法を命に代えても守ろうとした方でありました。それは、長瀧寺の一切経蔵(明治22年(1899)の大火で焼失)にあった敬愚比丘揮毫の制札にも表われています。
「当経蔵に於て、他所の人卒爾に入る事、停止せしむるもの也、仍って一山の衆議件の如し 永正十五年(1518)六月 日」(原漢文)(「長瀧寺真鑑正編」)
一切衆生喜見菩薩が、現一切色身三昧を得た後に焼身供養を行じ、再び日月浄明徳仏の国に生まれてみ仏の法を嗣ぎ、み仏の滅度の後に八万四千の塔を起てて舎利を供養し、さらに自らの臂を焼いて供養して人々に現一切色身三昧を得させたように、敬愚比丘の焼身供養も、けっして絶望による自殺などではなく、白山美濃馬場に仏法をして久しく住せしめん、との大願から為された行であったはずです。一切衆生喜見菩薩の身が千二百年燃え続けたように、敬愚比丘焼身供養の光明は約五百年、白山美濃馬場を照らし続けています。
 大岩壁を登って北の鉄塔へ。北に仏岩と大日ヶ岳を拝み、梵網菩薩戒経偈と大日如来ご真言をお唱えしました。


泰澄大師が白山を神仏習合の山として開いて、今年で千三百年。以来、千年以上に渡って白山の峯々に祀られてきた本地仏のお像は、明治の神仏分離の愚行によってすべて下山、あるいは破壊させられたのでした。130年以上に渡る避難生活を送り、未だに一度も山上に帰還できずにおられる本地仏。現在、白山の峯々の中でまともに仏像が祀られているのは、大日ヶ岳頂の大日如来のみでありましょう。泰澄大師に、申し訳がありません・・・。鉄塔から御坊主ヶ洞に戻る途中、西に、半月毎に巡拝している鳩居峯(三ノ宿、西山、毘沙門岳)を遥拝。


白山仏法衰運の当世、名利を求めず地道に行を続けてまいります。
 御坊主ヶ洞を下り、長良川右岸を南下。川沿いに「顕彰碑」があり、見てみると、明治初期に長良川からの取水の為に建設された「井の元頭首工」と「用水路」のおかげで、平成6年(1994)の日照りの際に農業用水が不足しなかったことから、先人の遺徳を顕彰したものでした。取水門上から見た長良川の取水堰。


二日町用水。


 長良川沿いにさらに南下、二つ目の橋を渡ると、お地蔵さまがおられました。藪化した踏み跡が北へ続いており、辿ってゆくと、樹間に長良川を見下ろす処に「仁王経塔」がありました。


弘化年間(1844~47)のもので、願主清水氏とあります。般若心経を読誦。「仁王般若波羅蜜経」は、お釈迦さまが波斯匿王に護国の法を説かれた経典で、国土が乱れ国が破滅せんとする時、仏法僧の三宝を供養してこの経を一日二回読誦せよ、とあります。その内容は、「盛者必衰、実者必虚」、如何なる国も無常・空なるものであって絶対の依り処となるものではなく、「一切皆空」「色即是空 空即是色」の般若(智慧)の教えを受持・読誦・解説するならば、七難即滅し七福即生するでろう、と説かれています。
 仁王経塔から東の谷筋に踏み跡が続いていました。


登ってゆくと、やがて林道に出ました。林道を一旦、南へ。高鷲側に下る林道との分岐に、峠のお地蔵さま。


さらに南へ進むと林道はあちこち土砂が崩れていましたが、西側には鳩居峯が拝めます。



樹間に、西山と毘沙門岳をバックに長瀧寺も拝めました。


林道終点の開けた小ピークからは樹間に、桧峠の奥に石徹白の山々。


藤の花もきれいです。


林道を戻り、717mピークの北から白鳥・高鷲境の尾根に付きました。尾根上にも、踏み跡が続いていました。
 往路に拝んだお地蔵さまから、さらに尾根を縦走。西からのそよ風。東の樹間に鷲ヶ岳、白尾山。やがて視界が開け、鷲ヶ岳の山並を一望。


しかし、此処から先は藪・・・向山への尾根から、はずれていました。谷から西へ登って正しい尾根に戻り、正午に向山登頂。


樹々で展望はありませんが、北側の藪中から樹越しに、大日ヶ岳と麓の鮎走白山神社、大洞川、奥の森などが見渡せました。


鮎走由緒書によれば、養老元年(717)6月1日、泰澄大師は助兵衛を道案内に大洞川沿いに大日ヶ岳へ登り、白山妙理大権現の本地仏として示現した大日如来の夢告を受け、山頂に大日如来を祀ったとのことです(「高鷲村史」)。二年前に登ったそのルートを一望しつつ、梵網菩薩戒経偈を誦して白山仏法興隆と、白山有縁の一切衆生の七難即滅七福即生を祈りました。大日如来、即ち毘盧遮那仏は、白山美濃馬場中宮長瀧寺の大講堂のご本尊でありました(明治22年(1899)の大火で焼失、大講堂は昭和11年(1936)再建)。また、白山加賀馬場の七社にあった講堂のご本尊でもありました(「白山之記」)。越前の平泉寺と豊原寺にあった大講堂のご本尊は、薬師如来でした。明治の神仏分離の愚行以後、白山三馬場で大講堂が存在するのは、長瀧寺のみです。
 藪中に暫し坐し、下山。尾根の踏み跡を西へと下ってゆくと、やがて鉄塔に出ます。鉄塔からさらに下って仏岩に参拝。


取り付く島もない滑らかな大岩壁の上部にある、真っ白な龕。此処は正にみ仏の御座所、凡夫の上がれる処ではありません。白龕を見上げつつ般若心経を読誦しました。み仏は、無相であればこそ無量の相をとることができます。無相であればこそ、不生にして不滅です。陽光とそよ風、藤の花、セミの声、カサコソと這うカナヘビ。一色一香、中道にあらざることなし。
 仏岩から下ってゆけば、鳩居五宿巡拝時に千城ヶ滝から御坊主ヶ洞へ登っている道に出ますが、仏岩から上にも鉄塔巡視路があり、今年の正月に歩きました。約半年ぶりにその道を辿ってみたのですが・・・途中で道を見失い、暑さに喉も渇き、薄藪をさ迷って下っては登り、ふと気がつくと、先ほど見たような景色・・・向山から仏岩へと下る時に通った尾根に戻ってしまっていました。西側の谷に下れば間違いはないので、谷へと降下。


水を浴びて喉を潤し、谷の向こうの林道に出ると、其処は、仏岩から下る道が林道に出る辺りなのでした。仏岩から下っていれば、こうも苦労しなくて済んだのですが・・・これもみ仏のお導き。15時半、朝方に仏岩を遥拝した鉄塔へと戻り、大日ヶ岳と仏岩を前に正身端坐。ヘトヘトに疲れて我は尽き、頭の中は真っ白。仏岩の白龕と、結んだ定印奥の丹田とが、相対していました。
「心と仏と及び衆生と、是の三、差別無し。」(「華厳経」)
白山権現に投地礼をし、心中にみ仏の白龕を持して御坊主ヶ洞へと降下。敬愚比丘に、今日の体験を感謝致しました。


 尽きることのない煩悩(貪り・怒り・愚かさ)、黒業、苦悩悲哀のさ中にあって、あらゆる色付けを超越するこの真っ白な心・戒(尸羅、シーラ)の心を、忘れてしまわぬようにしたいものです。

願わくは、白山権現に順って一心に三昧を行じ、煩悩・業・報の三障を法身・般若・解脱の三徳に転ぜんことを。

南無白山妙理大権現
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

白山順禮写真館

Haxanjunrei

松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝