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長崎・観音善財龍女巡礼

 先月(2017年4月)の当ブログ「蓮華峯寺~高山石~白谷観音堂巡礼」で、円空上人が彫った観音菩薩・善財童子・善女龍王(龍女)の三尊形式は当時の中国(明)では珍しいものではなく、日本にも長崎を通して黄檗寺院に祀られ、また、隠れキリシタンたちにマリア観音として祀られていたことを指摘しておきました。5月27日、お墓参りがてら、長崎の観音・善財・龍女三尊を巡拝してきました。
 夜行バスで長崎着、ご先祖さまと19年前に亡くなったわが子が眠るお墓に参拝。


此処からは寺の門と神社の鳥居と教会の塔が見え、「祈りの三角ゾーン」とも呼ばれていますが、もう一つ、大事な神さまを忘れてはなりません。


長崎のお墓に広く祀られている、土神さまです。土神(つちがみ、どしん)とは、土地神とも呼ばれる中国の民間信仰の神さまです。それぞれの土地を管轄する老人姿の神さまで、神位は低く、その分、土地の人々と近しい神さまであります。「西遊記」にも旅先の各地で土地神が現われていますが、皆、孫悟空にぶっ叩かれるのを怖れてペコペコしつつ、その土地の情報を孫行者に伝えたり、陰ながら三蔵法師一行をお守りしています。墓所を守っておられる土神さまに感謝し、地天ご真言をお唱えしました。
 お寺・神社と巡拝して、すぐお隣の大浦天主堂へ。


フランスから来られた聖母さまを拝み、キリシタン資料室へ。幼い頃からお墓参りのついでに何度となく拝観してきた、マリア観音さま。しかし、それが明~清代に福建省で造られた慈母観音像で、脇立が善財童子と龍女であることを知ったのは、最近のことでした。観音さまは相手に応じてありとあらゆる姿で法を説き、人々を救われるお方。合掌する善財童子は、「華厳経」入法界品に説かれる、文殊菩薩の教えに順って南方に五十三人の善知識を尋ねて求道遍歴し、普賢菩薩の許で得道された童子。宝珠を捧げ持つ龍女は、「法華経」提婆達多品に説かれる、龍宮で文殊菩薩が説かれた法華経を聞いて八歳で成道し、お釈迦さまに捧げた宝珠を釈尊が速やかに受け取られた如く、忽然として南方無垢世界に身を現じて法を説かれた童女。この三尊は、迫害弾圧されていた隠れキリシタンたちの為に聖母子と二聖人の姿となり、元治2年(1865)の大浦天主堂における「信徒発見」までの250年間、彼らをお守りしていたとも申せましょう。同様のマリア観音像が安政3年(1856)の「浦上三番崩れ」の際に多数押収され、現在、東京国立博物館に保管されています。

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0084096

南無大慈大悲救苦救難観世音菩薩。
 祈念坂から鍋冠山へと登ってゆく途中、白石稲荷や十一面観音さま、お地蔵さま等の石仏を巡拝。


鍋冠山からは眼下にグラバー園、大浦天主堂、孔子廟、さらに長崎市街方面が一望できました。


山を下って孔子廟に参拝。


中国歴代博物館に歴代皇帝の衣装や画像の展示があり、明朝最後の皇帝・崇禎帝のことも書かれてありました。崇禎17年(1644)李自成の順軍に攻略され北京陥落、紫禁城の北にある景山で自殺、明は滅亡した、とあります。
 東山手の洋館より、孔子廟越しに大浦天主堂や鍋冠山を遥拝。


オランダ坂から唐人屋敷跡へと向かいました。江戸幕府の鎖国政策により、寛永12年(1635)に中国船の入港は長崎に限定され、寛永16年(1639)には対外貿易がオランダと中国のみとなり、寛永18年(1641)にオランダ商館が平戸から出島に移されました。しかし、中国人たちは長崎市中に日本人と雑居できていました。元禄2年(1689)、ついに中国人たちも唐人屋敷に移住させられることとなりました。この時、唐人屋敷となった地に昔からいたという土神が、福建省泉州から来ていた人の夢に現われ、「公等若し我を祀らば我も亦公等に福徳を授けん」と告げたことから建てられたのが、土神堂です(「長崎市史地誌篇」)。


土神さまは、杖をついた老翁の姿。長崎市民がお墓に土神さまを祀る風習は、唐人屋敷から唐通事や帰化唐人を経て広まったもののようです(「中国文化と長崎」)。
 天后堂には、航海の神さまである媽祖(まそ、天上聖母)が祀られています。観音堂には、慈母観音・善財童子・龍女。准提観音さまもおられます。観音経と般若心経を誦し、世界の平和と長崎有縁の人々の七難即滅七福即生を祈りました。


 新地中華街から梅香崎神社、丸山を経て崇福寺に参拝。


寛永6年(1629)、長崎在留の福州人たちにより建立された寺で、興福寺・福済寺と並ぶ長崎唐寺「三福寺」の一つ。明から承応3年(1654)に長崎に渡来した隠元禅師は翌年、崇福寺に晋山しています。此処でもまた、観音さまと善財童子・龍女を拝むことができました。観音堂の左手(向かって右)には関聖帝君、右手には韋駄天菩薩。大雄宝殿・媽祖堂と巡拝して裏手の山に登り、隠元禅師の寿塔や即非禅師舎利塔に参拝。さらに墓地を上り下りし、ある方のお墓を探し回りました。ようやく辿り着いたのは、仏師・范道生(はんどうせい)のお墓。


参拝する方もあまりおられないのか、何もお供えされていませんでした。手元に何もなかったので、葉を手向けて念仏をお称えしました。范道生は福建省泉州府安平の出身、万治3年(1660)に渡来して福済寺や興福寺で仏像を制作し、京都宇治に萬福寺を開いた隠元禅師の要請により、萬福寺禅堂の白衣観音坐像・善財童子立像・八歳龍女立像、大雄宝殿の十八羅漢像をはじめとする諸尊の像を造りました。その後、安南(ベトナム)にいた父の古稀を祝う為に一旦日本を離れ、寛文10年(1670)に再度渡来したものの、上陸が許されないまま36才の若さで船中で亡くなってしまったのでした。
 崇福寺売店には、中国の仏像や仏画などもあり、此処でも観音さまと善財童子・龍女にお会いできました。仏画を一枚購入。


観音さまと善財童子・龍女の画は、隠元禅師の賛がある明の陳賢筆「観音図画帖」にもありますし、同じく萬福寺に伝わる元代の宮廷画家・王振鵬の「五百羅漢図巻」にもあります。羅漢たちが朝する潮音洞と思しき窟の前に観音さまが坐し、左右に善財童子と龍女が侍しています。空中には白鸚鵡と韋駄天。「西遊記」では、孫悟空が難に遭遇すると、度々観音さまの助けを求めて南海普陀落伽山へ筋斗雲を飛ばして参詣していますが、其処でいつも観音さまのお側に侍しているのは、恵岸行者、龍女(捧珠龍女・善財龍女とも呼ばれています)、白鸚哥、そして、紅孩児が観音さまの法力によって(孫悟空たちと同様)悪を離れ善に帰した、善財童子です。中国の観音・善財・龍女信仰は、中国の民間信仰や道教と習合しているようですが、それは日本も同じこと。相手に応じた姿・方法で人々の苦難を救うのが仏・菩薩です。その本地は、何処でも変わりありません。


 続いて、興福寺に参拝。


南京地方出身の人々によって建てられ、承応3年(1654)に渡海した隠元禅師が晋山しています。韋駄天像は、范道生の作と伝わるそうです。興福寺から一覧橋を渡って聖福寺を経、福済寺へ。福建省の泉州や漳州の人たちによって建てられました。原爆で全焼してしまった福済寺。


かつての青蓮堂正面壇上には観音菩薩坐像、脇立は善財童子と龍女、さらに韋駄天と毘沙門天が祀られていました。青蓮堂左壇には媽祖、右壇には関帝(「長崎市史地誌篇」)。霊亀の上に立たれる慈母観音さま(長崎観音)の下の霊廟にて、原爆殉難者のご冥福と、世界の平和をお祈りしました。後で訪れた長崎歴史文化博物館に、戦前の福済寺の復元模型がありました。


向かって右が青蓮堂、左が大雄宝殿です。
 続いて、西坂の二十六聖人殉教跡へ。


慶長元年(1597)、豊臣秀吉の命を受け、この丘で二十六人のキリシタンが処刑されました。大浦天主堂は、この二十六聖人に捧げられています。命に代えても信仰を守った聖人たちに掌を合わせ、記念館へ。此処でも、聖母子と二聖人の像(マリア観音)、即ち慈母観音さまと善財童子・龍女を拝むことができました。「観音経」には、もし観世音菩薩を一時でも礼拝供養するなら、その無量無辺の福徳は究め尽くすことができない、とあります。観音・善財・龍女の三尊は長崎に於いて、中国から来た人々、隠れキリシタン、長崎を訪れた日本人それぞれに応じた姿を現わし、無畏を施しておられたのでした。南無大慈大悲救苦救難観世音菩薩。
 市電で蛍茶屋まで行き、本河内へ。かつての長崎街道一の瀬口付近には、石仏や供養塔がたくさんあります。街道沿いに東へ進んでゆくと小さめの宝篋印塔が現われ、次いで少し大きめの「青銅塔」。享保6年(1721)の大雨洪水の死者供養の為、下野(しもつけ)の木食僧(火食・肉食を避け、木の実や草のみを食べる僧)・観心が建てた宝篋印塔です。さらに進むと、巨大な宝篋印塔が現われました。


文化8年(1811)に肥後出身の天台僧・豪潮律師が建てた塔です。宝篋印塔は中に「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼」を納めた塔で、中国の呉越王・銭弘俶が仏法弘通の為に顕徳2年(955)から鋳造を始めた八万四千の小塔(金塗塔)に由来します。豪潮律師は寛政7年(1795)に八万四千の宝篋印塔造立を発願、九州を中心に全国に二千基程起てたと伝わります。白山中宮長瀧寺にも律師が最晩年に起てた宝篋印塔があり、半月毎の行の際に拝んでおります。宝篋印陀羅尼を誦し、長崎及び白山有縁の人々の息災延命、熊本地震復興成就を祈願しました。
 高台の修道院側に少し登ると、一の瀬無縁塔がありました。


寛文2年(1662)に長崎で天然痘が流行し、特に生後間もない子供たちが多く亡くなったので、供養の為に崇福寺の即非禅師(隠元禅師の弟子、明暦3年(1657)渡来)の偈を刻んで建てられた塔です。念仏をお称えし、亡くなった多くの童男童女たちと共に、19年前に生後間もなく亡くなったわが子の菩提を弔いました。
 市街地に戻って西坂を下り、かつて曾祖父と祖父が経営していた鉄工所のあった旧瀬崎町へ。


爆心地から約二キロ南にあった鉄工所は、原爆投下前に強制疎開地(建物疎開)となっていました。原爆投下時に建物が残っていたのかは、定かではありません。苦難をくぐり抜けて私へと命をつないで下さったご先祖さまに、思いを馳せました。
 明代の中国からわが国に伝わってきたと思われる、観音・善財・龍女の三尊像。「マリア観音」には、福建省・徳化窯の白磁の慈母観音像の他に、顔や姿がより日本人風で、キリスト教的表現もある、平戸焼のものがあります。隠れキリシタンたちが、中国の観音・善財・龍女像を和風の聖母子像として表現したものです。同様のことが、日本の仏師たちにもあったかもしれません。黄檗宗の渡来僧や范道生などの仏師を通じてわが国に伝わってきた、中国の仏像・仏画。円空上人の観音・善財童子・善女龍王の三尊像は、その和風の表現の一つなのかもしれません。
 円空上人が長崎を訪れたことがあるかどうかは分かりませんが、円空上人は寛文9年(1669)、明から帰化した張振甫が尾張名古屋に建てた鉈薬師堂の諸尊を彫っています。「黄檗和尚太和集」には、隠元禅師が張振甫に示した語があります。これらのことについては、また後日書くことになるでしょう。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝