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白山鳩居五宿・白山先徳巡拝

 半月ごとに行じている、白山美濃馬場中宮長瀧寺から尾根伝いの古の行場「白山鳩居峯十宿」中の、五宿巡拝行。前日に梵網経の十重禁戒・四十八軽戒を読誦。

仏、諸の菩薩に告げて言はく、我れ今半月半月に、自ら諸仏の法戒を誦す、汝等一切の発心の菩薩、乃至十発趣、十長養、十金剛、十地の諸菩薩も亦誦せよ。(「梵網経」)

「戒は大灯明の如く、また大地の如し。」(豪潮律師)

 6月16日朝、作務衣に白足袋姿で入峯。行中は余計な物は持たず、食わず・座らず・撮らず、呼吸と歩調と念仏を合わせて一心に歩いておりますが、今日は入峯前に写真を撮らせていただきました。


長瀧寺大講堂の前に起つ、豪潮律師の宝篋印塔。豪潮律師は寛延2年(1749)6月18日、肥後・玉名郡の浄土真宗の寺に次男として生まれました。七歳の時に玉名の天台宗・寿福寺の豪旭法印より得度を受け、十五歳で比叡山に登り、その後十二年籠山。安永5年(1776)に寿福寺の本師が遷化せられ、肥後に帰って跡を継ぎました。律師は道心堅固で安眠を貪ることなく禅定を修し、蚊帳を用いず蚊に血を施し、准提観音の秘法を成就する為に焼臂等の苦行を修せられました。文化14年(1817)に尾張藩主・徳川斉朝の懇望により病の加持をし、平癒。斉朝は律師を肥後藩より貰い受け、文政2年(1819)に知多郡の岩屋寺に請じて中興させ、さらに文政6年(1823)、名古屋・柳原に泰澄大師開山の長栄寺(元は東郷村の諸輪にあった)を再興させています。(「豪潮律師畧伝」)
 豪潮律師は四十七歳の寛政7年(1795)に宝篋印塔八万四千建立の発願をされました(玉名市立歴史博物館こころピア「第一回豪潮展」)。宝篋印塔とは、インドのアショーカ王(阿育王)が建てた八万四千の舎利塔に因み、中国の呉越国王・銭弘俶が仏法弘通の為に顕徳2年(955)より造り始めた小塔(金塗塔)に由来し、中には仏舎利の代わりに「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼」が納められています。豪潮律師は大小合わせて二千基ほど建てたそうですが(「第一回豪潮展」)、長瀧寺の塔のような巨大なものが九州を中心に各地に残っています。先日、長崎・本河内で参拝した豪潮律師宝篋印塔(文化8年(1811)建立)。


昨年(2016年)、阿蘇の西巌殿寺で拝んだ宝篋印塔(文化2年(1805)建立)。


長瀧寺の塔は天保4年(1833)、律師示寂の二年前に建てられたものです。宝篋印陀羅尼を誦し、豪潮律師の遺徳を偲びました。

経曰 能於此塔 一香一花 礼拝供養 八十億劫 生死重罪 一時消滅

 長瀧寺からいつものように入峯、星を散りばめたような小紫陽花と真っ白な銀龍草を拝みつつ、40分程で一ノ宿参拝。以前奉納した障害者の施設で作った湯呑に、千蛇ヶ清水をお供えして般若心経と本地・不動明王ご真言を読誦。白山有縁の一切衆生、および施設の皆さんの七難即滅七福即生を祈りました。越美国境尾根に出ると、清涼な西風。一ノ宿から一時間少しで二ノ宿着(本地釈迦如来)、大日ヶ岳を遥拝しつつ如来寿量品偈を読誦しました。三ノ宿へと登ってゆくと、藪中をシカが駈けてゆきました。空梅雨の為か、沢の水は少ないです。二ノ宿から一時間ちょっとで三ノ宿(三角点)登頂、南に高賀山、北には残雪の白山がくっきりと姿を現わしていました。別山(本地聖観音菩薩)と御前峰(本地十一面観音菩薩)の中央奥に大汝峰(本地阿弥陀如来)の、阿弥陀三尊。白山加賀馬場・笥笠中宮神宮寺の西因上人の願文(保安2年(1121))と念仏をお称えしました。

弥陀の白毫一たび照らさば、煩悩の黒業悉く除かれん。然れば則ち誰か観音の金台に登らざらんや。なんぞ安養の宝池に詣でざらんや。(藤原敦光「白山上人縁記」)

西因上人は肥前国松浦郡の出身、十四歳で出家して比叡山に登った後、各地で難行苦行の末に白山に到り、笥笠神宮寺に金色の阿弥陀如来像を祀って昼夜不断の念仏三昧行を発願されたのでした。松浦郡には唐津と筑前境の浮嶽、平戸の安満嶽など、白山妙理大権現が祀られていた山々があり、安満嶽は養老2年(718)泰澄大師の開山と伝わります(「安満嶽縁起」)。西因上人が西海から白山に至ったのも、こうした縁があってのことであり、また、上人が白山三所権現を阿弥陀三尊として拝んだことは、末法末世の私たちにとって実に有難いことと申せましょう。
 三ノ宿を下って、西山へ。快晴ですが風は涼しく、爽やかです。作業道から西山頂へ、笹藪に突入。藪はしっかりしてきました。三ノ宿から一時間強で西山登頂、樹間に残雪の別山を拝みつつ、凄まじい藪を降下。蔓が絡まって頭陀袋の紐がとれました(よくあることです)。西山から45分程で多和ノ宿に参拝。般若心経と本地・毘沙門天王ご真言をお唱えし、毘沙門岳へと毘沙門谷を登ってゆきました。普段から水のない谷は天然の山道、谷の上部は体を入れる隙間もない笹藪ですが、半月ごとに藪漕ぎしている為か、古くて固いポキポキの笹は覚悟していたよりは疎ら、その間にまだ若くてしなやか笹が伸びてきています。若笹はまだまだ私の相手ではなく、なるべく折らぬよう注意して登ってゆきました。私の腕や脛に傷を残すような、物干し竿の如き立派な笹藪に育ってほしいものです。
 お昼すぎに藪から毘沙門岳頂に出ました。南から南西に、高賀山・滝波山・美濃平家岳・平家岳・伊吹山・屏風山・能郷白山。アゲハチョウが舞っていました。登山道を下ってゆくと、大日ヶ岳の右奥に残雪の北アルプスと乗鞍岳、やがて正面に別山が南白山と三ノ峰を従えて鎮座。両翼には大日ヶ岳と石徹白の峰々。御前峰は雲に隠れていました。南面する別山と南白山・三ノ峰に、観音さまと善財童子・龍女を拝みました。桧峠に下り、泰澄大師像に参拝。般若心経と大師ご宝号をお唱えし、千三百年前(養老元年(717))に白山を神仏習合の山として、観音弥陀の霊場として開かれた大師の大恩を念いました。
 毘沙門岳から一時間半程で国境ノ宿(国坂ノ宿)参拝、観音経と本地・十一面観音さまのご真言をお唱えし、白山有縁の生きとし生けるものの幸せと、白山仏法興隆を祈願。旧桧峠から禅定道を降下、転落防止のロープが張られるなど、山道が整備されていました。白山開山千三百年に相応しい事業です。前谷から旧桧峠までの美濃禅定道は、谷沿いの静かで気持ちのよい古道です。
 峠から吹き下ろす清涼な西風、せせらぎの音、吸う息吐く息、一足一足、すべてがそのまま念仏です。前谷から悲願寺へ下り、長良川を渡って千城ヶ滝から鉄塔へ。北に大日ヶ岳、手前に仏岩、西日と西風。かつて長瀧寺大講堂に祀られていた大日如来・釈迦如来・阿弥陀如来の三尊を念いました。この三尊は法身・応身・報身の仏の三身、三身は即ち一つです。御坊主ヶ洞に下り、戦国時代に敬愚比丘が焼身供養を行じられた地に西面して念仏をお称えし、白山有縁の生きとし生けるものの現当二世安楽を祈りました。御坊主ヶ洞も、水が少なめでした。麓に下ると、水田に煌めく無数の陽光。無量無数にして一つのみ仏に掌を合わせ、十七時に長瀧寺に戻りました。入峯して十時間半でした。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝