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筑前肥前白山順礼2/安満岳

 7月18日朝5時、平戸の最教寺に参拝。「西高野山」の額が掛かる奥之院の手前、大日如来像の隣に、宝篋印塔がありました。


背銘によれば、享和元年(1801)に豪潮律師が施主の需めに応じて、他の三面にある「宝篋印陀羅尼経」の経文を書写しています。


肥後国玉名郡出身の天台僧・豪潮律師が八万四千建立の発願をされて最初に起てた宝篋印塔は、享和2年(1802)、肥前・基山の大興善寺の塔とされています(玉名市立歴史博物館こころピア「第一回豪潮展」)。平戸最教寺に造塔安置されたのも、ほぼ同じ頃でしょう。塔前にて宝篋印陀羅尼を誦し、二週間前の九州北部豪雨、および昨年の熊本地震で被災された方々の為にお祈りしました。豪潮律師は熊本、阿蘇、日田、英彦山等々、九州各地に宝篋印塔を建立しています。
 最教寺から港に出て平戸城を望み、教会坂を上へ。


ザビエル記念教会にて暫し黙想しました。


天文18年(1549)、ゴアを出航して鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエル神父一行は、翌年、ポルトガル船が碇泊していた平戸に移り、ザビエル神父はトルレス神父を平戸に残し、コルドバ出身のファン・フェルナンデス修道士を連れて山口へと歩いて出発したのでした。ルイス・フロイス神父の「日本史」には、この時の旅の困苦は、後に日本に布教に来る人々に「手本を与えるために日本に据えた発端であり、基礎であった」(柳谷武夫訳)と書かれています。


 教会から丘を下って、県道を歩いてゆくと、やがて右手に古江湾が見えてきました。


建久2年(1191)、二度目の入宋で虚庵懐敞禅師より臨済宗黄龍派の禅を嗣法した栄西禅師は、四年の掛塔を終えて明州(寧波)を出航し、この港に入港したのでありました。前方には、雲を纏った安満岳(やすまんだけ)。


6時半に千光禅寺に参拝。博多の聖福寺と同じく「扶桑最初禅窟」の額が掛かっていました。


千光寺から海側へ下り、冨春庵跡に参拝。


栄西禅師が日本で初めて禅の教えを説かれた処です。側には、栄西禅師の座禅石。


平戸は日本における禅の発端であり、また、キリスト教の発端でもあります。栄西禅師もザビエル神父も、平戸から京、東国へと教えを弘めていったのでした。
 「安満嶽縁起」に、葉上僧正(栄西禅師)が入宋の際、香合の中に白山妙理大菩薩を勧請して頭に懸けていたこと、禅を嗣法して帰朝の後、博多聖福寺に報恩の為に白山妙理大権現を勧請したこと、さらに京都・建仁寺、鎌倉・寿福寺にも白山権現を「良久大明神」として勧請したことが記されています。良久大明神とは、楽大明神のことでしょう。冨春庵にて般若心経と白山権現ご真言・ご宝号、千光祖師(栄西禅師)ご宝号をお唱えし、生きとし生けるものの超生死海・到涅槃岸をお祈りしました。
 安満岳参道がある山野へと行道、雨がパラつくもすぐに止み、山上の雲も薄くなってきました。


8時に登山口着。


「安満嶽縁起」によれば、安満岳は養老2年(718)3月18日、泰澄大師が白山妙理大菩薩本地十一面観音菩薩を祀って開かれた山です。「縁起」には、「泰澄和尚伝記」にある養老元年(717)の白山三所権現開山伝承(「越前」が「加賀」となっていたり、別山と大汝峰が逆になったりしていますが)に続いて、泰澄大師が白山天嶺より遥かに西方を望見すると、千里の彼方に殊勝の霊地があることを見、筑紫に下って安満岳を開かれた、と書かれています。鳥居をくぐると、少し荒れてはいるものの、参道がしっかりと続いていました。


 沢があり、洗面して口を漱ぎました。


此処から先は、山道がどうも不明瞭です・・・。沢沿いに右岸を登ってゆくと、藪となりました。昨日登拝した浮嶽では藪漕ぎも想定していたので、長袖でした。が、今日はさほど高い山ではなく藪も想定していなかったので、半袖です。日頃、奥美濃や奥越の笹藪・ツル藪に慣れているとはいえ、ツルにイバラが混じり出したのには参りました。早くも腕は傷だらけ、ズボンもドロドロです。


一時間程で藪中のピークに出ましたが、樹々で視界が得られず、何処なのかさっぱり分かりません。南側に下ると作業道があり、東側にはいくつも作業道が分岐しています。あちこちさ迷い登り降りしたあげく、一時間程して再び、藪中の先程のピークに戻ってきました。


当初の予定では、もうとっくに下山している時間です。曇ってさほど暑くないのがせめてもの救い。はからいを捨て、白山権現のお導きに任せて作業道を下ることにしました。
 下ってゆくと、やがて車道に出ました。出発した山野の登山口は安満岳の東側ですが、安満岳の南側にも登山口があり、車道が通じています。どうやらその道のようですが、標識もなく定かではありません。少し登ると道路工事をやっており、新しい道路なのか?とますます確信が持てなくなり、道路を下ってゆきました。すると九州自然歩道の標識が現われ、この道が安満岳南の登山口に通じていることがハッキリしました。私がさ迷っていた藪山は、安満岳南峰のさらに東のピークであったのです。
 道が開けたからには、あとは一心に念仏行道。車道を登り直して南登山口から遊歩道を登り、山頂手前で東からの参道と合流。アサギマダラたちが舞う参道を登り、正午前に山頂の安満岳白山宮に参拝しました。


一時間あれば登れる処に、イバラの道を歩ませて四時間かけて登拝させる、白山妙理大権現の思し召し。般若心経と白山三所権現ご真言・ご宝号、泰澄大師・西因上人・栄西禅師ご宝号をお唱えし、白山有縁の一切衆生と共に生死の苦海を超え、涅槃の岸に到らんことを祈りました。岩場に出ると、西から霧が吹き上げていました。


しばらくすると霧が晴れてきて、北西に生月島が見下ろせました。


生月大橋の手前辺りの白石は、ザビエル神父に山口で出会って改宗した盲目の琵琶法師・ロレンソ修道士の故郷です。西方から南西には、五島列島の島かげ。


岩上に西面して立ち、西因上人の願文と念仏をお唱えしました。
「娑婆世界、極楽国土と浄穢異なりと雖も、機縁甚だ深し。其の中、我が日本国は、仏法、他境より繁昌す。是を以て、辺鄙下賤の人民たりと雖も、誰か見仏聞法の功徳無からん。」
 ルイス・フロイス神父の「日本史」に、「ヤスマダキ」(安満岳西禅寺)は平戸の僧侶の頭であり、大司教のようなものであった、と記されています。安満岳の麓で生まれ育った元琵琶法師のロレンソ修道士も、安満岳の白山信仰について知っていたことでしょう。元亀2年(1571)、フランシスコ・カブラル神父がルイス・フロイス神父・ロレンソ修道士と共に岐阜に織田信長を訪問した際、信長はロレンソ修道士に、日本の神について、また伊弉諾・伊弉冊が日本の最初の住人であったということについてどう思うか、と尋ねました。信長はロレンソ修道士の答えに満足して喜び、神父たちと信長を引き合わせた林佐渡守に「予はぱあでれどもの教えと予の心とは何等相違ないことを白山権現にかけて其方に誓う」と言っています(フロイス「日本史」柳谷武夫訳)。この時、ロレンソ修道士がどう答えたのかは記されていませんが、「日本史」の他の記述から推測するならば、日本の神々は人間と同じく生死する被造物にすぎず、人間を救うことはできない、と説いたことでしょう。また、伊弉諾尊は白山妙理大権現の垂迹のお姿であり、本地は十一面観音菩薩です(「泰澄和尚伝記」「安満嶽縁起」)。ロレンソ修道士は、美濃・尾張で広く信仰されていた白山権現についても信長に語り、日本の神も仏も白山権現も、下級被造物にすぎないと説いたのかもしれません。信長が喜んだのは、当時、比叡山延暦寺や本願寺、長島一向一揆、越前・朝倉氏と北近江・浅井氏の連合などの「包囲網」に苦戦を強いられていた彼にとって、日本の神仏の権威の否定が好都合であったからでしょうか。また、「白山権現にかけて」という起請文風の言い回しには、信長がキリシタンの教えを全面的に受け容れているわけではないことも感じられます。信長は同年6月、白山三所権現の一つ・別山大行事権現に鰐口を奉納しており、9月には比叡山延暦寺を焼き討ちしています。
 岩場から白山宮に戻り、祝福しつつ舞うアサギマダラに掌を合わせました。栄西禅師やザビエル神父と同様、彼女たちも海を渡って此処に来たのでしょう。


白山妙理大権現、それは、私にとって不生不滅の実相です。姿かたちも声も香りもなく、しかも、様々な姿かたち、音や響き、香りなどを仮りて到る処に普門示現し、煩悩・業・苦しみ深き私を導いてくださいます。そもそも、斯様な順礼登拝を無事に行じることは、白山権現との一対一の対話・感応道交なくしては不可能です。白山妙理大権現とは私にとって最期の依り処であり、南無阿弥陀仏です。

「白山の二字、加賀の天嶺に限るべからず。」(「安満嶽縁起」)

 山頂から東へ、参道を降下。荒れた処もありますが、明瞭な古道が続いています。登りに何故、道を見失ったのか不思議なくらいでしたが、やがて右下に沢。天保11年(1840)造立の「白山大権現」と書かれた鳥居をくぐると、朝に洗面し口を漱いだ沢に出ました。


すべては、ハッキリしました。朝は此処から右岸を登りましたが、この沢は垢離取場で、参道は沢を渡って左岸に続いていたのでした。沢で汗や汚れを洗い流し、山頂から三十分程で山野の登山口着。バス停付近から安満岳を遥拝しました。


路線バスを乗り継いでたびら平戸口駅に無事戻り、ドロドロズボンに傷だらけの腕も露わに、東へと帰路につきました。すべては、白山妙理大権現の思し召しのままに。

南無白山妙理大権現
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝